夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
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フォロワー9万人おばあちゃん、“戦争ダメ”が観念論となる懸念、高齢者の私は真摯に学び、やがて敬意を深めて・・。

2020-08-25 13:53:13 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の75歳の身であるが、
先程、ときおり愛読している公式サイトの【 NEWSポストセブン 】を見たりしていた。


こうした中で、『 フォロワー9万人おばあちゃん、“戦争ダメ”が観念論となる懸念 』
と見出しを見たりした。

私は恥ずかしながらガラケーと称される携帯電話は、
半年前の頃より、受信、発信の電話機能だけ使えるようになったが、
スマホと省略されているスマートフォンも使えない拙(つたな)い身である。

こうした中、せめてと思いながら据え置き型のパソコンとノートパソコンを利用し、
時代遅れの国民のひとりとなっている・・。





今回、《・・フォロワー9万人・・》って、確か「Twitter」などの世界で、
知り合いを見つけたり、企業や有名人について知りたいときなどは、
 そのユーザーを「フォロー」して発言を購読します。

逆に、ツイートに興味を持って自分をフォローしている人を
「フォロワー」と称されることを知人より私は学んできた。

こうした事態で、《・・フォロワー9万人・・》は多い御方と思え、
ましてお歳を召した《おばあちゃん》と知り、
私は好奇心に負けて記事を精読した。




この記事は『女性セブン』の2020年9月3日号に掲載された記事のひとつで、
関連の公式サイトの【 NEWSポストセブン 】に8月25日に配信され、
無断であるが転載させて頂く。

《・・フォロワー数約9万人の「Twitterおばあちゃん」として知られる溝井喜久子さんのツイートからは、
生き抜いてきた長い歴史と86歳のいまがリアルに垣間見える。


戦後75年目、そして未曽有の感染症や自然災害にも見舞われるいま、
改めてしっかり幸せに生きることを考えたい。

そんな中で、溝井さんのツイートは、生活者の鋭い視点を発信し続ける姿は、
カッコいい老後のモデルでもある。

そこで、溝井さんに「戦争」についてと「Twitter」についての提言を聞いた。



☆戦争はダメ。命の尊さ以前に生活が壊される

溝井さんは1941年に発足した国民学校初等科(旧尋常小学校)の新1年生として入学。
その年の12月8日に太平洋戦争が始まった。

「子供だから深くは理解していませんでしたね。
でも、体育の授業は女子が長刀、男子は銃剣術。
兵隊を出した家の草むしりなど、勤労奉仕もさせられた。

通信簿には、勤労奉仕の評価もあって私は、
優・良・可の“良”でした」

終戦が近づくと、空襲も受けた。
空襲警報が出ると集団下校し、町を挙げて戦死者の出迎えもしたという。

「機銃照射を受けたこともあります。
飛行機が低く飛んで、地上の人を撃つ。

私の横の地面をバババババって弾(銃弾)が・・・。
いま思えば恐ろしいけれど、当時はそれが日常だったし、
それほど深刻な気持ちではなかったと思う。

あのとき弾に当たらなかったからいま、こうして生きている(笑い)」

少女だった溝井さんが深く体と心に刻み、
いま、ツイートを通じて若い世代に伝えたいことは、
観念的な命の尊さではなく、もっと切実なこと。

「戦争中、食べるものも着るものも、何もなくなった。
当たり前の生活ができないの。

それがどんなに悲惨なことか。何より生活が大切。
生活がちゃんとできなければ、命だって危うくなるのです。

感染症や災害に見舞われているいまは、
その脅威が少しわかりやすいかもしれませんね」

生活が壊されるから、戦争はダメ。
そんな発信ができるのは、子供でも一生活者として戦争を経験したからだ。

「当時の大人は、教育程度も低く、情報源もなかった。
みんな貧乏で税金を払うこともないから、
いまのように自分たちのお金を使って、代表者がどう動くかという意識もなかった。
生活に追われながら、お上に従うだけだったのです。




しかし終戦後、私は新制中学で、民主主義を徹底的に叩き込まれた世代。
主権在民、基本的人権の尊重。政治は生活そのものです。

いま、政治の中心に戦争体験者がいなくなり、
“戦争はダメ”が観念論になりつつあるのが、心配です」




☆人の発信を読むことからでいい。感じることが大切

最近は80代、90代でSNSを楽しむ人も増えてきた。
ほかの世代との新たな接点だ。

「昔なら作家やジャーナリストにでもならない限り、
発信するチャンスはありませんでした。

でもいまは、個人で気軽にできちゃういい時代。
私がツイートするのは、
自分が経験したことや世の中に対して思うことを、
やはり伝えておかなきゃと思うから。

戦争体験も、いろいろな経験をしている人がいるはずだから、
発表できずにいるとしたら、本当にもったいないわ」



とはいえ、パソコンやスマホもハードルは低くない。
「周りの家族も、使い方を一から教えようとしちゃダメ。
まずメールやツイッターをワンタッチで読めるように設定して渡すのです。

ツイッターではぜひ私をフォローしてね(笑い)。
私は毎日の食事の写真や日常のことをツイートして、
たくさんのフォロワーさんと会話していますし、
子供世代の40~50代の人が相談のコメントをくれたりもします。

これを読んで、人はこんなことを考えているのかと、
何かを感じることに意味がある。

そして自分も参加して、何か発信したいと思ったときが、
入力方法などの覚えどき。

人との会話の中にいることが、いまの高齢者には必要なのです」

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。



私は記事を読みながら、知らなかったことが多く、

多々教示されたりした。

私は1944年〈昭和19年)9月下旬、今住んでいる近くで農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に日本は連合国に降伏し、敗戦となった時、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりとなっている。

後年になると敗戦する数年前の状況に関して、祖父、父、母、叔母の同居する人たちから、
或いは親戚の叔父、叔母からも、この当時のことを教えて貰ったりしてきた・・。


やがて映画、小説、近現代史などで戦争の悲惨、過酷さを学んだりしてきた・・。

         

この当時、住んでいた北の方面には軍事戦闘機を製造する中島飛行機の工場があり、
西の方面には軍事物資を生産する軍需工場とされた東京重機が数キロ先にあった為、
ときおり近くに爆弾が落ち、空襲警報のたびに、
宅地から少し離れた生家の崖の雑木林にある防空壕に避難した、と話しを聞いたりした。

祖父と父か中心となって、程ほどの広さの田畑を耕し、
人手の足らない時は小作人の人々の手も借りたりしていた時代でもあった。

そして空襲警報が発令されると、何をおいてもとりあえず防空壕に避難したので、
慌しい恐怖の時代でもあった。

少しばかり遠方にあった軍事物資を製造する場所、軍用機を生産している場所を目標に、
米軍の爆撃機が幾たびか飛来し、爆弾を大量に落としたのであるが、
ときには付近の田畑、雑木林に落下した、 と後年に親戚の叔父さんに私は教えて貰ったりした。

そして250キロの爆弾と言われても私は定かでないので、
更に教えを乞うと、今で言うと大きなプロパンガスぐらいょ、と叔父さんは私に教えてくけたりした。

やがて私は大きなプロパンガスのような爆弾が、空から大量に降ってくる状況を想像すると、
身も心も身震いをしたのは、高校生の頃であった。

そして後年に、1944年(昭和19年)11月24日、アメリカ軍は、
大型長距離爆撃機の『B29』がマリアナ諸島を飛びだった111機が東京に初空襲し、
目標は中島飛行機の工場だった、と学んだりした。

        

その後、幾たびか東京の都心にも空襲し遭い、決定的な東京の大惨事は、
1945年(昭和20年)3月10日、『B29』が320機以上が、
1600~2200メートルの超低高度で、夜間に焼夷弾攻撃という新戦術が、
本格的に導入された初めての空襲であった。

その目的は、市民の生活の場である木造家屋が多数密集する下町の市街地を、
そこに散在する町工場もろとも焼き払うことにあった。

結果として、大きくの街は焼かれ、焼け焦げた遺体の山となり、死者・行方不明者は10万人だった、
と記載されたいた。




私の生家は、戦時中の頃は、玄関の中は広い土間となり、
その一角の壁面に、各自の綿入れの布地の防空頭巾をつるしていた。

そして空襲警報が発令されると、祖父、父、母、叔母の人々に導かれて、
私が生まれてまもない頃の時は、長兄は5歳、次兄は2歳であったので、
防空頭巾をかぶしてもらい、手をひかれながら、防空壕に避難された・・。

私は乳児であり、おしめの取れない時期であったので、
母たちは何かと大変だっただろう、と思い返したりしている。

後年になると、叔母たちが話されたので聞いたりすると、
この当時は、防空壕の内部の土の上に藁(わら)を敷いた上に、莚(むしろ)か茣蓙(ござ)に座り、
家族全員で互いの安否を確認した上で過ごした、と教えられたりした。


このように戦争を知らない私は、防空頭巾、防空壕、高射砲台の跡、
後年の後づけとして知ったりした程度である。

       

今回、私より10歳ご年配の女性より、戦争中の小学生時代、
やがて敗戦後の中学時代に遭遇した多々な体験、出来事を学び、
こうした具体的なことこそ戦争体験のない私は、
大変貴重な実体験を学んだりし、敬意を深めたりした・・。

もとより敗戦となった日本は、数多くの方は家族を亡くされ、住まいも焼かれ、財産も失くしたが、
国からの賠償もなく、国民ひとり独りが立ち上がり、敗戦後の日々を歩みだしたことに、
私はただ項垂(うなだ)れるばかりで、当時の人々に思いを馳せると、胸が熱くなったりしている。

私は22歳の頃から、沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、そして9日の『長崎被爆』、
その後の8月15日の『終戦記念日』と称せられる『敗戦記念日』は、黙祷をして50数年は過ぎている・・。




こうした根底には、かの大戦で、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
こうした日は、人々に哀悼の意を表して、黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。

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2 コメント

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Unknown (lemonwater2017)
2020-08-26 02:14:35
象が転んだです。はじめましてです。

戦争を直に体験した生の声は、心に重く深く伝わるものがあります。

”命よりも生活そのものが破壊される”
戦争とは、こういった基本的なシステムまで破壊する。特に、新大国アメリカが参戦してからの2つの大戦は、人類の全てをひっくり返した様に思えます。

私も”戦争ブログ”で、その残忍性や矛盾を書いてきたつもりですが、体験者じゃないから上手く伝わらない。
9万人のフォロワーを持つおばちゃんには、貴重な体験をどんどん配信してほしいですね。
返信する
今後ともよろしく・・。 (夢逢人)
2020-08-26 07:41:42
lemonwater2017さま。

>象が転んだです。はじめましてです。

こちらこそ、初めまして・・。

>戦争を直に体験した生の声は、心に重く深く伝わるものがあります。

>”命よりも生活そのものが破壊される”
>戦争とは、こういった基本的なシステムまで破壊する。
>特に、新大国アメリカが参戦してからの2つの大戦は、人類の全てをひっくり返した様に思えます。

>私も”戦争ブログ”で、その残忍性や矛盾を書いてきたつもりですが、体験者じゃないから上手く伝わらない。

まぎれもなく体験者の御方こそ、今や少なくなっていますので、
貴重なご意見、思いと私も学んでいる次第です。

>9万人のフォロワーを持つおばちゃんには、貴重な体験をどんどん配信してほしいですね。

今回、たまたま《・・9万人のフォロワーを持つおばちゃん・・》のご意見を私も学び、今後も期待している私です。

コメントありがとうございました。
今後ともよろしくお願い致しま
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