身の程知らず。哲学者にでもなった気分で与太を飛ばす。お笑い召され。
Cogito,erugo sum
このラテン語のフレーズはデカルト自身が口にしたものではないとの説もあるが、寅さんといえば「それを言っちゃ おしめえよ」が別ち難くあるように『方法序説』の、いや哲学の代名詞として屹立している(譬えが卑近か)。
で、『sum』とは何か? 「我思う故に我あり」の「我」である。
ルネ・デカルト、知らない人はいない「近代哲学の父」である。注視すべきは「近代」だ。意味は近代哲学を拓いたということで、デカルト自身は中世の人である。同時代人には100年前にニコラウス・コペルニクスがいる。『天球の回転について』はコペルニクス的転回を世界史に刻んだ。一方、ガリレオ・ガリレイはデカルトと同世代だ。「天文学の父」、「近代科学の父」と讃えられる。コペルニクスとガリレオが表徴するように、中世暗黒時代の軛を断ってバチカンの教えに背馳する学識が世に放たれ出した。芸術はもとより、宗教界ではプロテスタンティズムの勃興、宗教改革へ。学問界も教会の僕(シモベ)から自立を始め、科学革命へ。「それでも地球は回っている」はバチカンに叩き付けた三行半だ。つまり、湧き起こるルネサンスの歴史的昂揚の中で胎動した神からの乳離れだった。
ガリレオはそれまで神の範疇にあった自然現象に数学的手法や思考実験を駆使して迫った。神によるオーソライズの代替を科学に求めたといえる。時代を共にするデカルトもまた神にあらざる何ものかに公認の本源的根拠を求めた。もはや仮説の真偽を神には訊けない。赤ちゃん返りは沽券にかかわる。ならば、何処の誰が? そうデカルトは問うた。深く長い呻吟の末、遂に口をついて出た言の葉が「Cogito,erugo sum」だった。身も蓋もない言い方をするなら、神に取って代わったのは科学の目だった、とでもなろうか。「我」は無知の目ではない。科学の目を具備した人間自身である。そうデカルトは宣ったのだ。75年前どこかの国で発せられた「人間宣言」に似てなくもない。
問題は、すべてを疑えという方法的懐疑が向けられた先、換言すればデカルトは何を疑ったのか? だ。
「すべてを疑う」といっても決して「すべて」ではない。それは人知を超える神のみぞ為せる技だ。デカルトはそんなトートロジーで人びとを煙に巻こうとしたのではない。
社会学者の大澤真幸氏は近著『新世紀のコミュニズム』で次のように述べる。
〈デカルトは、科学革命の同時代人で、彼自身、この革命の担い手の一人だが、経験を異様なまでに疑っている。近代科学が依拠したのは、経験のすべてではなく、独特のやり方で改造され、編成された経験である。つまり「実験」や「観察」となった経験だ。実験・観察は、経験らしさが抜き取られた経験である。経験の特徴は、人によってさまざまだということ、個人ごとに多様だということにある。それに対して、実験・観察は、経験の構成要素をできるだけ道具や数値に置き換えることで、「誰が実施しても同じ」「誰が観測しても同じ」という状況を確立しようとする。〉
デカルトが「異様なまでに」疑ったのは「経験」だった。経験は巨細を問わず汚れている。真の意味で2度と同じ経験はないし、他者が同じ経験をすることはあり得ない。個別の偶然性や作為性を免れない経験を実験や観察の対象とすることはできない。コロナウイルスの動きを他のウイルスが混在するシャーレの中で特定はできない。見分けも付けがたく、また相互に影響し合うからだ。しかし、自然はそのようにしてある。経験は自然と同義だ。だからこそ、「経験」から「経験らしさ」を「抜き取ら」ねばならない。汚れを完璧に落とさねばならない。純粋培養された「経験」である。それは自然から離隔された実験室やギリギリにイシューを絞り込んだ観察でしか敵わない。デカルトが「すべて」を疑ったとは、そういうことだ。そこに忽然と励起したのが「我」だった。
では、「我」はデカルトの何処にあったのか? 頭の中だ。超高度な思考実験は頭の総力を挙げて展開される。別けても意識だ。無意識ではない。無意識が科学の俎上に上がるのはそれから3世紀を経たジークムント・フロイトによってであった。であるなら、「我」とは「意識」であった、がラストアンサーだ。
とはいえ、神から決別した人類の宿願を背負って神ならぬ神を人間の裡に発見した壮大な旅。常人の成し得ることではない。パリの「人類史博物館」にはデカルトの頭蓋骨が展示されているそうだ。人類史に高々とした稜線を刻んだ頭脳とはどのようなものだったのだろう。俄然興をそそられる。 □