私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
昨夜、NHK BSプレミアムで、『山田洋次監督が選んだ日本の名作100本 ~家族編~』に於いて、
小林正樹・監督の『人間の條件』の第一部(純愛篇)が放送され、視聴した。
この『人間の條件』は、6部作の9時半に及ぶ巨編であり、昨夜の第一部から毎夜連続放送して、
最終は8月20日の第六部(曠野の彷徨)までと知った。
私は若き頃に、映画青年の真似事をした時期もあり、
この作品を映画館でオールナイトで上映されたのを、2回ばかり鑑賞したことがあり、
その当時の頃を思い馳せたりした。
東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の秋、
私はシナリオライターになりたくて大学を中退して、映画館に通いながら名作を観たり、
映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読していた。
そして、ある養成所の演出科に通い始めた頃であった。
確か1964〈昭和39〉年の晩秋だったと思われるが、
池袋にあった人世座という映画館で、この当時に『人間の條件(全六部作)』を土曜日の夜に、
オールナイトで上映していた。
私は見逃した作品であったので、心身気合いを入れて、この映画館に行き、観賞した。
客層は大学の映研と称される映画研究クラブ、映画熱愛者が多く、
私は小林正樹監督に敬愛を始めた頃であり、この監督から映画の作品に対しての執念を多々学んだりした。
そして徹夜明けの池袋の朝、感動しながら駅に向ったりした。
この後、翌週もこの映画館に行って鑑賞したが、
この日の日中は日比谷の映画館で、ふたつの映画館で2作品を鑑賞した後、
この巨編を徹夜で鑑賞したので、さすがに20歳の私でも疲れ果てて、
日曜日の朝、池袋の街を歩き、帰宅後は寝付いたりした。
その後は、養成所の講師の紹介で、ある新劇の長老から、
『映画は益々衰退していし・・ましてシナリオで飯(めし)を食べていくことは・・大変なことだょ・・
同じ創作をしたかったならば・・小説を書いた方がいいと思うよ・・』
このような意味合いのアドバイスを頂き、私は文学青年の真似事をして小説の習作を始めた。
そしてアルバイト・契約社員などをしながら、小説の習作に専念していた。
確かな根拠はなかったが、私には独創性がある、と独りよがり自信にあふれて、
純文学の新人コンクールの小説部門に応募したりした。
しかし当選作の直前の最終候補作の6作品に残れず、
三回ばかり敗退し、もう一歩と明日の見えない生活をしていた。
結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗北宣言を心の中でして、やむなく安定したサラリーマンの身に転向した。
その後は35年ばかり音楽業界のある会社の情報畑・管理畑などのサラリーマン生活をして、
2004(平成16)年の秋に定年退職を迎えた。
こうした拙(つたな)い私の映画・文学青年の真似事をした敗退の時期もあり、
今としては、限りなく愛惜がある時代でもあった、と苦笑している。
下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村
にほんブログ村
昨夜、NHK BSプレミアムで、『山田洋次監督が選んだ日本の名作100本 ~家族編~』に於いて、
小林正樹・監督の『人間の條件』の第一部(純愛篇)が放送され、視聴した。
この『人間の條件』は、6部作の9時半に及ぶ巨編であり、昨夜の第一部から毎夜連続放送して、
最終は8月20日の第六部(曠野の彷徨)までと知った。
私は若き頃に、映画青年の真似事をした時期もあり、
この作品を映画館でオールナイトで上映されたのを、2回ばかり鑑賞したことがあり、
その当時の頃を思い馳せたりした。
東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年の秋、
私はシナリオライターになりたくて大学を中退して、映画館に通いながら名作を観たり、
映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読していた。
そして、ある養成所の演出科に通い始めた頃であった。
確か1964〈昭和39〉年の晩秋だったと思われるが、
池袋にあった人世座という映画館で、この当時に『人間の條件(全六部作)』を土曜日の夜に、
オールナイトで上映していた。
私は見逃した作品であったので、心身気合いを入れて、この映画館に行き、観賞した。
客層は大学の映研と称される映画研究クラブ、映画熱愛者が多く、
私は小林正樹監督に敬愛を始めた頃であり、この監督から映画の作品に対しての執念を多々学んだりした。
そして徹夜明けの池袋の朝、感動しながら駅に向ったりした。
この後、翌週もこの映画館に行って鑑賞したが、
この日の日中は日比谷の映画館で、ふたつの映画館で2作品を鑑賞した後、
この巨編を徹夜で鑑賞したので、さすがに20歳の私でも疲れ果てて、
日曜日の朝、池袋の街を歩き、帰宅後は寝付いたりした。
その後は、養成所の講師の紹介で、ある新劇の長老から、
『映画は益々衰退していし・・ましてシナリオで飯(めし)を食べていくことは・・大変なことだょ・・
同じ創作をしたかったならば・・小説を書いた方がいいと思うよ・・』
このような意味合いのアドバイスを頂き、私は文学青年の真似事をして小説の習作を始めた。
そしてアルバイト・契約社員などをしながら、小説の習作に専念していた。
確かな根拠はなかったが、私には独創性がある、と独りよがり自信にあふれて、
純文学の新人コンクールの小説部門に応募したりした。
しかし当選作の直前の最終候補作の6作品に残れず、
三回ばかり敗退し、もう一歩と明日の見えない生活をしていた。
結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗北宣言を心の中でして、やむなく安定したサラリーマンの身に転向した。
その後は35年ばかり音楽業界のある会社の情報畑・管理畑などのサラリーマン生活をして、
2004(平成16)年の秋に定年退職を迎えた。
こうした拙(つたな)い私の映画・文学青年の真似事をした敗退の時期もあり、
今としては、限りなく愛惜がある時代でもあった、と苦笑している。
下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村
にほんブログ村