「エンパシー(共感)とは何か?」との質問に、「自分で誰かの靴を履いてみること」と答えた中学生がいた。もちろん日本にはそんな中学生はいない。イギリスの話である。パンクロックに憧れて渡英し在住する保育士でライターのブレイディみかこ女史の子息である。「他人の靴」は「くさい靴」かも「ダサい靴」かもしれない。でもそれを履くことは「考えたくもない人の立場に立って発想してみる」人間の「本来的な」力ではないかと、女史は繙く。現代の孟母三遷か、滅法すごい親子だ。
朝日の元旦号『(対談 多様性って何だ?)誰も否定されないこと 福岡伸一さん×ブレイディみかこさん』には目から鱗、何度も膝を叩き、ストンと腑に落ち、合点承知した。出色の対談である。
とりわけ釘付けになったのは、福岡氏の次の洞見である。
「人間は唯一、『産めよ増やせよ』という遺伝子のたくらみから脱出できた種」だとし、
〈ある種の昆虫は卵を約4千個産みます。大半は死んでも、1、2匹生き残って種をつなげばOK。つまり、生物において「個体」は「種」の保存に奉仕するための道具でしかない。それが「遺伝子のたくらみ」です。しかし人間だけは、「個体」に価値があると考えた方がより豊かな社会を構築できると気づき、それを人類共通の価値にしようと約束した。それが基本的人権の起源だと思うんです。〉
と述べる。一方、こうも言う。
〈ライオンとか象といった数多くの「種」が存在していますが、実はひとつの種の中に多様性が存在することも、その種が生き延びるために不可欠なんです。いつ突然、環境が激変するかわからない。そのとき、ひ弱そうな個体のほうが生き延びるかもしれないんです。種が生き残るためには、個体のバリエーションが豊富なほうがいいという多様性ですね。〉
大量に生産して歩留まりの悪さを凌ぐか、少量でもさまざまな特性を持たせるか。前者は莫大な犠牲を生み、後者はバリエーションが多様な危機を凌ぐ。とここまではいつもの話なのだが、肝は別にあった。
〈でも生物学的には、人間ほど多様性に乏しい生き物はいません。人間は他の動物と比べ、遺伝子レベルでは非常に均質性の高い種です。肌の色や習慣、宗教などほんの小さな差異が大きな違いに見えるのは、逆に均質すぎるからなのです。〉
ここだ。国家は当然人為の産物であるが、人種も民族、種族も遺伝子の均質性から見れば空語に等しい。それは違いではなく適応の多様な形態に過ぎない。手垢の付いたフレーズだがやはり「人類は一つ」、いや「人類はただ一種類」なのだ。
もう一点。上記の「基本的人権の起源」についてである。「遺伝子のたくらみ」に騙されないために、つまりは差別を許さないために「『個体』に価値があると考えた」。「それを人類共通の価値にしようと約束した」とは、人類の初期設定にしたということではないか。「バリエーションが多様な危機を凌ぐ」方途を捨ててまで、それをデフォルトにした。あらゆる差異の向こうにはまったく同じ人間がいる。これこそ生物学が捉えた「基本的人権の起源」である。実に鮮やかだ。
ブレイディ女史は多様性について、「うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、多様性は無知を減らす」と語る。
「真の多様性とは、違う者の共存を受け入れるという、言わば利他的な概念」だと応じた福岡氏は、
〈何も知らないままでは他者の立場を考えられない。偏見や強者の支配にとらわれてしまいます。学ぶのは「自由」になるため。そして「自由」になれば、人間は「他人の靴を履く」こともできる。山に登ると遠くまで見渡せるように、勉強すれば人の視界は広くなる。すると、お互いの自由も尊重し合う力を持てるようになります。〉
と締め括った。
ブレイディ女史の『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)は、昨年ノンフィクション本大賞を受賞した。イギリスの南端ブライトンにある「元底辺中学校」で「差別や格差や複雑化した友人関係」に苦闘する「息子」を描いた作品である。タイトル自体が「偏見や強者の支配」からの「自由」の隠喩でもある。
蓋し、新春にふさわしい対談であった。 □
朝日の元旦号『(対談 多様性って何だ?)誰も否定されないこと 福岡伸一さん×ブレイディみかこさん』には目から鱗、何度も膝を叩き、ストンと腑に落ち、合点承知した。出色の対談である。
とりわけ釘付けになったのは、福岡氏の次の洞見である。
「人間は唯一、『産めよ増やせよ』という遺伝子のたくらみから脱出できた種」だとし、
〈ある種の昆虫は卵を約4千個産みます。大半は死んでも、1、2匹生き残って種をつなげばOK。つまり、生物において「個体」は「種」の保存に奉仕するための道具でしかない。それが「遺伝子のたくらみ」です。しかし人間だけは、「個体」に価値があると考えた方がより豊かな社会を構築できると気づき、それを人類共通の価値にしようと約束した。それが基本的人権の起源だと思うんです。〉
と述べる。一方、こうも言う。
〈ライオンとか象といった数多くの「種」が存在していますが、実はひとつの種の中に多様性が存在することも、その種が生き延びるために不可欠なんです。いつ突然、環境が激変するかわからない。そのとき、ひ弱そうな個体のほうが生き延びるかもしれないんです。種が生き残るためには、個体のバリエーションが豊富なほうがいいという多様性ですね。〉
大量に生産して歩留まりの悪さを凌ぐか、少量でもさまざまな特性を持たせるか。前者は莫大な犠牲を生み、後者はバリエーションが多様な危機を凌ぐ。とここまではいつもの話なのだが、肝は別にあった。
〈でも生物学的には、人間ほど多様性に乏しい生き物はいません。人間は他の動物と比べ、遺伝子レベルでは非常に均質性の高い種です。肌の色や習慣、宗教などほんの小さな差異が大きな違いに見えるのは、逆に均質すぎるからなのです。〉
ここだ。国家は当然人為の産物であるが、人種も民族、種族も遺伝子の均質性から見れば空語に等しい。それは違いではなく適応の多様な形態に過ぎない。手垢の付いたフレーズだがやはり「人類は一つ」、いや「人類はただ一種類」なのだ。
もう一点。上記の「基本的人権の起源」についてである。「遺伝子のたくらみ」に騙されないために、つまりは差別を許さないために「『個体』に価値があると考えた」。「それを人類共通の価値にしようと約束した」とは、人類の初期設定にしたということではないか。「バリエーションが多様な危機を凌ぐ」方途を捨ててまで、それをデフォルトにした。あらゆる差異の向こうにはまったく同じ人間がいる。これこそ生物学が捉えた「基本的人権の起源」である。実に鮮やかだ。
ブレイディ女史は多様性について、「うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、多様性は無知を減らす」と語る。
「真の多様性とは、違う者の共存を受け入れるという、言わば利他的な概念」だと応じた福岡氏は、
〈何も知らないままでは他者の立場を考えられない。偏見や強者の支配にとらわれてしまいます。学ぶのは「自由」になるため。そして「自由」になれば、人間は「他人の靴を履く」こともできる。山に登ると遠くまで見渡せるように、勉強すれば人の視界は広くなる。すると、お互いの自由も尊重し合う力を持てるようになります。〉
と締め括った。
ブレイディ女史の『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社)は、昨年ノンフィクション本大賞を受賞した。イギリスの南端ブライトンにある「元底辺中学校」で「差別や格差や複雑化した友人関係」に苦闘する「息子」を描いた作品である。タイトル自体が「偏見や強者の支配」からの「自由」の隠喩でもある。
蓋し、新春にふさわしい対談であった。 □