goo blog サービス終了のお知らせ 

夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

佐渡・秋津温泉滞在記 《中》 【2008.8.3.~8.6.】 

2008-08-07 20:02:15 | 
   第三章 世阿弥に心を寄せて

室町時代に能の大成者として、世阿弥がいるが、
私は能に関し、素養もないが、世阿弥の生涯には、私なりに深く興味をもっている。

佐渡島は、奈良時代より流刑者の地となり、
鎌倉時代には承久の乱で敗れた順徳上皇は佐渡に配流となり、
父君の後鳥羽上皇は隠岐の島、土御門上皇は土佐に、
佐渡の地で22年を過ごされた後の順徳上皇は、
都に帰れぬままこの佐渡の地で46歳の若さで崩御されている。

そして鎌倉時代に日蓮聖人も佐渡にされている。


室町時代になると、観阿弥が能を演じ
時の将軍・足利義満に見出され、やがて庇護された。
観阿弥の子の世阿弥も幼少の頃から、
父と共に足利義満から寵愛を受けた。

その後、父・観阿弥が死去された後、
世阿弥は芸を更に深め心得され、多くの人々から広く認められた。

そして、将軍・足利義満が死去された後、長男の足利義持が将軍の職に就くと、
反動から冷遇されたのである。

その後、足利義持が没し、後を継いだ弟の足利義教から、
能の演じる場所、要職からも追い出され、
やむえず演能はままならず、作品の創作などに専念され過ごされていた。

こうした折、次男は時の政権の方針に失望し出家され、
そして長男も客死され、
やがて佐渡島に70を超えた高齢者の身でありながら、
流刑されたのである。

この時の心情を遺(のこ)されている。

いまぞ知る 聞くだに遠き佐渡の海に
  老いのなみ路の船の行くすえ

        詠み人 観世 元清



私は中世の時代に能を大成された世阿弥元清の生涯に、
深く思いを馳せたのである。


いずれにしても、流刑された人々は、
佐渡の村人からのたゆまない保護を受け、
そして流刑者の多くは村人にそれなりの多大な影響を残し、
お互いに融合され佐渡の文化が形成されたのは、紛(まぎ)れもないことである。


このような思いで、私は『佐渡歴史伝説館』を訪ねたのである。

私の宿泊している観光ホテルのマイクロバスで、
両津市の中心街まで送迎された後、
私は真野まで路線バスを利用した。

その地方を知るには、路線バスを利用し、
街並みの情景はもとより、田畑、雑木林などの移ろい、
その地の人々から、言葉、しぐさ等をさりげなく学ぶのが最良、
と私なりの哲学がある。

真野からは余りにも不便であったので、
やむえずタクシーで『佐渡歴史伝説館』を往復したが、
それなりに路線バスの乗客、車窓から眺めた情景は多くのことを学んだ。


『佐渡歴史伝説館』には失望した。

http://www3.ocn.ne.jp/~srdk/

展示品も貧しく、お土産センターは観光客が賑わうだけで、
流刑された人に関する書物、文化史、歴史と相関する風土史など一冊もないのである。

私は暑さの中、汗ばんだ半袖を慰めるように、
食事処でビールを呑みながら海鮮丼を頂いたが、以外にも美味であった。

そして2階は団体客で騒がしかったが、
1階は個人客のフロアーで、ある程度の静寂さがあり、
何より日本庭園が美麗で、思わずビールを追加し、
しばらく眺めていたのである。


私は観光ホテルに戻って、しばらくした後、
家内達は帰還した。

朝食の前に賽の河原に訪れる為、両津市までタクシーで行き、
それから路線バスで内海府海岸を北上した後、
二ツ亀で下車し、賽の河原に行ったのであるが、
家内の母は高齢者なので、厳しい道程であった、
と私は聴いたりした。

『お母さんさぁ・・でも良かったじゃないの・・
ご自分で歩かれて・・念願が叶(かな)って・・』
と私は家内の母を慰めの言葉をかけた。

『そうねぇ・・お陰さまで・・』
と家内の母は、私に微苦笑しながら云った。


にほんブログ村 旅行ブログ 国内旅行へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐渡・秋津温泉滞在記 《上》 【2008.8.3.~8.6.】 

2008-08-07 15:38:21 | 
   序章 再び佐渡島

家内の母が、『佐渡の賽の河原に一度は行って観たいわ・・』
と家内に漏らしたのは数ヶ月前のことであった。

家内の母は、旅行仲間とたびたび佐渡島を訪れずれているが、
あくまで著名な観光地であった。

私は年金生活の4年生の身であるが、
家内の父が私の定年退職の直前に死去され、
家内の母は独り住まいとなったので、
私達夫婦は年に4回前後は温泉滞在旅行に誘っている。

このような中、『北海道に行って観たいわ・・』、
『ひめゆり塔を参拝したいわ・・』と家内に漏らし、
1昨年の秋に道央、道東を7泊8日で周遊したり、
沖縄本島を8泊9日に観たりしたのである。

私達夫婦は、家内の母が元気で意欲のあるうちは、
少しでも望みが叶(かな)えることが出来たら、
家内の母にとって、のちに思いになればという念願のひとつとしてきたのである。


そして家内から、佐渡の賽の河原の話を私は聴き、
佐渡かょ、お母さんも・・、と家内と微苦笑したのであった。



私達夫婦は、昭和60年の初め、真冬の2月に初めて佐渡島を訪れた。
バスの団体観光ツアーを利用し、2泊3日に有数な観光地を周遊した。

新潟港からフェリーの大型旅客船であったが、
ときおり冬の日本海観られる荒波の中を乗船した。

両津港に向う航路、船は大きく揺られ、私としては冬の日本海の一面を実感させられ、
この時節に相応しい、と足を踏ん張り、手すりにしっかりと摑(つか)まりながらも心の中では愉しんでいた。


両津港で下船後、観光バスで宿泊先の観光ホテルに向った時、
雪が舞い降りてきた・・。

冬の佐渡は雪が少ないと聞いていたので、
私の心は小躍りしたのであった。

両津港に近い小高い丘にある観光ホテルに宿泊した翌朝、
部屋の窓辺にある椅子に座りながら私達は、
朝の柔らかな陽射しを受けた加茂湖に浮かべた数多くの牡蠣(カキ)の筏(いかだ)が眺めたり、
雪化粧となった周辺の丘陵が光を帯びた情景に見惚(みと)れていた・・。

そして日中は15センチの積雪の中を歩きながら、
ときおり雪が舞い降り、能舞台、五重塔のある妙宣寺などを観たりした。

その後は、七浦海岸にある夫婦岩に近い観光に宿泊したのであったが、
今でも能舞台、妙宣寺の情景は深く心に残っている。



第一章 直江津・小木港の船旅

私達夫婦は、家内の母と東京駅で無事に逢い、
今回の3泊4日の『ノスタルジック佐渡 湯ったり佐渡 温泉旅館にの~んびり3連泊』
と題された団体滞在型の観光ツアーに参加した。


東京駅から長野駅まで長野新幹線を利用し、
長野駅に降り立ったのは10時半前であった。

その後、観光バスで一路、直江津港に向ったが、
出航時間の午後一時半過ぎに時間があり、
途中で時間調整の為に、上越市の外れにある『上杉戦国物語展』に立ち寄ったりした。

直江津港は快晴であったが、何かしら活気がないように感じたのである。
佐渡島への旅客利用の航路は、
新潟港と両津港が主要であり、直江津港と小木港、
そしてわずかに寺泊港と赤泊港の高速船が航路しているが、
年々利用客は減少している。

http://www.sadokisen.co.jp/

そして佐渡島の住民も昭和25年に12万6千人がピークで、
最近では半分となり、過疎化が進んでいると風評されている。

このような思いを私は改めて実感したりしていた・・。


観光団体ツアーの一員の私達は、2等船室を割り当てられた折、
少しランクアップをして、1等の椅子席に入室した・・。
私はフル・リクライニング・シートが20席前後でゆったりと配置されて折、
何より静寂で好感したのである。

そして、サンデッキに出れば、夏のまばゆい陽射しが燦燦と大型客船のフェリーも浴び、
海原の雲もわずかに浮ぶブルー・スカイであり、
こうして平日の時、のんびりと2時間半の船旅を甘受しても良いかしら、
と思いさえなったのである。

その後、喫煙場で煙草を喫いながら、
海上からの微風を受け、まばゆい陽射しを浴び、
贅沢なひとときを私なりに過ごしたのである。

部屋に戻り、リクライグシートに身をゆだね、
『沖縄などに行った時の飛行機より遥かに快適だよね・・
風を受け陽射しも浴びれるし、海上の景観も眺められるし、船内も歩ける・・、
その上、煙草も指定場所で喫えるし・・』
と私は家内達に云ったりしていた。

そして私はまどろみながら、
室町時代に於いて、能の大成者である世阿弥が70歳を超えた高齢で、
時の政権に疎(うと)まれ、佐渡島に流人の身となったことに、
改めて思いを馳せたりしていた・・。


注)佐渡汽船のホームページで大型客船の航路客船は、
昨今の厳しい情勢下、大幅に改定されている。



第二章  豊かなる大地、素朴に人々

小木港で下船したのは、午後4時半前であったが、
盛夏の陽射しは、燦燦とまばゆいほどであった・・。

私達は送迎の観光バスに乗車し、一路宿泊先の両津市の外れにある観光ホテルを目指した。

佐渡島は北部に大佐渡と称される山なみ、
南部に幾分低い小佐渡の山なみがあり、
中央部には国仲平野が拡がって折、
田んぼの稲穂が微風を受けて揺らいでいた。

単に佐渡島といっても、東京の23区ほどの広さがあり、
豊かな海の魚場に恵まれ、大地の農林業が古来より村民の苦楽の上で育(はぐく)まれ、
豊かな実りのある大地となっている。


このような思いを馳せながら、国仲平野の田畑、街並みを眺めていると、
宿泊先の両津市のはずれにある秋津地域に到着した。

http://www.r-yamaki.com/

部屋の窓辺に近い椅子に座ると、
観光ホテルの正面が観え、庭園越しには田んぼの稲穂が拡がって折、
その奥に加茂湖が夕陽を受けて湖面は染められていた・・。

遠望には山なみが聳(そび)え、美景を形作っていた。

私はこの情景に魅せられて、翌日からの早朝の折、
ホテルの下駄を借用して、散策を愉しんだのである。

夜のひととき、露天風呂から星空を眺めたり、
その後は庭園に下駄で下り立ち、夜風に身をゆだねながらも、
私の住む東京郊外より、少なくても10倍多く観られる夜空の星を数えたりしたのであった。

               
にほんブログ村 旅行ブログ 国内旅行へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする