第三章 世阿弥に心を寄せて
室町時代に能の大成者として、世阿弥がいるが、
私は能に関し、素養もないが、世阿弥の生涯には、私なりに深く興味をもっている。
佐渡島は、奈良時代より流刑者の地となり、
鎌倉時代には承久の乱で敗れた順徳上皇は佐渡に配流となり、
父君の後鳥羽上皇は隠岐の島、土御門上皇は土佐に、
佐渡の地で22年を過ごされた後の順徳上皇は、
都に帰れぬままこの佐渡の地で46歳の若さで崩御されている。
そして鎌倉時代に日蓮聖人も佐渡にされている。
室町時代になると、観阿弥が能を演じ
時の将軍・足利義満に見出され、やがて庇護された。
観阿弥の子の世阿弥も幼少の頃から、
父と共に足利義満から寵愛を受けた。
その後、父・観阿弥が死去された後、
世阿弥は芸を更に深め心得され、多くの人々から広く認められた。
そして、将軍・足利義満が死去された後、長男の足利義持が将軍の職に就くと、
反動から冷遇されたのである。
その後、足利義持が没し、後を継いだ弟の足利義教から、
能の演じる場所、要職からも追い出され、
やむえず演能はままならず、作品の創作などに専念され過ごされていた。
こうした折、次男は時の政権の方針に失望し出家され、
そして長男も客死され、
やがて佐渡島に70を超えた高齢者の身でありながら、
流刑されたのである。
この時の心情を遺(のこ)されている。
いまぞ知る 聞くだに遠き佐渡の海に
老いのなみ路の船の行くすえ
詠み人 観世 元清
私は中世の時代に能を大成された世阿弥元清の生涯に、
深く思いを馳せたのである。
いずれにしても、流刑された人々は、
佐渡の村人からのたゆまない保護を受け、
そして流刑者の多くは村人にそれなりの多大な影響を残し、
お互いに融合され佐渡の文化が形成されたのは、紛(まぎ)れもないことである。
このような思いで、私は『佐渡歴史伝説館』を訪ねたのである。
私の宿泊している観光ホテルのマイクロバスで、
両津市の中心街まで送迎された後、
私は真野まで路線バスを利用した。
その地方を知るには、路線バスを利用し、
街並みの情景はもとより、田畑、雑木林などの移ろい、
その地の人々から、言葉、しぐさ等をさりげなく学ぶのが最良、
と私なりの哲学がある。
真野からは余りにも不便であったので、
やむえずタクシーで『佐渡歴史伝説館』を往復したが、
それなりに路線バスの乗客、車窓から眺めた情景は多くのことを学んだ。
『佐渡歴史伝説館』には失望した。
http://www3.ocn.ne.jp/~srdk/
展示品も貧しく、お土産センターは観光客が賑わうだけで、
流刑された人に関する書物、文化史、歴史と相関する風土史など一冊もないのである。
私は暑さの中、汗ばんだ半袖を慰めるように、
食事処でビールを呑みながら海鮮丼を頂いたが、以外にも美味であった。
そして2階は団体客で騒がしかったが、
1階は個人客のフロアーで、ある程度の静寂さがあり、
何より日本庭園が美麗で、思わずビールを追加し、
しばらく眺めていたのである。
私は観光ホテルに戻って、しばらくした後、
家内達は帰還した。
朝食の前に賽の河原に訪れる為、両津市までタクシーで行き、
それから路線バスで内海府海岸を北上した後、
二ツ亀で下車し、賽の河原に行ったのであるが、
家内の母は高齢者なので、厳しい道程であった、
と私は聴いたりした。
『お母さんさぁ・・でも良かったじゃないの・・
ご自分で歩かれて・・念願が叶(かな)って・・』
と私は家内の母を慰めの言葉をかけた。
『そうねぇ・・お陰さまで・・』
と家内の母は、私に微苦笑しながら云った。
室町時代に能の大成者として、世阿弥がいるが、
私は能に関し、素養もないが、世阿弥の生涯には、私なりに深く興味をもっている。
佐渡島は、奈良時代より流刑者の地となり、
鎌倉時代には承久の乱で敗れた順徳上皇は佐渡に配流となり、
父君の後鳥羽上皇は隠岐の島、土御門上皇は土佐に、
佐渡の地で22年を過ごされた後の順徳上皇は、
都に帰れぬままこの佐渡の地で46歳の若さで崩御されている。
そして鎌倉時代に日蓮聖人も佐渡にされている。
室町時代になると、観阿弥が能を演じ
時の将軍・足利義満に見出され、やがて庇護された。
観阿弥の子の世阿弥も幼少の頃から、
父と共に足利義満から寵愛を受けた。
その後、父・観阿弥が死去された後、
世阿弥は芸を更に深め心得され、多くの人々から広く認められた。
そして、将軍・足利義満が死去された後、長男の足利義持が将軍の職に就くと、
反動から冷遇されたのである。
その後、足利義持が没し、後を継いだ弟の足利義教から、
能の演じる場所、要職からも追い出され、
やむえず演能はままならず、作品の創作などに専念され過ごされていた。
こうした折、次男は時の政権の方針に失望し出家され、
そして長男も客死され、
やがて佐渡島に70を超えた高齢者の身でありながら、
流刑されたのである。
この時の心情を遺(のこ)されている。
いまぞ知る 聞くだに遠き佐渡の海に
老いのなみ路の船の行くすえ
詠み人 観世 元清
私は中世の時代に能を大成された世阿弥元清の生涯に、
深く思いを馳せたのである。
いずれにしても、流刑された人々は、
佐渡の村人からのたゆまない保護を受け、
そして流刑者の多くは村人にそれなりの多大な影響を残し、
お互いに融合され佐渡の文化が形成されたのは、紛(まぎ)れもないことである。
このような思いで、私は『佐渡歴史伝説館』を訪ねたのである。
私の宿泊している観光ホテルのマイクロバスで、
両津市の中心街まで送迎された後、
私は真野まで路線バスを利用した。
その地方を知るには、路線バスを利用し、
街並みの情景はもとより、田畑、雑木林などの移ろい、
その地の人々から、言葉、しぐさ等をさりげなく学ぶのが最良、
と私なりの哲学がある。
真野からは余りにも不便であったので、
やむえずタクシーで『佐渡歴史伝説館』を往復したが、
それなりに路線バスの乗客、車窓から眺めた情景は多くのことを学んだ。
『佐渡歴史伝説館』には失望した。
http://www3.ocn.ne.jp/~srdk/
展示品も貧しく、お土産センターは観光客が賑わうだけで、
流刑された人に関する書物、文化史、歴史と相関する風土史など一冊もないのである。
私は暑さの中、汗ばんだ半袖を慰めるように、
食事処でビールを呑みながら海鮮丼を頂いたが、以外にも美味であった。
そして2階は団体客で騒がしかったが、
1階は個人客のフロアーで、ある程度の静寂さがあり、
何より日本庭園が美麗で、思わずビールを追加し、
しばらく眺めていたのである。
私は観光ホテルに戻って、しばらくした後、
家内達は帰還した。
朝食の前に賽の河原に訪れる為、両津市までタクシーで行き、
それから路線バスで内海府海岸を北上した後、
二ツ亀で下車し、賽の河原に行ったのであるが、
家内の母は高齢者なので、厳しい道程であった、
と私は聴いたりした。
『お母さんさぁ・・でも良かったじゃないの・・
ご自分で歩かれて・・念願が叶(かな)って・・』
と私は家内の母を慰めの言葉をかけた。
『そうねぇ・・お陰さまで・・』
と家内の母は、私に微苦笑しながら云った。
