伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

飛蝗男

2017年08月18日 | エッセー

 緑一色のダボダボの民族衣装。顔も頭部も緑に塗り、額からは2本の触角らしき細長い棒。背景は薄茶色の砂。ゴム草履らしきものを履いて大股に踏ん張り中腰に構える。不似合いな白い腕(カイナ)にこれまた真っ白な長い虫網をしっかと掴み、斜に構えて眼光鋭く獲物を狙う──。
 これが表紙の写真である。著者本人だ。なんとも異様な。
   バッタを倒しにアフリカへ 光文社新書、本年5月刊
 著者は前野 ウルド 浩太郎。本書の紹介によると、
 〈昆虫学者(通称:バッタ博士)。1980年秋田県生まれ。神戸大学大学院自然科学研究科博士課程修了。博士(農学)。京都大学白眉センター特定助教を経て、現在、国立研究開発法人国際農林水産業研究センター研究員。
 アフリカで大発生し、農作物を食い荒らすサバクトビバッタの防除技術の開発に従事。モーリタニアでの研究活動が認められ、現地のミドルネーム「ウルド(○○の子孫の意)」を授かる。著書に、第4回いける本大賞を受賞した『孤独なバッタが群れるとき──サバクトビバッタの相変異と大発生』(東海大学出版部)がある。〉
 とある。後段でほぼ察しが付くであろう。「本書は、人類を救うため、そして、自身の夢を叶えるために、若い博士が単身サハラ砂漠に乗り込み、バッタと大人の事情を相手に繰り広げた死闘の日々を綴った一冊である」と<まえがき>にある通りだ。若干37歳、「人類を救うため」との大志は絶賛に値する。だが、次の「自身の夢」とは子どもの頃から抱き続けた「バッタに食べられたい」との大望であったというから首を傾げてしまう。傾げたついでに一読した。
 予想をはるかに裏切るおもしろさだ。「道行けば、ロバが鳴くなり、混雑時」「一寸先はイヤミ」「ラスト・サスライ」などの洒脱なタイトルに軽妙な書きぶり。リーダブルではあるが、中身は熾烈を極める。フィールド調査といっても、なにせ炎熱の地獄・サハラ砂漠だ。命懸けである。加えて、アフリカといえども人間の社会。諸般の「大人の事情」が渦巻く。さらに自然は気まぐれ、都合よくバッタの大量発生は起こらない。思惑通りに研究成果が出せない。研究費は枯渇してくる。万策尽きて遂に無収入状態に。
 モーリタニアの現地人所長が励ましをくれる。
「いいかコータロー。つらいときは自分よりも恵まれている人を見るな。みじめな思いをするだけだ。つらいときこそ自分よりも恵まれていない人を見て、自分がいかに恵まれているかに感謝するんだ」(同書より、以下同様)
 コータローは『上を向いて歩こう』を引いて、
「上を向けば涙はこぼれないかもしれない。しかし、上を向くその目には、自分よりも恵まれている人たちや幸せそうな人たちが映る。その瞬間、己の不幸を呪い、より一層みじめな思いをすることになる。私も不幸な状況にいるが、自分より恵まれていない人は世界には大勢いる。その人たちよりも自分が先に嘆くなんて、軟弱もいいところだ。これからつらいときは、涙がこぼれてもいいから、下を向き自分の幸せを噛みしめることにしよう」
 と受ける。
「苦しいときは弱音が滲み、嘆きが漏れ、取り繕っている化けの皮がはがされて本音が丸裸になる。今回の苦境こそ、一糸まとわぬ本音を見極める絶好の機会になるはずだ。血が滲むくらいの努力じゃ足りない。血が噴き出すくらいの勢いでいくしかない」
 肚を決めたあとだ。見事な逆転劇が展開する。故郷の秋田に錦を飾り、晴れて現職を手にする。一面、ポスドク(博士課程修了後の研究者)の苦闘記、成功譚でもある。
 しかし道半ば、コータローの歩みはこれからが本番である。結びは次の言葉だ。
「こんなにも多くの人々に心配をかけ、応援してもらえる博士はそうそうおるまい。多くのご支援、ご声援は本当にありがたかった。モーリタニアの人々、日本の家族、友人、諸先輩、在モーリタニア日本大使館、嬉し恥ずかしファンの方々をはじめ多くの人たちに支えていただいた。そして、忘れてはいけない。我がバッタ研究チームのメンバーと、私を優しく包んでくれたバッタたちよ。皆々様にありったけの感謝の気持ちを表し、あとがきとする」
 感謝の言葉が実に爽やかで、胸を打つ。感謝ある限り、コータロー君は本物だ。前々稿から前稿と続き、今稿で紹介した『バッタ本』も自信を持ってお薦めできる好著といえる。
 ともあれバッタとは、まことにマニアックな話だ。となると、ゾウムシの採集・研究における第一人者である養老孟司氏に触れないわけにはいかない。氏はこう語る。
 〈実は人は放っておけば女になるという表現もできます。Y染色体が余計なことをしなければ女になると言っていい。乱暴な言い方をすると、無理をしている。だから、男のほうが「出来損ない」が多いのです。それは統計的にはっきりしています。「出来損ない」というのは偏った人、極端な人が出来ると言ってもいいでしょう。生物学的にいろいろなデータをとると、両極端の数字のところには常に男が位置しています。身長、体重、病気のかかりやすさ、何でもそうです。良く言えば男性の方が幅広いとも言えます。〉(「超バカの壁」より抄録)
 「極端な人」の極めつきは、「バッタに食べられたい」ではないか。してみると、コータロー君は男の中の男といえなくもない。飛翔する「虫」の「すめらぎ(皇)」 『飛蝗男』に喝采を送り、大成を祈りたい。 □