伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

これで納得、新型ウイルス

2020年06月19日 | エッセー

 新型ウイルスの正体はメディアに取り憑いている『メディア・ウイルス』(特にTV)であるという武田邦彦氏の主張が最近頓に納得がいくようになった。
 本稿で最初に新型ウイルスを取り上げたのは2月2日。以降5ヶ月の間に今稿も入れ17回も書き連ねてきた。振り返ってみる。
2月 2日 「新型コロナの突然変異 in 永田町」
      ──新型コロナに便乗した憲法「緊急事態条項」提案を許すなと主張。 
2月18日  「一寸の虫 4」
          ──中国で新型コロナ発生。天安門事件で鄧小平は百万でも小数と豪語したが、中国も変わった。大国への復帰か。
3月 3日 「一寸の虫 8」 
           ──新型コロナ対策で学校ロックアウトは安倍と補佐官の今井尚哉との二人で決め た。今井を糾弾。
3月 4日  「一寸の虫 9」
           ──国家権力を超えるもの2つ。他のより強い国家と自然。新型コロナは天変地異。
3月16日 「息子」もすごい」
           ──新型コロナウイルスで欧州に黄禍論。ブレイディみかこの「息子」のエピソード。自らも差別していたと反省。
3月25日 「ジャメヴュ」
           ──コロナショックは人口減社会のジャメヴュ。すでに「静かなる有事」の渦中。恐るべきは便乗独裁。
3月27日 「夫唱婦随極まれり」
           ──安倍昭恵がコロナ渦に花見。安倍が下手な言い訳。「ロックダウン」は都民を囚人扱いするもの。
4月 7日 「だいじょうぶだぁ」
           ──福岡伸一「ウイルスは遺伝情報を水平移動する。利他的、共存」。武田邦彦氏による孤軍奮闘の情報発信。政権の的外れな対策と無知。
4月 9日 「コロナの空騒ぎ」
           ──佐藤優「自粛要請は同調圧力による翼賛」。戦争への流れも同じでは? 武田邦彦氏の異論を排斥するのは危険。首相や都知事の大言壮語と無知。
4月25日 「コロナの大功名」
          ──コロナショックで安倍改憲へのシナリオは潰えた。国家権力の暴走を阻止する「天変地異」こそコロナ。大きな悪を阻止したのだから大功名!
5月 5日 「『新しい生活様式』??」
          ──専門家会議提示「新しい生活様式」は専門家会議を使って同調圧力を掛けようと「国家総動員運動」と類似。それを考えない専門バカ。
5月11日 「病気は実在しない!」
          ──岩田健太郎を紹介。医のちゃぶ台返しを整理。病気は「こと」ではなく「もの」。謹聴、刮目すべき論攷、人物。
5月12日 「コロナの大手柄」
      ──検察庁法改正案に抗議の投稿680万件超。政治に無関心だった層にまで。コロナが政治を身近にさせた大手柄。 
5月22日 「解はスウェーデンにありか + 追記」
          ──コロナ対策に「集団感染戦略」=スウェーデン方式。国民の信頼のもとに推進。武田邦彦氏が「感染者数」の欺瞞と「原因はメディアウイルス」と指摘。
6月 2日 「岩手ゼロのふしぎ」
          ──愚直で質朴の風(フウ)。純化された一徹。さらには「維新のルサンチマンを下敷きにしたアンチテーゼ」ではないか。
6月12日 「ハートフルディスタンス」
          ──「ソーシャルディスタンス」を止め「ハートフルディスタンス」。最も恐れていたのは流通、特に宅配。ハートフルワーカーたちによって支えられている。感謝を。
 別けても推したいのは未来予測としての「ジャメヴュ」、病理上で「だいじょうぶだぁ」、政治的意味合いの「コロナの大功名」と「コロナの大手柄」、ほとんど報じられない「解はスウェーデンにありか + 追記」の5作である。
 内、「だいじょうぶだぁ」に登場した福岡伸一氏は「動的平衡」でつとに名高い。生命は流れであり、絶え間なく入れ替わりつつ平衡がとれているとする生命観である。東洋的発想が滲む秀抜な学説である。その氏が4日3日付朝日新聞に寄せた論攷を「だいじょうぶだぁ」で徴した。そして今月17日再び、 「(福岡伸一の動的平衡)コロナ禍で見えた本質──人もウイルスも、制御できぬ自然」と題する寄稿が載った。以下、その要録である。

▼“自然”とは私たちのもっとも近くにある自分の身体のことである。 
▼本来の自然と、脳が作り出した自然の本質的な対立──前者をギリシャ語でいうピュシス、後者をロゴスと呼ぼう。ロゴスとは言葉や論理のこと。
▼生命としての身体は自分自身の所有物に見えて、決してこれを自らの制御下に置くことはできない。生命はピュシスの中にある。ピュシスとしての生命をロゴスで決定することはできない。
▼では、ホモ・サピエンスの脳はどう対処したか? 計画や規則によって、つまりアルゴリズム的なロゴスによって制御できないものを恐れた。制御できないものとは、ピュシスの本体、つまり、生と死、性、生殖、病、老い、狂気……。これらを見て見ぬふりをした。あるいは隠蔽し、タブーに押し込めた。
▼だが、本来の自然は必ずその網目を通り抜けて漏れ出してくる。溢れ出した自然は視界の向こうから襲ってくるのではない。私たちの内部にその姿を現す。
▼そんな制御不能の自然の顕れを、不意打ちに近いかたちで、我々の目前に見せてくれたのが、今回のウイルス禍ではなかったか。
▼ウイルスは無から生じたものではなく、もとからずっとあったものだ。絶えず変化しつつ生命体と生命体のあいだをあまねく行き来してきた。
▼新型コロナウイルスの方も、やがて新型ではなくなり、常在的な風邪ウイルスと化してしまうだろう。宿主の側が免疫を獲得するにつれ、ほどほどに宿主と均衡をとるウイルスだけが選択されて残るからだ。
▼明日にでも、ワクチンや特効薬が開発され、ウイルスに打ち克ち、祝祭的な解放感に包まれるような未来がこないことは明らかである。長い時間軸を持って、リスクを受容しつつウイルスとの動的平衡をめざすしかない。
▼私は、ウイルスをデータサイエンスなど端的なロゴスによってアンダー・コントロールに置こうとするすべての試みに反対する。
▼レジスタンス・イズ・フュータル(無駄な抵抗はやめよ)といおう。私たちはつねに自然に完全包囲されている。

 誰が言いだしたかは知らぬが、最近「with コロナ」というフレーズをよく耳にする。『新しい生活様式』を包括するコピーなのだろうが、「レジスタンス・イズ・フュータル」に裏打ちされた共生というには軽すぎる。ロゴスによるアンダー・コントロールへのすべての試みに反対する覚悟は掬し難い。どこかに「祝祭的な解放感」への期待が滲んでいるようでもある。ここで、深呼吸。ひょっとして私たちは真っ当な疑問符を『メディア・ウイルス』によって大きな感嘆符に書き換えられてはいないだろうか。当初語られていた「正しく恐れよう」はどこへ行ったのか。例年のインフルエンザが約1000万の罹患者。死者3.300人。新型コロナは厚労省のHPによると、入院治療等を要する者800人(内、重症者62人)、死者935人(今月17日現在)である。信憑性皆無の『感染者数』にしても累計17.821人(現時点で1.738人)。約1千万分の1だ。繰り返すが、厚労省の発表である。「入院治療等を要する」とは罹患者、発病者である。死者にしても超過死亡かどうか、医師の判断に拠る面が強い。それにしても騒ぎの大きさに比してこの数字の圧倒的な少なさに、むしろ疑問符を付けたいところだ。確か『8代目』のコロナウイルスの所業にこれほどドデカい感嘆符は付けようがなかろう。それが「真っ当な疑問符」であろう。やはり過剰反応した『メディア・ウイルス』に踊らされ、便乗した行政の無能に振り回されただけのような気がしてならない。
 まずは碩学の洞見に謙虚に耳を傾けるべきだ。なにより納得が第一歩である。 □