伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

片翼飛行(承前)

2017年08月29日 | エッセー

 橋本健神戸市議(自民党)は辞職するそうだ。“生活”費ではなく、“政活”費で追い詰められた挙句だ。同県県議会では野々村竜太郎号泣議員(無所属)がいた。彼も政活費だった。堺市では小林由佳市議(無所属)も同じく政活費で窮地に立っている。昨年夏には富山市議で自民と民進系市議合わせて10数人の政活費不正請求が発覚した。
 国会では今年、豊田真由子くん(自民党)が狂ったし、ずっと小振りながら金子恵美くん(自民党)は公用車の私的利用を突かれた。上西小百合くん(元維新の会)は相変わらずのトラブルメーカーで、大西英男くん(自民党)もこれまた同類。今度は上西くんではなく、こともあろうにヤジの標的を身内に向けてしまった。「ガン患者は働かなくていい」とは、いかなる時代認識なのか。こういう手合いのオツムはカンカラカンにちがいない。。
 冒頭のマエケンとお手々つないだ今井絵理子くん(自民党)や、“国境”を超える蛮勇を示した藤丸敏くん、中川俊直くん、去年は宮崎謙介くんもいた。
 「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」ではないが、地方と国を問わず、議会・議員の『世に週刊誌の 種は尽くまじ』である。番度(バンタビ)マスコミは色めき立ち、取った鬼の首を誇らしげに並べる。訳知り顔のコメンテーターや芸人風情が正義面して嘆いてみせる。「議員、国会は劣化した」と──。だが、本当にそうか。
 (承前)とは、
 〈同じ無菌指向ならば、マスコミは永田町にこそ向けるべきだ。O157どころではない菌がうじょうじょいるというのに、国民には変な耐性が生まれつつある。これはきっとどこかの作為にちがいないのだが……。〉
 との前稿の締めを承けてのことだ。なるほど、「O157どころではない菌」とは前述の穀潰しどもではあるが、問題は「変な耐性」である。マスコミ、特にTVメディアの週刊誌紛いの狂騒が「変な耐性」を生み、かつそれを増強しつつあるのではないかという危惧だ。つまり議会へのアパシーを誘い評価を漸減させ、不信や諦念を醸成する恐れだ。言葉を換えれば、それは立法府の形骸化、骨抜きである。となると、得をするのはどこのどいつか。火事場の盗人はだれか。言わずと知れた行政府である。実態的な行政府の独裁である。「どこかの作為」とはそのことだ。してみれば、行政府の、有り体にいえば政権の詭計、詭謀こそ「うじょうじょいる」「O157どころではない菌」といえなくもない。
 飛行中に片っぽの翼を落としたら、残った片翼に命運を賭けるほかなくなる。かつ、マスコミはそれに浮力を与えようとする。そういう図だ。
 内田 樹氏は国会議員の劣化は明らかに意図的に作られた状況だと喝破する。今月発刊された姜 尚中氏との対談「アジア辺境論」でこう語る。
 〈独裁というのは、「法の制定者と法の執行者が同一機関である」政体のことです。要するに行政府が立法府・司法府の首根っこを抑える仕組みができていれば、形式的には三権分立でも、事実上の独裁制が成立する。ですから、独裁制をめざす行政府は、何よりもまず「国権の最高機関」である立法府の威信の低下と空洞化をめざします。単に政府与党が議会の過半数をとればいいというものではないのです。どんな重要法案でも、何時間かセレモニー的に議論しているふりをすれば、強行採決する。それを見ると、国民は「ああ、国会って、全然機能していないんだな」という印象を持つ。でも、まさにそれこそが行政府の立法府に対する優位を決定付けるためのマヌーヴァーなんです。国会の審議をメディアはさかんに「茶番だ」とか「セレモニーだ」とか「プロレスだ」とか言っていましたが、そういう言葉づかいで立法府の空洞化を批判すればするほど、結果的に立法府の威信は低下し、相対的に行政府への権限の集中が進む。〉(抄録)
 これは腑に落ちる。肺腑を衝き、脳髄を直撃する。独裁とは「法の制定者と法の執行者が同一機関である」政体だとのひと言には、腫れ上がるほど膝を打った。だから独裁と民主制は親和的だという。おや、と戸惑う見解だ。内田氏は民主制と独裁制は対立概念ではないとし、
 〈民主制というのは「主権者は誰か」についての次元の話であって、統治が「どういうかたちであるか」についての話ではありません。民主制の対立項は、王政や貴族制や帝政といったものです。主権者が国王であれば王政、国民であれば民主制。ですから、国民は主権者だが統治形態は独裁制であるということは論理的にはありうることなのです。現に、二〇世紀における代表的な独裁制は、どれも民主的手続を経て生まれました。〉(同上)
 と続ける。主権者と統治形態は次元の違う話なのだ。同列に捉えるから足許を掬われる。民主制で安心してしまって、まさか独裁はあるまいと高を括る。そこにつけ込まれる。まことに警世の慧眼である。肝に銘ずべき卓説である。
 行政府の独裁は対立法府に止まらない。実は司法にも及んでいる。気に入らない裁判官を合法裡に更迭しているのだ。14年に大飯原発運転差し止め判決、15年に高浜原発再稼働差し止めの仮決定を出した福井地裁裁判長は名古屋“家”裁に移動。直近では大阪朝鮮高級学校を高校授業料無償化制度の適用除外にした国の対応を「違法」とした大阪地裁裁判長は大阪国税不服審判所長の下役に追いやられている。遣り口が露骨だ。飛行機に準えるなら、尾翼も失った片翼飛行か。
 同書では「国力」について、姜 尚中氏が「凡百の国際政治学者が束になってかかってもひねり出せない至言」と舌を巻く鋭い考究も示されている。蓋し、甚深の哲学的叡智から導出される言説は徒や疎かにはできまい。陰湿で巧妙な独裁への足音を断じて聞き逃してはならない。
 今日、NKがミサイルを北海道越しに北太平洋に打った。稿者はずっとグアムへの発射はないと確言してきたが、そう来るとは虚を突かれた。今年4月に「首相のトンデモ発言」「トンデモ発言 続報」と題する愚稿でも述べた通り、緻密なマヌーヴァーに長けたNKが刻下一国の存亡を賭けたグアム攻撃などするはずはない。だから今日の発射はグアムの辻褄合わせだ。ただNKに言いたいのは「敵に塩を送るな!」である。アンバイ政権が喜ぶだけだ。「やっぱり私でなきゃダメでしょ」と完璧に虚仮にされておきながら、漏れない危機対応のフリをする。寝首を掻かれて危機対応もないものだ。何度も引くように、吉本の池之めだかではないか。
 片翼飛行の果てにはなにが待つか──。だからこそ、「同じ無菌指向ならば、マスコミは永田町にこそ向けるべきだ」。 □