では、なぜ赤ん坊はマスクをして産まれてこないのか?
せっかく無菌状態でこの世に登場したのにもったいない。そう考えませんか? ぜひ“マスク警官”の方にはお答え願いたい。
20万年前にホモ・サピエンスが誕生して以来、マスクが真に必要ならば鼻や口はマスクを代替する形に進化したはずだ。というか、そうでなければ250万年前にチンパンジーから分岐したホモ属はとっくに死滅していたことになる。頭部のインターフェイスは造りの大小を勘定に入れても、チンパンジーとさほど変わりはない。北島三郎氏においては、大きな鼻孔を精一杯押し出して存在感をアピールするその属性が如実に残存している(大御所に失礼)。
冒頭に戻って、赤ん坊は逆だ。手に触れるものをなんでも口に持っていく。これは細菌やウイルスをアグレッシブに取り込んで免疫系を作ろうとしているのではないか。
マスクは緊急避難的対処だ、とはその通りだろう。死因が確定してはいないが、大阪でマスクをしたまま持久走中に死亡した男子児童がいた。おバカな集団圧の人身御供だったとすれば、見殺しにはできない。
集団的な被災は往々にして集団的な思考停止を誘発する。そこに知的負荷が最も掛からない陰謀説が発生する。それは凶悪な流言飛語に形を替えて弱者を血祭りに上げる。関東大震災時の朝鮮人虐殺ほか、例に事欠かない。今日、SNSによってガセの伝播力は想像を超える驚異的な広がりとスピードを備えている。いつか来た道、2度目ははるかに行きやすいと心得たい。
以下、余談ながら。
スッカスカ首相のストックフレーズは「安心安全の大会」である。過去何度か触れたように、これは矛盾している。形容矛盾である。「安心」はメンタル面の、「安全」はハード面の保障。極論すればよく解る。究極の安全はあり得ない。あらゆる事態を想定した安全策を講ずることは人間には絶対に不可能だ。神のみぞ知るである。絶対の安全がない以上、絶対の安心もあり得ない。究極の安全策は何もアクションを起こさないことだ。自動車が走らない限り、絶対に自動車事故は起こらない。はたしてそんな仮定はあり得るだろうか。究極の安心は不安の種をすべて払拭するまでは得られない。これはどうだ、あれはどうだ、こうなったら、ああなったらと切りがない。起こりうる可能性を一つ残らず検証しない限り安心には至らない。究極の心配性は心配の種をエンドレスに探し続ける。杞憂にさえ妥協しない。こんなこの世ならぬパラノイアを鎮めるのは神業である。
だから総理大臣といえども神ならざる凡人が軽々に「安心安全」などと大見得を切るものではない。神への冒瀆になってしまう。じゃあ、どうするんだ? 折り合いを付けるほか手立てはない。この場合は、「安心安全を目指します。でも事あれば、責任はわたしが全部取ります」とでも公言するほかあるまい。
次に、カラオケ禁止への対処は『カラオケ鼻歌(ハミング)』ではいかがか? これならマスクを外してできる。なんせ、飛沫が飛ぶ心配がない。でも鼻呼吸はどうなる? とツッコミを入れられそう。……お答えします。健康には鼻呼吸が一番なんです。人間は哺乳動物の中で鼻呼吸をする唯一の種です。本来鼻は呼吸をするため、口は飲み食いをするための器官でした。ところが、進化の中で言葉を使うために口で呼吸をするようになりました。発声には大量の空気が必要ですから。同時に病原体や口内の乾き、喉にキズを受けるなどの不利益が生じましたが、人類は断固として言葉を選択したのです。サバイバルの絶対の手段として。……てなことになる。
とすると、冒頭の「鼻や口はマスクを代替する形に進化したはず」はどうなるんだ? と再度のツッコミを入れられそう。
ところがお立ち会い、進化は進歩ではない。分子古生物学が専門の更科功氏の言説を引く。
〈「ある条件で優れている」ということは「別の条件では劣っている」ということだ。あらゆる条件で優れた生物というものは、理論的にありえない。生物は、そのときどきの環境に適応するようには進化するけれど、何らかの絶対的な高みに向かって進歩していくわけではない。進化は進歩ではないのだ。でも、進化を進歩と考えることがヒトは好きだ。ダーウィンが進化は進歩ではないとはっきり言ってから、もう160年以上が経っている。それなのに、「存在の偉大な連鎖」は、人々の心の中に未だに住み続けている。〉(「残酷な進化論」NHK出版新書から抄録)
鼻は呼吸から臭覚へ、口は飲食から呼吸へとシフトした。どちらもマスクを外した、つまりは進化の過程でマスクを代替しなかったのだ。
てなわけで、全国のカラオケ店が老若男女の壮大な鼻歌で満ち溢れる“希望”を抱きながら過ごす今日この頃、皆様ご機嫌いかがでしょうか。 □