伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

「わ」は “ I ”

2019年06月04日 | エッセー

 「今日行くわ」、「今日は行かないわ」。ともに上品な言葉づかいだ。終助詞「わ」が効いている。文の終わりに措き、軽い詠嘆や軽い決意、主張を表す。終助詞は「わ」以外に古語では「か」「かし」「な」「そ」「なむ」「ばや」などがあり、現代語では「か」「かしら」「な」「の」「や」などがある。
 現代語では、といったが今や消えゆく趨勢にある。乙に澄ましているようで、代わりに「ゎ」などをSNSで散見するようになった。これは促音便でも拗音でもなく、「捨て仮名」(送り仮名、添え仮名)でもない。英語流の『小文字』であろう。SNSでは「ぃ」、「ぅ」、「は」の代用としての「ゎ」などが多用される。「ギャル文字」というそうだ。団塊の世代にはむず痒い限りである。
 さて、「わ」である。柳田國男によれば、
「口語では文句の終りに『我は』を附けるのが、むしろ全国を通じた法則だった」(角川『毎日の言葉』から)
  のであり、「わ」は「我は」、すなわち一人称代名詞であるとする。大学者の高説に意表を突かれる。関西弁の「わ」、九州の「ばい」や「たい」、ぜんぶ一人称代名詞である。近ごろは関西弁が東京を席捲し、「めちゃ」「めっちゃ」「むかつく」と同様に青年男子(この言い方が古い!)も使う。「オレ、先に行ってるわ」などと。
 上掲書から続きを引用する。
 〈終わりに「ワ」をつける文句はたいてい敬語でした。「アリマスワ」・「アリマセンワ」さらに「ヨ」をつけるのは二重の敬語(丁寧語)でくどいかもしれません。「アルワヨ」・「ナイワヨ」は新しい文句です。女学生がこれを採用したようです。
 日本語は代名詞の不要な言語と言われますが、「知らない」を「知らないわ」というと、知らないのは私だということを明言することです。村の児童は「オラシラネ」といいますが、「シラネオラ」が先でした。娘が「知らないわ」というのは「知らないわわたし」と同じ意味です。〉(抄録)
 「わ」は“ I ”とはその謂である。「上品な言葉づかい」が古法を引き継ぐ土着性の強いものだったとは、チコちゃんなら「ボーっと使ってんじゃねーよ!」と一喝するところであろう。
 かつて“ I ”について奇説を呈したことがある。
 〈“I”は一人称。なぜか。相手はひとりしかいないからだ。
 そのひとりとは神である。唯一の絶対者である神と向き合う形で全ては始まっているからだ。“God”と対するなら“I”のトポスは不変だ。いかなる高位者であろうとも“Godに向き合うI”に比するなら、神の僕(シモベ)以上の意味はもたない。常に“Godに向き合うI”からの発語なのだ。〉(16年11月の小稿『“I” と “You”』から抄録)
  ついでに“You”にまで口が滑り、二人称に複数形がないのはなぜかと愚考した。
 〈“You”とは神だからだ。唯一の絶対者であるのだから、当然複数形はあり得ない。これがプリミティヴな成り立ちだ。複数を兼ねるのは派生の一形態だろう。
 実は「“You”一つ限り」ではなく、“Thou”があった。「あった」というのは文字通り過去形だ。聖書の初期英訳やシェイクスピア作品には頻出し、近代初期までの文学作品に隠顕され、今ごく一部の英国方言に残る。死語に近い。古語ゆえに「汝」や「そなた」と邦訳される。親しく、なれなれしく、時には無礼を含意した。ともあれ上位者から下位者に向けられる言葉だ。これには複数形“thous”、“ye”がある(あった)。〉
 蛇足ながら後半部分を変更したい。英語がアメリカなどに渡って二人称に数の区別がないことに不便が生じ、造語された。アメリカ西部の“you guys”、南部、黒人英語で“you all”を短縮した“y'all”、スコットランド、アイルランドの“youse”などだ。後、“you guys”は男女兼用となり、他に“you boys” “you girls” “you folks”などが生まれた。やはりあちらでも人称は厄介らしい。 □