学生のころはよく下駄を履かせていただいて上げ底で窮地を凌いだものだ。厚底シューズなるものはまだ影も形もなかった時代。今なら下駄に代わって厚底シューズを履くとでもいうのだろうか。
なんだかんだとこの五輪はマラソンにチャチが入る。札幌への変更はIOCで、今回はワールドアスレチックス(旧国際陸連)だ。厚底シューズを禁止するらしい。あと半年になってという決定の時期については措く。問題の核心的部分はそれではなく、カーボンファイバープレートの是非だ。
「使用される靴は不公平な補助、アドバンテージをもたらすものであってはならず、誰にでも比較的入手可能なものでなければならない」がWAの規定である。「不公平な」が曖昧で、公平性があれば「補助、アドバンテージをもたらすもの」が許されるとも読める。赤信号みんなで渡れば恐くない、だ。だが、それも措く。「補助、アドバンテージ」のうち「補助」をアスリートの身体的プロテクションと広義に解釈すれば、核心は「アドバンテージ」だ。
あらゆるスポーツはギア(道具)とともに進化してきたという。本当にそうか。愚考を引きたい。
〈“sports”(スポーツ)とは、ラテン語の“deportate”(デポルターレ)を語源とする。“portate”は「荷を担う」の意で、“deportate”はその否定形。「荷を担わない」、つまり「働かない」ということだ。これが古代フランス語“desporter”に転じて、『仕事ではなく、気晴らしをする。楽しむ』となり、15世紀前半のイギリスで“sport”『貴族階級の遊び』へと繋がっていった。括れば、「遊び」だ。それが出自である。後、競争の要素が高まりルールが生まれて今日に至る。遊戯性と競技性、それがスポーツの属性である。身体性や精神性、教育的要素は後付けの理屈だ。
その出自を忘失し、一方の属性(競技性)にのみ引き摺られ肥大化して、商業主義に塗れ勝利至上主義に呑まれ迷路にのたうつ「スポーツ」が見るに忍びない。今までにも『スポーツおバカ』と題して3回愚案を巡らしてきたのはそれゆえである。
16年1月『スポーツおバカ』で、「健康のためスポーツのし過ぎに注意しましょう」とのタモリの名言を引き勝利至上主義がスポーツを蝕むと嘆いた。
同年4月には『スポーツおバカ その2』と題し、スポーツは人格の陶冶にいささかも資するものではないと実例に則して述べ、「スポーツ万歳!」と能天気に礼賛するアナリストを糾弾した。
18年1月には『スポーツおバカ その3』で、巧拙優劣を競うものである以上フィジカルに限らずメンタルにおいても能天気に「スポーツ万歳!」とはいかないと三度目(ミタビメ)の遠吠えを放った。
競技者を“player”という。“play”の原義は「遊び」である。オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガは人間の本質的機能を「ホモ・ルーデンス」と見定めた。「遊ぶ人」である。法律、経済、生活様式などの社会的システムの淵源は遊びにあるとした。“sports”と同根である。「競技性」は生存本能が馴致されたものであろうが、「遊戯性」は開放されることで人類を霊長に押し上げた。今、これが逆転している。たかが遊びが雲散し、優勝劣敗が跋扈している。〉(抄録)
後ろから押し、前に跳ねる仕掛けであるカーボンファイバープレートは明らかに「競技性」を損なう。テクノロジーの進化という「遊戯性」に道は開いても、その道は「商業主義に塗れ勝利至上主義に呑まれ」た「迷路」にちがいなかろう。サイボーグのウェラブル化といえなくもない。「競技性」に拘るならば、「裸足のアベベ」かという向きもあろう。だが東京五輪で彼が靴を履いたのは、アシックスの創業者鬼塚喜八郎が日本の良いとはいえない道路事情を挙げて説得したからだ。WA規定の「補助」に該当する。
「競う」ならば、“素”で臨むべきだ。これをあらゆるスポーツにおいて大原則とすべきである。安全性に配慮しつつ、ギアを最小化すべきだ。
介護、運送などの分野で目覚ましい進化を見せているサポートウエア。まさかあれを着けて柔道の試合はないだろう。しかしテクノロジーへの素朴な信頼、派生するギアを無批判に受け容れ続ければ、あり得ない話ではなくなる。極論と嗤うなかれ。佐藤 優氏はこう語る。
〈ラディカルは「急進的」とか「過激」という意味ですが、物事の根本を掴むために必要な姿勢なんです。いろんなものを削ぎ落として、極端な形態を考えることから、事柄の本質を掴むことができる。思考実験として過激に、急進的になる必要、ラディカルである必要はあるのです。〉(「ゼロからわかるキリスト教」から)
付言すると、パラスポーツでは障碍とギアとには極めて微細な規定や判定基準が設けられている。「競技性」を担保するなら当然だ。
厚底シューズは素の身体性に上げ底を供するものだ。禁止すべきである。下駄を履きまくった者としてはまことにいいにくいが、管見はここに至る。 □