伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

続 夫唱婦随

2017年08月02日 | エッセー

 歴史に「もしも」はないという。本当にそうか。内田 樹氏は「『すでに起きたこと』を『まだ起きてないこと』として“かっこに入れる”想像力」を「マイナスの想像力」と呼び、
 〈歴史にもしもはないと言う人がいますが、僕はそう思わない。「もしもあのとき、あの選択肢を採っていれば」という非現実仮定に立って「もしかすると起きたかもしれないこと」を想像するというのは、今ここにある現実の意味を理解する上で、きわめて有意義なことなんです。〉(「日本戦後史論」から)
 と述べる。端っから「もしも」を外すと、そこで思考停止する。「今ここにある現実の意味を理解」する筋道は塞がれる。こむずかしい理屈ではない。「もしも生まれてこなかったら」から人生への問いかけは始まる。大多数の人が1度は経験する。
 もしも「まだ森友問題が惹起していない」とかっこに入れると、本年4月“瑞穂の國記念小學院”は開校され権力は否応なく腐敗するという「今ここにある現実の意味」は前景化しなかったであろう。芋蔓のように加計学園問題が浮上することもなかったであろうし、支持率の急落も官僚機構の忖度構造も露わになることはなかった。
 7月27日聴取のため大阪地検へ出発する際、籠池氏は
「きょうはロッキード事件で、田中角栄さんが逮捕された日ですね。縁のある日に私は出向くことになりますけど、きちんと一点の曇りなく、説明できるものは説明していきたい」
 と語った。大仰な物言いはキャラだとして、本人の意図せざる含意が汲み取れる。「金権政治」の成れの果てが前総理の逮捕だった。41年を経て、今回の逮捕劇は「一強政治」「忖度政治」の成れの果てではないか。いや、深層では『戦前志向勢力』の最初の躓きといえなくもない(稲田辞任を含め)。前者が昭和史的意味だとすれば、後者は平成史的意味を帯する。
 となると、あのキャラと言動は捨てがたい。どころか、不可欠である。衆目を集めるにはあれぐらいのインパクトは必要だ。感動や感激が叩き売られる現今においては(TVでは「深イイ話」や「スカッとジャパン」の類いが引きも切らない)、抜きん出て芝居めかねば人は振り向かぬ。即興の句でも一ひねりするのも道理だ。
 さて案の定、前稿に「悪しき夫唱婦随」との評をいただいた。しかし、「悪しき」だからこそなお「皮肉では決してない。全き真情の吐露である」と述べたのである。「良き」であれば、当たり前の話だ。なお盲従との指摘もあろうが、如上の「平成史的意味」を校量すれば怪我の功名といえる。
 臆面もなく食言するならば、「大いなる皮肉」といえなくもない。「皮肉」にコノテーションを託してみる。
 自民改憲草案の24条には現行憲法にない新たな項が追加されている。
──家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。──
 家族のかたちが劇的に変わった事実に目をつぶって「自然」とはなんだろう。「自然」だから「尊重される」のは必然で、互助は義務だという。戦前志向の典型的な表出だ。教育勅語には「夫婦󠄁相和シ」とある。ならば、籠池夫妻の夫唱婦随こそ『戦前志向勢力』にとって格好のロールモデルではないか。縄目の恥辱をも厭わぬ夫唱婦随に彼(カ)の勢力から憐憫の声は聞こえてこない。なんと情(ジョウ)のないことか。
 籠池夫妻の逮捕は詐欺容疑である。だが、それは決して本丸ではない。本丸は大阪地検が受理しているもう一つの告発、財務省近畿財務局職員らの背任容疑である。これこそが本丸だ。外してはならない画竜点睛だ。アンバイ夫婦の『不肖不随』(前稿)をどう炙り出すかだ。
 あすは内閣改造。決して当たってほしくない予想だが、小泉の進ちゃんをサプライズ人事で抜擢するかもしれない。でもそんな目眩ましに騙されてはならない。「もしかすると起き」なかった「かもしれないこと」を「想像するするというのは、今ここにある現実の意味を理解する上で、きわめて有意義」だとの洞見を噛み締めたい。「もしも」夫妻の存在がなかったらとの問いかけを忘れてはなるまい。その意味で、一強の揺らぎを誘った籠池夫妻の夫唱婦随を多としたい。加計問題も含め、安手の幕引きを断じて赦してはならない。 □