夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

吉永小百合さんに関して、私のささやかな思い、そして教示されたことは・・。

2011-08-28 20:36:14 | 定年後の思い
東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
夕方のひととき、映画棚から一枚のDVDを取りだして視聴した。

このDVDは、昨年の2010年8月6日に於いて、
NHK総合テレビの夜の7時半より8時45分まで放映された、
『吉永小百合 被爆65年の広島・長崎』を録画したのを久々に観たのである。

この番組に関しては、NHKの解説文を借りれば、
《・・
女優・吉永小百合は20年以上にわたって、
原爆詩の朗読をライフワークとして取り組んできた。

手弁当で全国をまわってきた朗読会では、
地元の子供たちに詩と音楽で平和を伝えてきた。
しかし今、多くの若者が昭和20年8月6日、9日という日のできごとを知らない。

「このままでは日本から被爆体験が消えてしまう」と、
被爆65年にこれまでの活動の集大成としてNHKホールで、
詩を朗読し事実を語り継ぐ会を開催する。

若者と子供たち、被爆者によって埋め尽くされた客席、
そして吉永の呼びかけに応えて集まったミュージシャンたちのパフォーマンスとともに
コンサートは平和への祈りの場となる。

総合テレビでは、このコンサートとともに、
吉永の原爆との出会いから四半世紀にわたる活動の軌跡をたどっていく。
一人の女優としてヒロシマを知り、一人の人間として原爆詩を語り続ける吉永小百合。

被爆65年の広島・長崎を訪ね、吉永自らが物語る場所に立ち、語る映像とともにドキュメントする。
・・》
注)解説の原文にあえて改行を多くした。


私は吉永小百合さんについては、お逢いしたことがないが、何となくくすぐったい存在の方である。
こうしたことは、私は1944(昭和19)年9月に東京郊外の農家の児として生を受け、
吉永小百合さんは、翌年の1945(昭和20)年3月に都心で生を受けているので、
学年としては同級生のようである。

もとより環境もその後の軌跡もまったく違うが、
同級生なので社会の出来事の空気を共にし、時代を重ねてきた。

私が吉永小百合さんの名前を初めて知ったのは、
私が小学生の時、漫画の月刊雑誌の『少年画報』を愛読し、
この中の『赤胴鈴之助』が連載されていた。

その後、ラジオドラマとして、1957(昭和32)年にラジオ東京から放送されて、
出演されたのが吉永小百合さんであった。

そして1962(昭和37)年に浦山桐郎・監督の『キューポラのある街』は観たが、
私としては苦手な日活の青春映画の数々は避けたりしていた。

その後、ラジオから『寒い朝』、そして『いつでも夢を』が、盛んに流れたし、
私は好感したひとりであった。

この後、吉永小百合さんが出演された映画は、わずかしか鑑賞していない。

『海峡』(1982年、東宝)
『細雪』(1983年、東宝)
『天国の駅 HEAVEN STATION』(1984年、東映)
『おはん』(1984年、東宝)
『夢千代日記』(1985年、東映)
『映画女優』(1987年、東宝)

この程度しか思い出させなく、世に云われているサユリストの方たちからすれば、
遥かに遠い存在の私である。

その後、何かのテレビ出演された時、偶然に私は視聴し、
《・・私は(10代の青春映画も含めて)数多く出演できたのは、
時代に恵まれて・・》

《・・尊敬する女優さんは、メリル・ストリープ・・》

このふたつの発言を私は聴いて、これまでの吉永小百合さんへの評価が、
大きく飛躍したのである。


私は吉永小百合さんが、原爆の被爆などにに関して、
朗読会を行っていると、何かで知ったりしたが、
どのようなことが起因だったのか、知れたらと思い、今回のテレビ番組を視聴したひとつであった。

若き頃、渡哲也さんと共演した映画に於いて、
被爆者の役柄を演じた渡哲也さんと交友し、原爆ドームの中でのシーンを互いに演じて、
これが原点であり、
その後は、『夢千代日記』(1985年、東映)の前後の頃からは・・

このように語られていたので、私は理解したのであった。


私が何よりも感銘をうけたのは、
東京大空襲は1945年3月9日から10日に行われ、
被害は死者はもとより、多大な被害を受けた都心であった・・。
(留意・死者8万4000人、被災者150万人、焼失23万戸)
その直後の3月13日に、悲惨な都心の状況下で生を受けた。

やがて過酷で悲惨な戦争は起こってもほしくないし、
かの大戦を風化させてはならない責務を感じたり、
伝える時代のひとりとして感じながら、今日の朗読会のひとつの原因にもなっている。

このような意味合いの言葉を発露されたことである。

そして番組の中で、朗読会で取り上げた詩を書かれた方たちに、
吉永小百合さんが訪ねて、お気持ちを語り合う・・。

このように最初に視聴した時に多々教示され、
改めて視聴し、その人ご自身なりの秘めた深い心情を発露した状況の言葉・・
もとより重いが、まぎれなくドキメンタリー作品と主軸をなしているのである。


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料理のできない私でも、ときには簡素なサンドイッチで、家内と語り合い・・。

2011-08-28 13:54:46 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


このような日常を過ごしているが、家内は洗濯、掃除、料理などの家事を担当して貰っているので、
せめて私は買物と茶坊主に徹している。
茶坊主に関しては、家内がコーヒーか煎茶を飲みたい、といった状況を察知して、
さりげなく家内の前に置くぐらいである。

そして買物は、我が家から7分前後の最寄店の3店、
駅前の徒歩15分ぐらい10店ぐらいのスーパー、ドラッグ・ストアーなどの新聞に入った折込チラシに、
家内が必要と思われる品を赤色のサインペンで丸印を付けたのが必須の購入品とし、
あとは私が店内の品を見て、食べて見たい、と好奇心か、或いは瞬時に魅了された品を
私が買い求めてくる程度である。


昨日の11時過ぎ、私は買い物に出かける時、
家内は奥の和室で、衣料整理の真っ最中であったので、
昼食は簡単な品を買ってくる、と私は家内に云ったりしたのである。

私はお惣菜コーナーの売り場で、それぞれ単品を見たり、
お弁当コーナーで、8種類の創意工夫されたのも眺めたり、
そしてパンのコーナーでそれぞれのしゃれたパンを眺めたりしたが、
心が定まらず、結果として我が家の冷蔵庫にキャベツ、セロリ、トマト、ニンジン、キュウリを思い浮かべて、
美味しそうな食パン一斤、コロッケ2つ、メンチカツ2つを購入した。


帰宅後、私は台所で俎板(まないた)、包丁を洗浄し、
冷蔵庫から最初にキャベツを取りだして、小さめのキャベツを四分の一ぐらい千切りし、
その後にセロリ、トマト、ニンジン、キュウリを適当に切り、私用は大皿、家内は少し大きめの小皿に盛り合わせ、
この特選の野菜の盛り合わせとした。

私は煮たり焼いたりする料理はできなく、家内の作ってくれた料理を温まる程度しかできない、
齢ばかり重ねた台所の音痴のひとりである。


そして、私は居間の食卓用のテーブルに、テーブル・マットを敷いて、
アイス・コーヒーと冷茶を用意した後、
買い求めてきたコロッケの二種類、メンチカツ、そして食パンを置いた。

『XXちゃん・・用意したから、お昼にしょうよ・・』
と私は奥の和室で衣料整理で孤軍奮闘している家内に、大きな声で呼び掛けた。

そして、私は台所に引き返し、ブルドック・ソース、サラダ・ドレッシングを取った後、
居間の窓際のテーブルの椅子に座った。

野菜の盛り合わせを食べながら、食パンにコロッケ、メンチカツをはさんだ簡素なサンドイッチになったが、
これなりに手軽で美味しいのである。

私達は主庭の樹木を眺めながら、とりとめなく語り合ったりした。
この中のひとつとして、過ぎし3月11日の東大日本大震災後、
我が家も予定より大きく変貌したことを自然と話題になった・・。

私たち夫婦の共通趣味は国内旅行であり、特に私の定年後は、四季折々各地を旅行してきた。
今年の2月は南東北の雪の情景を求めて、
東京駅より大石田まで『つばさ』を乗車し、
銀山温泉の旅館街の中ほどにある『旅館 永澤平八』に4連泊して、
街並み、そして付近を散策をした。
その後は、最上地域の『最上川の船下り』をする為に、
悪天候を配慮して、付近の新庄のビジネス・ホテルの『ルートイン新庄』に1泊宿泊し、
帰路は新庄駅より『つばさ』で、帰京する5泊6日とした。

この後は、五月の中旬に、田沢湖の北にある乳頭温泉郷、後生掛温泉、新玉川温泉を8泊9日で、
それぞれを滞在しながら、付近を散策する案を旅行代理店に仮予約までしていたが、
過ぎし3月11日の東大日本大震災後、ご破算となった。

この後、東京郊外の我が家も、ときおり余震もあり、何かと落着きもなくなり、
私たち夫婦は、私たちの住む近くの市の避難場所まで歩いて確認したり、
周辺を歩いたり、外食をしたり、うつろな日々を過ごしてきた。

こうした状況もあり、旅行に関しては、意欲も薄れ、
秋になったら、どこかに出かけようと、と旅行のプランを話し合ったりしてきた。

もとより被災された方には言葉もないが、私たちの心情としては、
防災用具を点検したり、家の内部の所有品を整理したり、
特に小説、随筆、歴史書、現代史など本は5000冊前後を大幅に処分して整理したりした。
或いは小庭り手入れに専念したりした。
そして、周辺の状況に、何かと気を留めたりした・・。
このような専守防衛の要素が多い日々を私は家内と語りあったりした。


さて、昼食代わりの特選サンドイッチであるが、
若き私たちの30代の時、帝国ホテルで軽食として、
ビールを呑みながら、ローストビーフのクラブサンドを頂いたことがあるが、
これより美味しいかなぁ、と錯覚したくらいであった。

もとより気負いもない生活で平素の容姿で、少なくとも35年以上寝食を共にした私たちは、
積み重ねられた日々もあり、さりげなく言葉にする語り合い、
気楽でよい、と改めて思ったりした。


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曽野綾子さんの『夫族の中で、生活者として無能な人・・』と銘言に、私は叱咤激励され・・。

2011-08-28 01:10:07 | 定年後の思い
私は遅ればせながら曽野綾子・著作の『近ごろ好きな言葉 ~夜明けの新聞の匂い』(新潮文庫)を読み、
多々教示を受けたが、この中のひとつに定年後の男性の生活者としての在り方について、
明記されていたので、私は微苦笑させられながら、読んだひとりである。

本書の初出は、総合月刊雑誌の『新潮45』で、
この内容は『暗がりの夫族』と題された一部であり、
掲載されたのは、1995(平成7)年8月6日である。


《・・(略)・・
私たちの同級生の配偶者たちが、もうほとんど定年になる年になった。
私は毎年恒例になっているイスラエル旅行にでかけたが、
その年は大学の同級生の一人がボランティアに来てくれた。

旅の途中で、彼女は、今、真剣に夫に家事をしこもうと思っている、と言った。
もうこの年になると、どちらが先にどうなるかわからない。
死なないまでも、長期入院ということになったら、
家に残った方が、一人で生活しなければならない。

彼女の家ではまず子供たちが、お父さんにエプロンを贈った。
長いこと社長業をしていたような人で、
台所に入ったらどういうことになるか想像がつかない。
優しい子供たちは、何とかそれをユーモラスな出発として励ますことができないかと考えたようだった。

私は彼女の賢明さに打たれた。
もういいの悪いのという選択をしている時間がない。
明日にも、夫婦は一人で生きて行く必要が生じるかもしれない。
配偶者が入院したらその日から、或いは死亡したらその夜から、誰がご飯を作るのだ。
息子や娘たちは皆忙しい年齢である。
離れて住んでいるケースの方が多いだろう。
嫁にご飯を作りに来いなどと呼びつけられると思ったら、それは大変な時代錯誤というものだ。

(略)

私たちの世代の夫族の中で、どれほど生活者として無能な人がいるか、
長い間、私たちはそれこそ笑いの種にして来たのである。

妻がでかけようとすると「何時に帰る?」と聞く。
愛しているから、妻が誰と会うのか、どこへ行くのが心配なのではない。
心配の種は「俺の夕飯はどうなるのだ」ということだけだ。

大学を出ている癖に、夕飯を作る能力も、出前を取る才覚もないから、
奥さんが少し遅れて帰ってみると、電気もつけない薄暗がりの中でじっと座っている。

と言って皆笑うのである。
これはどうしても侮蔑の笑いてしかない。
暗がりの夫族の中には、東京大学の出身者、ことに法学部の卒業生も多かったので、
私たちは自分たちの出身校が秀才校でもないのを棚に挙げて、改めて幼稚な優越感を覚えることにした。

(略)

どうして秀才の夫たちは、ああも能がないのか。
今どきは、炊いたご飯そのものだって、「大盛りですか、普通ですか」という感じで
マーケットで売っているではないか。
デパートや商店街のおかず売り場で、適当に焼魚と野菜の煮ものでも買えば、
それほど栄養が偏(かたよ)るということもなくて済むのに、それができないのである。

昭和初年代の夫族の中に、おかずも自分の靴下も買ったことのない人は結構いるのは、
彼の母の責任だろうかそれとも妻の責任だろうか。
台所に入っても、お湯の沸かし方一つ手順がわからないからうろうろしている。
薬罐(やかん)がどこにあるかも知らないのだ。
洗濯機のボタンを押したこともないし、炊飯器の目盛りの読み方など、わかるわけもないから、
ご飯ぐらい炊けるでしょう、などと言われると、恐怖で不機嫌になる。

(略)

しかし彼らが、人間としたら、生存の資格に欠けていることには間違いがないのである。
つまり自分はご飯の心配もしなくて生きることが当然と思うのは、
実はとんでもない不遜な男かもしれない。
それは「お前作る人、俺は食べる立場」みたいな男女の性差別を容認し、
自分はそういう仕事をしなくて当然の、もっと高級な人間だと思い上がっている証拠なのだ、
と私もこのごろ悪意に解釈することにした。
・・》
注)329ページ~332ページから抜粋。原文にあえて改行を多くした。


私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は中小業の民間会社を35年ばかり勤め2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
年金生活をしている。


日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


私の現役時代は、サラリーマンの身であったが、もとより生計の責務もあり奮闘する中、
家内は後方支援として家庭の多岐に及ぶ専業主婦として努めてきた。

私の年金生活後も、家内は洗濯、掃除、料理などしているのが現状であり、
せめて日常の買物ぐらいは、私がすると自主的に実行している。
このことの背景には、私の現役時代の平日は会社で勤務し、
この間の日中は家内のペースで家事、趣味を過ごしてきた。

こうした家内の生活リズムをできる限り崩したくなかったので、
私は独りで買い物、散策をしている。


今回の作家・曽野綾子さんの定年後の男性の生活者としての命題のひとつのテーマであるが、
この作品は1995(平成7)年8月に公表され、
《 私たちの同級生の配偶者たちが、もうほとんど定年になる年になった。・・》
と綴られて、私たちの世代より15歳前後、ご年配の人たちとなる。

曽野綾子さんご自身は、聖心女子大学を1954〈昭和29〉年に卒業された方であるが、
あの当時に女子大学を通うことができたのは、若き女性のほんの一部であり、
クラスの同級生の多くは、中央官庁、大企業のエリート、そして中小業の会社を創業された成功者、
或いは老舗の商店などに嫁がれた方が多いと思われる。

こうした嫁ぎ先のご主人が、第一線を退かれて、関係先の要職を務めて、第二の人生を歩み、家庭人となった現状・・。
このようの中で、一部の人は現役時代の栄誉も、食事のことで困惑する状況を的確に表現されているが、
私たちの世代、そして私のような中小業で奮闘した身となれば、苦笑してしまう。


しかし、私の場合も、『おひとりさま』になる日々もあるので、
単純に笑ってばかりは、いられない時もある。

私達のお互いの両親は、無念ながら家内の母だけとなり、
家内の母は我が家から2時間ばかりの地で、一戸建ての独り住まいの生活をされている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職日の直前に主人に死去され、
一戸建ての独り住まいの生活をされて、7年近くなっている・・。

家内の母は友人たちのグループで、国内旅行、買い物などを楽しんで過ごしたり、
ときおり自身の故郷の新潟県の上越市に里帰りし、同期の人たちと交流を深めたりしている。
確かに80代の初めとしては、身体は衰えても心は元気である、と私は感じたりしている。

このような中で、身の廻り程度はある程度は出来ているが、
庭掃除、季節に応じたのカーテン、布団、衣服、暖冷房器具などの出し入れがままならす、
家内が大掃除を兼ねて、年に5回ぐらい6泊前後で、母宅に泊りがけで行っている。

この間は私は『おひとりさま』の生活となり、のんびりと気ままな独り住まいをしている。


過ぎし8月13日(土)より18日(木)まで、家内は5泊6日で、
家内の母宅で家内は孤軍奮闘していた時、私の大半は下記のように日常を過ごしたりしていた。

起床は5時半過ぎが多く、雨戸、アルミのガラス戸を開け、簾(すだれ)越し外気を取り入れ、
この後に着替え、洗面をする。
そして、連日の猛暑なので、やむなく主庭、玄関庭にある樹木、草花、そして地面に水撒(みずま)きをして、
朝涼のひとときを享受する。

この後は、私は台所にある市から配布されたカレンダーを見て、
『燃えるゴミ』、『燃やせないゴミ』、『ペットボトル』、『古紙』、『ビン』の日を確認して、
指定された道路に面した門扉に置く。

そして、読売新聞の朝刊を読みながら、冷茶とアイスコーヒーを飲んだりしている。

食事に関しては、夏場であるので家内の料理は事前に辞退し、
私はスーパーで買い物をし、野菜コーナー、お惣菜コーナーの売り場で、適度に選定し、
食べたりしている。

肉類などの主食の前に、私は小さめのキャベツを四分の一ぐらい千切りし、
その脇にセロリ、トマト、ニンジン、キュウリを大皿に盛り合わせ、
この特選の野菜の盛り合わせだけは、朝、昼、晩と食べて、
この熱い夏の時節には、身も心にも良いと大量に頂いたりしている。

そして、洗濯に関しては、たまたま昨年の早春に乾燥の機能がある洗濯機に買い改めたので、
オール自動セットとし、
日中のひととき、きまぐれに手抜きの部屋の掃除をしたり、台所で皿洗いをしたり、
夜の入浴の時間も、平素より遅かったりしている。


このような生活を過ごしてきたが、料理に関しては素材から焼いたり、煮たりすることは無く、
掃除も簡略に済ませてしまうので、家内のいる平素から落第生となっている。


今回、私は曽野綾子さんから、よき叱咤激励を受けたと解釈している。
遠い昔の大学時代、ワンダーフォーゲル部に大学を中退するまで所属し、
もとより食事に関しては、略式ながら料理をした体験があるので、
遅ればせながら我が家で始めるのも、何よりも自身のためだ、と身震いしながら思ったりしている。


尚、余談であるが曽野綾子さんのご主人・三浦朱門氏は、
芸術院の院長をはじめ要職を勤められる中、家庭内では料理もされる達人であることを付記する。


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