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隋唐の仏教と国家

2016-07-10 23:20:26 | 仏教

三教指帰』は空海24歳のときの著作で、仏教徒と儒家と道教の道士がそれぞれ他者を批判し、三教の中で仏教が最も優れていることが示される。序文に、空海が阿国大瀧嶽や土佐の室戸で修業中に虚空蔵菩薩の化身である明星が口の中に入ったという、あの『三教指帰』である。空海は30歳で入唐するので、唐へ留学する804年以前の著作である。下は、国会図書館のWebSiteにあった明治15年の森江蔵版である。

空海や最澄の仏教に釣られて『隋唐の仏教と国家』礪波護(となみまもる)という難しい本を古本屋で衝動買いしてしまった。内容を理解する前段で、おそらく中国文献をそのまま引用した部分だろうか、ふり仮名がなく読めない漢字が多く、ほぼ読むのをギブアップしていた。暇にまかせて本をパラパラめくっていると、不拝君親運動という文字が目に飛び込んできた。唐の時代、中国では、空海の『三教指帰』のように仏教、儒教、道教が共存していた。そのような政治情勢のもと、仏教徒は仏法を王法の下におかない運動、すなわち不拝君親運動を行った。目上の者を敬うのは儒教的であり仏教は仏法僧に帰依し、君主や親を敬わないと主張する運動である。唐の皇帝は時代によって、不拝を認めたり、認めなかったりしたのである。この不拝運動から、”君が代歌えない選手は日本代表でない”という政治家のことばや日の丸掲揚の議論を思い出していた。国家は個人の信条や信仰に優先するのかという命題が、7~9世紀の唐の時代から問題になり議論されていたのである。

 

本の表紙絵は室町時代の『真如堂縁起』で遣明船に阿弥陀如来が出現する場面

隋の文帝(煬帝の父親)は自身が仏教を受戒し、中国各地に寺院を建て多くの僧侶を授戒させ仏教を篤く保護した。この本では、聖徳太子が日没するところの天子として文書を送ったのはこの文帝であり、日本には文帝が没し煬帝が即位したことが伝わっていなかったとしている。上原和や梅原猛が言う聖徳太子は煬帝に親近感を持っていたという論の根拠にいささか疑問の生じる話である。

唐初期の高祖と太宗の時代、道士の博奕(ふえき)は排仏論を繰り広げ、これに対し仏教徒の法琳(ほうりん)は『破邪論』で反駁した。唐の高祖(李淵)は人心収攬のために道教と仏教をバランスよく保護し、長安には道教寺院と仏教寺院を建てた。ところが、二代皇帝の太宗(李世民)は李姓であることから一族が老子李耼(りたん)より出ているとし道教を優遇するようになる。法琳は激しく抗議し皇帝の李氏は老子の隴西出身ではなくまったく関係がないと主張したため太宗を激怒させた。他の仏教徒たちは朝廷批判が激しすぎるため廃仏を引き起こしかねないことを憂慮し法琳を攻撃するようになった。法琳は身内からの批判攻撃に立腹し、屈原の心情をうたった詩編を書き綴り、遠地に隔離され悲憤のうちに死ぬ。原則に忠実でありすぎて現実を見ないことによる悲劇である。為政者は原則論だけでは政治をできないのである。

唐中期、高宗と武則天の時代、仏教は大いに保護され、武后は官職を濫造し売官が横行しただけでなく、金で僧侶や道士を濫造することも行われ課役や徴税が免除された。官吏の濫造と仏教道教教団の肥大は国家財政を疲弊させた。武后一族を倒した玄宗の時代には、あまりに肥大した仏教と道教の権利を制限した。その中で、玄宗は儒教道教を仏教よりも優位であるとし、733年僧尼拝君親を断行する。孝を中心とした儒教倫理は中国社会に根強いものだったのである。その80年後に唐に渡った円仁はその著書『入唐求法巡礼行記』(838~842滞在)で僧尼が不拝の儀を守っていたことを書き残している。玄宗の時代の拝君親が円仁の時代には廃止されていたのか、あるいは円仁は廃仏に会い国外追放となり842年に帰国しているので、仏教徒が拝君親に従わなかったために廃仏となったのかもしれない。

儒教道教が根付いていなかった日本での仏教は、その受容過程で不拝君親論は問題にならなかった。日本の中世、王法と仏法は相互に補完しあった。筆者の礪波は日本と中国の違いとして外国文化受容史に言及する。ところが、秀吉や家康は、王を神の下とみなすキリスト教を受容せず禁教令を出しているように、日本の外国文化受容は必ずしも寛容だったわけではないのである。

今、参院選の開票速報が進んでいる。自公が圧勝しそうな勢いである。 唐の時代と同じで、現実主義の前に理想主義は敗北するしかないのだろうか。法琳や屈原のように原則を貫く理想主義の政治家がいてこそバランスがとれ、国家の暴走を抑止することができると思うのである。


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