伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

横田滋さんの訃報に接して

2020年06月07日 | エッセー

  拉致被害者家族会の代表 飯塚繁雄さんは訃報に接しこう語った。
「こういう状態になるのは当たり前で、何もしないでほったらかしにしたら、日にちがどんどんたっていく。家族も被害者も年をとって病気になるのはわかっている。事前に感知してこうならないようにどうするか考えていかなければ今後とも同じ状況が繰り返される。私個人も体調が弱っていてほうっておけばこうなる。残念だが政府なり、担当者が実態を踏まえてこうなる前にどうしたらいいのか考えて対応してもらいたい」
「活動した仲間がどんどん減って少なくなってきた。私たちの活動が、北朝鮮にちゃんと届いているのか、どうやったら取り返せるのか。はっきりと打ちだしていかないと、なにもしないで時間だけがたつという状態が続くと、なんのために努力をしてきて、北朝鮮にいる家族のために早く助けたいために頑張ってきたのか。これが消えてしまう。ほっとけばこうなるということを各担当は認識していただいて早急に手を打っていただきたい」(NHKニュースサイトから)
 政権への苛立ちと批判が滲み出た言葉だ。
 「痛恨の極み」「断腸の思い」と首相は応じたが、なんとも虚しい。白々しい。8年9年の間、最重要課題と公言してきたにも拘わらず手も足も出せず、歯牙にもかけられなかった自らの無能と無為無策をまず詫びるべきではないか。
 元を正せば、小泉首相の側近として拉致被害者の帰国に尽力したことが宰相の地位を掴む絶好機となった。でなければ、この程度の男がトップリーダーになぞなれるわけがない。足を向けては眠れないはずだ。最大の恩人を見殺しにして「痛恨の極み」とは片腹痛い。「断腸の思い」はこっちの台詞だ。
 開けば拉致・核・ミサイルとなる北朝鮮問題をギリギリ絞ると、金王朝はなぜ滅びないのかという1つのイシューに辿り着く。
 横田さんが亡くなった奇しくも同じ5日、稿者は姜尚中著「朝鮮半島と日本の未来」(集英社新書、今月刊)を読み終えたところだった。
 同書に興味深い洞察がある。古来、幼少年期のイエスと聖母マリア、父ヨゼフの3人を「聖家族」と呼び、キリスト教美術のモチーフとなってきた。その「聖家族」が金日成の血統を特化する用語として転用されているという。
 〈(彼の生地である)当時の平壌はアジアにおけるキリスト教の一大中心地で、金日成の母、康盤石は熱心なクリスチャンであり、外祖父はキリスト教長老会の牧師だったと言われている。金日成の父、金亨穫はクリスチャンを中心に組織された民族主義団体、朝鮮国民会の結成にも参加していたが、当局に逮捕され、出獄した後、満州に向かった。金日成も家族とともに満州に移り住んだ後、父の命により、一〇代前半の二年を祖父の教会学校で学んでいる。キリスト教文化の中で子供時代を過ごした金日成は幼少期に洗礼を受けていた可能性があり、いずれにしても、金日成がキリスト教に深く馴染んでいたことは間違いなさそうだ。ただし、北朝鮮を「聖家族」が君臨する硬直した、いささかも変化しない独裁国家と見なすのは、一面的だ。なぜなら、北朝鮮は外部の印象と違い、これまで自らを取り巻く状況に応じて柔軟に、そして実にしたたかに、幾度も変化を遂げてきたからだ。この北朝鮮の動態的な面を見なければ、北朝鮮が崩壊しなかった背景は見えてこない。〉
 恐怖政治と軍事独裁としか見ないのは片手落ちだ。それは「聖家族」によって裏打ちされている。換言すると、宗教的独裁である。だから、「21世紀の輝かしい太陽」や「革命的同志愛の最高化身」などの大時代で大袈裟な呼称も頷ける。「聖」たらんとするためには「俗」でしかない粛正も違約も厭わない。「動態的な面」はそこから興起される。ブレるように見えてアメリカによる体制保証というストラテジーは些かもブレてはいない。ブレているのはむしろ米韓日だ。別けても安部政権のブレ方は尋常ではない。トランプのポチさながらの右顧左眄だ。圧力と高言し、トランプ=金会談の後には突如前提条件なしと変更。こんなことで解決するほど拉致は柔な問題ではない。
 したがって姜氏は、冷戦終結による北の崩壊を期待した米韓の読みに欠陥があったという。加えて、東西で干戈を交え血で勝ち得た独立とソ連の衛星国として成立した東ドイツには決定的な違いがあるとも語る。東西ドイツの統一と同様にはいかないのだ。
 それほどに統一の壁は厚い。しかし望みはある。「太陽政策」だ。この金大中のレガシーに期待を寄せて同書は閉じられている。
 強く印象に残った言表があった。
 〈明治以来、国民国家のシステムが東アジアを席巻し、新興の帝国として勃興しつつあった日本にとって、朝鮮半島は地政学的に日本列島という弓なりの国土の柔らかい部分に突き刺さりかねない「匕首」と見なされてきた。戦後も、そうした発想のバリエーションが維持され続けてきたと言える。しかし、古代史にまで遡れば、日本海に張り出した半島は、大陸の最先端文化の恵みを列島に滴らせる「乳房」のような存在であった。〉
 「匕首」としての拉致は本邦に戦後唯一の被害者の立場を与えた。だから戦前志向の勢力にとって、そのトポスを保つため解決されては困る。「匕首」のままでいてほしい。論理的にはそうなる。とすると、右派勢力にとって「21世紀の輝かしい太陽」である某首相が支持勢力の望みを“忖度”するのは話としては筋が通る。今もって解決の糸口さえ掴めないのは望み通りといえなくもない。
 反知性主義の彼らに言っても無駄ではあるが、彼らが知ろうとしないのは「乳房」としての朝鮮半島である。恩を知らずしては国家の品格などありえない。品格から最も遠い宰相に国家の難問に立ち向かえるはずはない。
 以上、横田さんへの弔意として綴った。 □