備忘録として

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真言密教

2013-02-03 19:57:05 | 仏教

密教では、龍樹が密教を説いたと考えられていて、別名、龍猛と呼ばれる。しかし、中村元は別人ではないかと疑問を呈している。だから、中村は自著『龍樹』で密教についてまったく触れていない。密教は呪術、祈祷や密儀を行うが、ブッダは明確にこれを否定しているので、密教はブッダの仏教を継ぐとは言えないのではないか。この問いに対し、空海は密教はブッダの仏教を包摂しそれを超える仏教であるという。宇宙の根源に大日仏が存在しあらゆるところにいて、ブッダでさえもその化身に過ぎないというのである。

リトルブッダ」の巻で、チベット仏教と空海の真言密教は似ているのではないかと書いた。空海はこのブログに何度も登場する。四国八十八カ所を回るお遍路、初詣に行った西新井大師宮島の弥山の頂にある消えずの火、阿吽をはじめ梵字一字一字に世界ががあるという密教、それに最澄のことを書いた巻では空海に必ず言及している。南方熊楠は真言宗徒である。

ところが、空海の思想についてはほとんど触れていない。理由は簡単で、空海の思想は難解で理解できる自信がないからである。梅原猛は司馬遼太郎が『空海の風景』で空海を間違って解釈していると公言し司馬と絶交したと言われている。その梅原の空海解釈でさえも間違っていると真言僧は述べている。松岡正剛を読んでも難解である感を強くするだけでその難解さにたじろぐばかりである。でも、そろそろ整理しておかないと前に進めないのでさわりだけをまとめておく。

密教までの仏教の変遷

ブッダはこの世は苦に満ちているので苦を克服するためには欲望を去らなければならない、世は無常でありこだわりを捨てよと説き修行者集団が生まれた(小乗仏教)。龍樹は欲望を否定することでさえこだわりなので、こだわりを捨てる”空”を説き、大乗仏教が生まれた。この時点で般若心経にみられるように真言(マントラ)を重んじることになりブッダの説く透明性の高い仏教を離れ、神秘性が増してくる。その後ブッダの神格化が進むにつれて、ブッダ(シャカ)は仏の仮の姿(応化身)であり、ブッダの教えは方便で真実の仏の教えは別にあるという法華経や華厳経の考えが生まれる。その超人間的な仏が宇宙の中心にいる毘盧遮那であるとする。次にくる密教では、ここまでは仏が仮に否定の教えを説いたもの(顕教)であり、実は否定の先に真の肯定を説く仏の密かな深い智慧があるとし、神秘性はさらに増す。密教では宇宙の中心に常住の大日如来がいるとする。そもそもブッダの説いた仏教は人生論、道徳で人間中心の教えだったのが、密教によって宇宙論、自然中心の教えになった。

大日如来

宇宙の根源には大日仏がいて、世界のあらゆるところに遍在し、人間の心の中にもいる。仏、菩薩、明王、諸天は大日仏の化身とされ、ブッダ(ゴータマ・シッダールタ)でさえ大日仏の化身である。空海は「十住心論」で、密教はそれまでの仏教の最高位に位置すると説く。

即身成仏

大日如来は人の心の中にも常住しているので大日如来と一体化することができれば、その身そのままで仏になれる。三密とは身体、言葉、心の三種の神秘で、仏にも人間にも同じ三密がある。人間は手に印契(いんぎょう)を結ぶ、声に真言を唱える、心に義を観ずることで仏の三密と一体化できる。通常は厳しい修行によって達する境地だが、加持祈祷により一種の宗教的エクスタシー状態になる神秘体験で即座に成仏できるとする考えもある。宮坂宥勝は梅原猛『最澄と空海』の巻末解説で、最澄から出た栄西や道元の只管打座は身密、法然や日蓮の念仏は口密、親鸞の信心為本は意密であり、三密の分化的展開であるとする。空海の発想が先んじていたことが示される。

声字実相義

声、それを表現する字、その対象である実相の関係を説いた。物質世界はすべて声字を持っていて精神的要素が働いている。物質世界は見る者によっていろいろな様相を呈する。凡夫の見る世界は苦で満たされ無常であるが、それを包む永遠常住の世界が存在する。大日如来と一体になったものは世界は苦ではなく楽に見える。

曼荼羅

世界の秩序を図示したもので、真言密教には金剛界曼荼羅と胎蔵曼荼羅がある。 中心に大日如来がいて周りを菩薩、次に明王、さらに天部が取り囲む。南方熊楠も自身の南方曼荼羅(中村元名付ける)を残している。

今までわずかな解説本を読んだだけだが、空海の天才性が垣間見える。密教の教義と空海の成し遂げた業績を見るだけでも際限がないように感じる。梅原が円型人間と称した最澄の同心円的で純粋な行動はわかりやすいが、楕円型人間あるいはマルチタイプの空海は複雑でとらえどころがない分、今後が楽しみである。


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