夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

江越弘人・著の『長崎の歴史』、この地の歴史を学ぶには突出した優良書、と確信を深め・・。

2011-08-09 23:45:45 | 読書、小説・随筆
私は本日の9日は、かの大戦の敗戦の直前時に、
長崎に原子爆弾が投下された『長崎被爆』した日でもあり、
ぼんやりと長崎県のことを思いを馳せたりしていた。

そして本棚から、一冊の本を取りだして、再読したりしていた。
江越弘人・著の『長崎の歴史』(弦書房)の本であるが、
一昨年の2009年2月下旬に、私は家内と家内の母と3人で、長崎・雲仙に8泊9日で訪れた時に、
私なりに独りで長崎の街並みを歩き廻ったりし、買い求めた一冊である。


『長崎歴史文化博物館』の展示品を拝見した時、
私は長崎県に纏(まつ)わる通史を学びたくて、館内の売店に寄った。

私は小説、随筆はもとより、現代史、歴史書が読むのが好きであるが、
長崎県に伴い、断片的な歴史人物、事柄については、
江戸時代から明治初期の頃までは、少しは知っているつもりであったが、
整然とした通史は無知であった。

こうした心情で、売店の入ったのであるが、
やはり『長崎歴史文化博物館』の館内の売店でもあり、
長崎県に関しての多くの本が並んでいた。

私はこの中で、ひとつの本を取り,パラパラと目次を見たのであるが、
『原始・古代』より、終期にはキリスト教の布教が始まる『中世』、
長崎開港、鎖国に伴う日本の随一の窓口となった異国との交流の『近世』、
明治時代から原爆被災時の『近代』、そして敗戦後から今日までの『現代』
と明示されたいたので、
まぎれなく通史の一冊である、と本書を買い求めたのである。

この本は、本の帯の表には、

《 どこから読んでもおもしろい。》 

《 古代から現代まで、新しい視点と解釈で
  200項目のトピックスが語る長崎の通史。 》

と書かれていたる。


私は江戸時代から、少し読み始めたのであるが、
その人物の息づかい、そして優しいまなざしで綴られていたことに、
行間から感じ始めたりしたので、
未知の著作者の略歴を読んだのである。

《・・ 
江越弘人(えごし・ひろと)

昭和10年、長崎市(旧・高浜村)生まれ。
昭和34年、長崎大学学芸学部卒業。
長崎県公立学校教員(小学校)を歴任。
平成8年、定年退職(最終勤務校、長崎市立鳴見台小学校)

現代、長崎の歴史と史跡について講演やガイドを精力的に行っている。
・・》

この後は、このお方の著作された2冊の本が明記されていたのである。


私はこのお方の人生の軌跡に、
小学校の教師をしながら、長崎の歴史をくまなく学ばれた長い歳月に思いを馳せると、
感動をさせられたのである。


この本のたったひとつの事柄の記載を読めば、
教科書にあるような専門の大学教授が書かれた内容、
或いはその地方に多くいる郷土史家たちの愛着心よりも、
遙かにその事柄の人物の生き生きとした状況が感じられ、
行間からは当事者の息づかいまで感じさせられ、圧倒的に凌駕している。


このように感銘を受けながら、その当時の事柄を拝読し続けたのである・・。

読了した後、
改めて、この本の『まえがき』、『あとがき』を読んだりしたのである。
この著作者の思いは、
本の帯の裏に集約した言葉が掲載されている。

《・・
長崎の地は、昔も今も決して暮らしやすい土地ではない。
様々なハンディキャップを抱いた地域である。
その中で、先人たちは、必死に努力し、業績を挙げ、
或いは挫折しながらも、郷土長崎を
日本の特色ある地域に育て上げてきた。

私は本書を著すに当たって、
長崎という土地に生きた人間に焦点を当たることにした。

・・(略)・・

「まえがき」より
・・》

私はこの著作者の発露された言葉は、
まぎれなく事柄の当事者までの息づかいを感じることができたのは、
筆力はもとより、この著作者の良き人柄から発露されている、確信したのである。


このように最初に読んだ時、深く感じたりした・・。

今回、再読したが、改めて強く感じられたのは、この本書を精読した後、
長崎の街並みを散策すれば、更に深い思いを重ねることができるのは、
もとより言うまでもないことである。


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長崎に向かい、私は黙祷を終えた後、永井隆(ながい・たかし)氏の遺(のこ)された言葉をかみ締め・・。

2011-08-09 13:56:41 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
今朝、洗面した後、主庭のテラスに下り立ち、襟を正して、
長崎の方に向かい、手を合わせながら黙祷したのは朝の7時過ぎであった。

過日の6月23日の沖縄戦が事実上集結した『沖縄慰霊の日』、
8月6日のアメリカが人類史上初めて広島に原子爆弾が投下された『広島被爆』、
そして本日の9日、長崎に原子爆弾が投下された『長崎被爆』、
まもなく迎える15日の終戦記念日と称している『敗戦記念日』、
この日には、手を合わせながら黙祷をして35年になる。

かの大戦の終末時、アメリカは広島に8月6日午前8時15分に人類史上初めて原子爆弾が投下され、
少なくとも15万人の人が即死した。
そして、長崎は8月9日午前11時2分に投下され、8万人以上の人が即死した。
このことは勝利したアメリカの国の歴史をどのように描いても、厳然たる事実である。


私は1944(昭和19)年9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
敗戦となった8月15日からは、ほぼ一年前になるので、
戦争を知らない世代となるが、国民の責務のひとりとして、
かの大戦で余りにも多くの方たちが亡くなわれて人々に哀悼の意を表して、
黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。

そして私はいつも感じることは、若き10、20代の少なくとも日本の国民の方には、
こうした現実が過去の日本にあった、と認識して欲しい、
固く願っているひとりである。


私は過ぎし一昨年の2009(平成19)年2月中旬の時、
家内の母は、戦時中の時は、新潟の高田町(現在・上越市)で青春期の時に、
多くの同級生と共に軍事工場に働き過ごした身であるが、
『生きているうちに・・一度は長崎の『原爆資料館』を観てみたいわ・・』、
と要望されたので、私達夫婦と家内の母の3人で長崎を訪れた。

私は家内たちとは別行動で、独りで長崎の各所を拝観したりした。
こうした中で、私は何かしら後ろめたいような心情で、長崎の『原爆資料館』に初めて訪れた。

そして、改めて過酷な実態を知り、その当時のことはもとより、
被爆された後からも、心身ともに苦痛な日々を過ごされている人たちを思うと、
私は『原爆資料館』を辞する時、涙があふれた・・。

この後は、未知の長崎医学大学の前を歩いたりし、
初めて訪れる『長崎市 永井隆記念館』を探し求めながら、
小春日和の中を独り歩いたのである。


私は1944(昭和19)年9月に東京の郊外で生を受けたが、
1950(昭和25)年の頃に、自宅のラジオから『長崎の鐘』がよく流れてきた・・。

♪こよなく晴れた 青空を
 悲しと思う せつなさよ
 うねりの波の 人の世に
 はかなく生きる 野の花よ

【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】

私は5歳の幼児であったが、何かしら物悲しく感じたりした。

♪なぐさめ はげまし 長崎の
 ああ 長崎の鐘が鳴る

【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】

ここまで聴いていると、いじけた幼児の私でも涙があふれてきた・・。

確か翌年の夏だったと思われるが、近くの寺院の境内で、映画が放映された。
この頃の時代は、学校の校庭とかで、スクリーンを張って、ときたま映画が放映されていた。
娯楽の乏しかった時代、ご近所の方達が集まって、
このような催しが行われた時代でもあった。

近くの寺院の境内で上映されたのは、映画の『長崎の鐘』であった。

母に連れられて、初めて観た映画だった。

帰路、満天の星空が綺麗だった、ということが今でも残っている。

映画のストリーは忘れてしまったけれど、幾つになっても、藤山一郎の歌声を聴くと、
私は涙ぐんだりしている。


私は後年になると、作詞はサトウハチロー、作曲方は古関祐而と知るのであったが、
肝心な『長崎の鐘』という原作を書かれた永井隆(ながい・たかし)氏は無知であった。

その後、私は永井隆氏の名を知ったのは、遅ればながら高校二年の時で、
1962(昭和37)年であった。
そして、このお方の少しばかりであったが人生経路を初めて知り、涙で曇った。


♪召されて妻は 天国へ
 別れてひとり 旅立ちぬ
 かたみに残る ロザリオの
 鎖に白き わが涙

【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】


ここまで転記させて頂いているが、著者の永井隆氏の人生の軌跡を思い馳せると、
瞼(まぶた)が熱くなってしまう。


国家の国益という怜悧の中、アメリカは広島に続き、長崎にも原子爆弾を投下した。

思えば、7月26日に於いて、アメリカ、イギリス、ソビエトの首脳により、
『ポッタム宣言』で日本に降伏を勧告したが、
日本政府と軍の首脳部が混迷し、黙殺した結果となり、
8月6日に広島に続き、9日に長崎に投下された。

こうした事実を少しづつ知りはじめると、
なお一層、この歌は悲劇を通り過ぎて、悲惨な過去の実態にうっすらと涙を浮かべる。


このような思いもあったりし、
この時に長崎の旅行の旅立つ数週間前に、ネットで『永井隆博士の生涯』などを詳細に学んだりした。

そして、何よりも衝撃を受けたのは、
長崎医大物理療法科の部長の時を含め、
この当時、劣悪なレントゲン機器の状況となった中で、責務として数多く撮った結果、
当人の永井隆自身がラジウムの放射線で白血病となり、
1945年(昭和20)年6月に余命3年と診断された、ということであった。

そして永井隆氏は、妻に自身の余命を告げるのであるが、
この時の心情に思い馳せれば、私は涙を流した・・。


館内の展示品を拝見しながら、
この後の原爆投下後の状況、そして無念ながら亡くなるまでの永井隆氏の軌跡に、
改めて感銘を受けたのであった。

そして館を辞する直前、私は書籍の即売コーナーで、
恥ずかしながら未読であった『長崎の鐘』(アルバ文庫)を購入した。

館を辞した後、市電の駅に向う途中で、小公園の石のベンチに座り、
永井隆氏の遺(のこ)された言葉が深く思いだしていた・・。

『この子を残して』の書物の『父性愛』と題された一節に於き、
《・・
この子を残して・・・・・
この世をやがて私は去らねばならぬのか!

母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、
私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさない心のいじらしさ。

戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取りとめたものの、
それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか?・・・・・・
・・》

『平和塔』の書物の『如己堂』と題された中に於いては、
《・・
如己堂は、2畳ひと間きりの家、北側の壁に香台、本だなを取りつけ、
その下に幅2尺長さ6尺の寝台を置いて、ここに私は身を横たえている。

西側は一面の白壁、何の飾りもない。
東と南はガラス戸で、草に埋もれる原子野を隔てて浦上天主堂に向かう。

この家を狭いと思うは、なまじ敷居で庭と仕切って、この部屋をわが物ときめた人間がみずから招いた窮屈。・・・・・・

如己堂・・・・己の如く他人を愛す、という意味を名にとったこの家は、
家も妻も財産も職業も健康も失って、
ただ考える脳、見る目、書く手だけをもつ廃人の私を、
わが身のように愛してくださる友人が寄って建ててくださった。

そして今にいたるまで、その数々の友の如己愛は絶えずこの家に注がれ、
それによって廃人の私は生命を確かにつないできた。
寝たきりの私と幼い2人の子とが、ひっそり暮らすにふさわしい小屋である。
・・》
注)著作の原文より、あえて改行を多くした。


私は、ときおり今でも永井隆氏の遺(のこ)された言葉をかみ締めている・・。

そして、余りにも多くの市民の方が犠牲となられた人に、ご冥福を・・、
今なお被爆の後遺症に、心身ともに苦しまれている方に、お見舞いを・・、
ただ私は、これだけしか言葉にできないのである。

せめて私は平和を祈念する時、原点として『長崎の鐘』の歌を幾度も聴いたりしている。


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