伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

シャーデンフロイデ

2018年02月08日 | エッセー

 16年が『サイコパス』(文春新書)、昨17年が『いじめ』(小学館新書)で、今年が『シャーデンフロイデ』(幻冬舎新書)である。中野信子女史は3年連続で、現代社会が抱える問題に脳科学から斬り込んできた。
 齋藤孝氏は新書とは知性と現代が交錯するライブ空間だという。まさにそれを地で行く3連作である。前作は帯の写真に魅入られた。やはりとても美形である。日本人女性初のMENSA会員(今はお辞めになっているが)という飛切りの知性と美形をなぜことさら繋ぐのか。「人は見た目が9割」だからではないか。おまけに声がいい(声音が低い女性には生来的に惹かれる)。謦咳に接する機会がない以上、耳目に頼るほかはあるまい。
 さて『シャーデンフロイデ』、副題に「他人を引きずり下ろす快感」とある。今風なら“メシウマ”(他人の不幸で今日もメシがウマい)、古典的には“他人の不幸は蜜の味”となる。先月の拙稿「スポーツおバカ その3」で触れたエンビー型嫉妬とジェラシー型嫉妬のうち、前者に当たろうか。
 その忌むべき悪感情の正体は何か。驚くべきことに、“愛と絆のホルモン”であるオキシトシンこそがその実体だと曝いてみせる。
 〈「愛」や「正義」が、麻薬のように働いて、人々の心を蕩かし、人々の理性を適度に麻痺させ、幸せな気持ちのまま誰かを攻撃できるようにしてしまう、ということです。〉(上掲書より、以下同様)
 この倒錯はなぜ起こるか。
 〈元来、人は争うことが好きで、争うことによって生き延びてきたからです。いま、この世にいる私たちはみな、生き残ってきた人間の子孫です。生き残るために戦って勝ち抜いてきた祖先のDNAを持っているわけで、基本的に争いを好むのは当然のことです。とくに、仲間がいて、「その集団を守らねば」という大義名分があれば、戦うことに対する抵抗感はひどく薄れます。〉
 抵抗感どころか、それを快感にまで引き揚げる媚薬がオキシトシンだ。愛と憎しみ、正義とサンクション。まるでコインの裏表のように、ヒトが「生き残るために」DNAに刻み込んだ戦略である。
 そう女史は脳科学の知見を駆使して縦横に解明していく。日常にはびこる同調圧や排除の論理。行き着く先はテロリズムの狂気。それら現代が抱えるアポリアの深層に迫る好著である。
 別けても興味深いのは、政治的信条も遺伝的な脳のタイプに因るとの論究である。リベラルもコンサバもDRP-2なるドーパミン受容体の型によって決まるという。鰾膠も無い話ではあるが、合点が行かなくはない。環境や教育に帰せ切れない政治的信条のコアがこれだとすれば、腑に落ちるからだ。今後の研究が待ち遠しい。
 同書から連想すると、教育現場の実態がネガのように浮かんでくる。シャーデンフロイデの蠢動だ。内田 樹氏は「できるだけ校則に従わない、できるだけ教師に無礼に接する、できるだけ時間割り通りに動かない、教室ではできるだけうるさくして、他の子どもたちの学習を妨害する」のは、市場原理が学校に入り込んだ結果、「『最少の学習努力』をさらに最少化する手立て」であるという(「内田 樹による内田 樹」から)。続けて、
「子どもたちは、全員で全員の学習努力を引き下げ合うことによって、『ウィン=ウィン』関係が成立することに気づきます。自分の学習努力を最少化するためには周囲の子どもたちにも勉強しないでもらわないと困る」
 と語る。絵に描いたようなエンビー型嫉妬であり、シャーデンフロイデの忠実な表出ではないか。となると、もう一つ想を跳ばさねばならない。アンバイ君の珍答弁である。
 不都合な追及を受けると、データを恣意的に援用しつつ決まって「御党の時はこうだったが、今はこう改善した」という話形を露骨に繰り出してくる。アベノミクスの正否については特にそうだ。国政の場でこんな子どもの手柄話を聞こうとは情けない。データを多面的に分析し、エビデンスを探る論議は微塵もなく、これでは一方的な街頭演説レベルである。どうもアンバイ君自身がメシウマ状態にあるというより大向うのシャーデンフロイデをくすぐっている、もしくは誘っているのではなかろうか。ならば、かなり性悪といわねばならない。彼のDRP-2に俄然興味が湧く。
 愛と正義が麻薬となって快感の内に理性を押し込めてしまう。なんとも荷厄介な生き物だ。 □