伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

るんちゃんもすごい!

2020年06月16日 | エッセー

 大時代で失礼ながら、子母沢寛は「実は親も」であったがこの場合「実は子も」である。平成の『親子鷹』である。
  内田るん。1982年東京生まれ。7歳から芦屋で育つ。県立芦屋高校を卒業後、東京へ。高円寺のネットラジオ&カフェ「素人の乱」などに2年ほど勤務。詩人。フェミニスト。イベントオーガナイザー。若手ミュージシャンの発掘・プロデュースもしている。
 そして、父は思想家の内田樹氏。氏の一人娘である。だから、『父娘(オヤコ)鷹』である。
 今月20日発刊の中公新書ラクレ「街場の親子論」これが滅法面白い。
 以下、書籍紹介サイトから。
──父と娘の困難なものがたり
  内田樹/内田るん 著
 わが子への怯え、親への嫌悪。誰もが感じたことがある「親子の困難」に対し、名文家・内田樹さんが原因を解きほぐし、解決のヒントを提示します。それにしても、親子はむずかしい。その謎に答えるため、1年かけて内田親子は往復書簡を交わします。「お父さん自身の“家族”への愛憎や思い出を文字に残したい」「るんちゃんに、心の奥に秘めていたことを語ります」。微妙に噛み合っていないが、ところどころで弾ける父娘が往復書簡をとおして、見つけた「もの」とは? 笑みがこぼれ、胸にしみるファミリーヒストリー。──
 娘が7歳の時、離婚。以後10年間男手一つで愛嬢を育てあげた。割と珍しい父子家庭である。「るん」とは本名らしいが、それにしてもこれもまた珍しい名だ。快活で奔放な風(フウ)が漂う。
 5・6ページ読んですぐ気がついた。なんだこれはラヴレターではないか、と。なんだかんだいっても、内田 樹氏がメロメロなのだ。娘だってまんざらでもない。往復書簡というより、父娘(オヤコ)が交わす恋文だ。といって、べたついてはいない。高いクオリティーのコンテンツが遣り取りされるゆえだ。家族論、若者論、記憶の正体、経済、政治などなど、内田思想のエッセンスが至極簡明に言表されている。なにより父の学生時代の回想がわれわれ団塊の世代には70年代にタイムスリップするようで、なんとも懐かしい。
 〈親子って、そんなにぴたぴたと話が合わなくてもいい。「まだら模様」で話が通じるくらいでちょうどいいんじゃないか。〉(上掲書より)
 これが親子論の核心だ。家族間に秘密があるのは当たり前。子どもの成熟と家族の絆はトレードオフなのだから、親子の間は端から緩めにしておいた方がいい、という。さらに社会論とも絡めながら子どもの成長とは複雑化することだと論じている。
  本年1月に発刊された「しょぼい生活革命」(晶文社)ではこう述べている。 
 〈いまのこの社会の犯している最大の誤謬は「単純であるのはいいことだ」という信憑です。どんな場合でも、同じように考え、同じようなことを言い、同じようにふるまう首尾一貫したアイデンティティーを持った人間でなければならないという強い自己同一化圧がかけられている。就活では「自己アピール」しろというようなことを言われるらしいけれど、僕はそういうことを聞くと寒気がしてくるんです。どうして「自分はこれこれこういう人間です」なんてことを言わせるんです。そんな自己規定は、口に出した瞬間に「呪い」として機能して、自己を呪縛することにしかならないんですから。若い人にそんなことを言わせちゃいけない。〉
 「強い自己同一化圧」をかけられ、「自己を呪縛する」アイデンティティーの虜になる。それは断じて避けたい。「若い人にそんなことを言わせちゃいけない」との氏の願いは「成長とは複雑化すること」だからだ。「街場の親子論」は自己同一化圧を周到に斥けて子育てに挑戦し、見事に成し遂げた一つの典型である。希有な成功譚といえよう。それがるんちゃん『も』すごいという由縁であり、綺羅星の如く同著を照らしている。
 締め括りの書簡で氏はこう語る。
〈どうしてもそれを言っておかないと「先へ進めない」という場合には、仕方がありません。でも、それを言わずおいても、別に「迂回路」があって、最終的な目的地にたどりつけそうなら(「幸せになる」とか「人間的に成熟する」とか、そういう最終目的が達成されそうなら)、「ほんとうのこと」は暫定的に「かっこに入れて」おいて、「棚上げしておく」ということもあっていいんじゃないでしょうか。〉 
 蓋し、これぞ子育ての骨法にちがいない。 □