伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

不屈の人

2019年06月17日 | エッセー

「二十一歳のときに医師たちから余命五年と宣告され、二〇一八年に七十六歳になった人間として、私はまた別の、もっとずっと個人的な意味で、時間のスペシャリストだ。私はあまりうれしくない意味で時の流れをひしひしと感じているし、私に許された時間は、世に言う『借りもの』だと思いながら人生の大半を過ごしてきた」
 さらりと語ってはいるが、50年の延命である。筆舌に尽くせぬ苦闘の連続であったことは想像に難くない。いな、死と隣り合わせの半世紀だったといえよう。常人なら体以前に心がとっくに折れている。最優秀の医師団やインテルのハイテクに支えられていたとはいえ、この50年は勇気なくしてはなし得なかったにちがいない。かつて小稿で「勇気とは認知革命によって得た人類の特権的能力であり、グレート・ジャーニーも勇気ゆえになし得た。個人も人類も壁を切り拓くのは勇気だ」と呵した(17年3月『勇気について』)。その剛勇が現代のグレート・ジャーニーを可能にしたといえる。
 愛嬢はこう振り返る。
「父はけっしてあきらめず、闘いに背を向けなかった。七十五歳になって麻痺が進み、動かせるのは顔のいくつかの筋肉だけになっても、父は毎日ベッドを出て、スーツを着て仕事に出かけた。父にはやらなければならないことがあり、些細なことがらに行く手を阻まれるのを拒否した」
 意志に応じぬ無情な身体を「些細なことがら」と切って捨てるのは勇気以外のなにものでもないだろう。
「私はこの惑星上で、普通ではない生き方をしてきたけれど、頭と物理法則を使って、宇宙をまたにかける旅もした。銀河系の果てまで行ったこともあるし、ブラックホールの内部に入ったことも、時間の始まりにまで遡ったこともある」
 とも述べる。「普通ではない生き方」とは不治の病であるALS(筋萎縮性側索硬化症)と対峙しつつ前人未到の業績を残した「車椅子の物理学者」の謂だ。
 昨年3月の葬儀には2万7千人の応募者から千人が選ばれて列席した。障がいを抱える子どもや学生も多くいた。彼らにとって博士は自らを奮い立たせるロールモデルであったに相違ない。
 スティーヴン・ホーキング。イギリスの理論物理学者。「インフレーション宇宙論」、「特異点定理」、「量子重力論」、「時間順序保護仮説」など、過激でセンセーショナルな数々の学説を打ち立てた。かつ、最高度の理論を平易に語り社会に開いた。『ホーキング、宇宙を語る』はその代表作である。他にも講演会、海外はもとより4分間の無重力体験と、とてもアグレッシブであった。さらに社会問題への直言、さまざまな先駆的研究機関との連携も推進してきた。決して象牙の塔に安住する人ではなかった。
「ウェストミンスター寺院では、科学のふたりの英雄、アイザック・ニュートンとチャールズ・ダーウィンと並んで葬られることになったと教えてあげたいし、埋葬に合わせて、父の声が電波望遠鏡でブラックホールに向けて送信される予定だと教えてあげたい」
 と、ルーシー・ホーキング(前記の息女)は真情を綴る。
 日本も加わった国際チームがブラックホールの撮影に成功したのが今年の4月。ブラックホールはあらゆるものを吸い込んで逃がさない蟻地獄ではなく脱出可能だとした「ホーキング放射」が実証された歴史的快挙である。亡くなったほぼ1年後だ。怖ろしいほどの執念と因縁を感じずにはいられない。「父の声」は過たずにブラックホールに突き刺さることだろう。 「私が愛する人たち、私を愛してくれる人たちがいなかったなら、宇宙はうつろな世界だっただろう。その人たちがいなかったら、私にとって宇宙の不思議は失われていたにちがいない」  そう博士は謝意を口にする。しかし、頭を垂れるべきはわれわれの方だ。学説以上に驚かせ、インスパイアしてくれたこと。それは障がいを越えて進む勇気であり、不治の病をも追い風にする飽くなき挑戦だ。『どんなことがあってもへこたれない人、負けない人』と同時代を共にできた僥倖だ。『奇跡の人』ヘレン・ケラーに準えるなら、博士は『不屈の人』である。ロールモデルとしての不屈の人だ。不屈の人を前にしてどんな病も言い訳にはならぬ。愚癡や文句は赤面の至りであろう。
 博士はこう呼びかける。
「顔を上げて星に目を向け、足元に目を落とさないようにしよう。それを忘れないでほしい。見たことを理解しようとしてほしい。そして、宇宙に存在するものに興味を持ってほしい。知りたがり屋になろう。人生がどれほど困難なものに思えても、あなたにできること、そしてうまくやれることはきっとある。大切なのはあきらめないことだ。想像力を解き放とう。より良い未来を作っていこう」
 辞世の句と捉えたい。
 以上は、最後の書き下ろしとされる「ビッグ・クエスチョン── 〈人類の疑問〉に答えよう」(NHK出版、本年3月刊)に感銘を受けその一端を記した。引用もすべて同著からである。
 「ビッグ・クエスチョン」とは次の10問である。
 1 神は存在するのか?
 2 宇宙はどのように始まったのか?
 3 宇宙には人間のほかにも知的生命が存在するのか?
 4 未来を予言することはできるのか?
 5 ブラックホールの内部には何があるのか?
 6 タイムトラベルは可能なのか?
 7 人間は地球で生きていくべきなのか?
 8 宇宙に植民地を建設するべきなのか?
 9 人工知能(AI)は人間より賢くなるのか?
 10  より良い未来のために何ができるのか?
 なるほど、いずれもビッグだ。
 友人の理論物理学者キップ・ステファン・ソーン氏は頌徳の字にこう留めた。
「ニュートンはわれわれに答えを与えた。ホーキングはわれわれに問いを与えた。そしてホーキングの問いそのものが、数十年先にも問いを与えつづけ、ブレイクスルーを生みつづけるだろう。」
 難問、難関こそはブレイクスルーのとば口だ。 □