伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

ペンは剣よりも強し

2017年06月15日 | エッセー

 今月3日に封切られた映画「花戦さ」を観た。
 野村萬斎が上手すぎる。台詞回しも動きも、どうしても狂言、それの引き写し、もしくは現代版のそれを感取してしまう。それに、なにより話が狂言のようだ。かつて拙稿にこう記した。
 〈鍛え上げられた野太い声と隙のない所作、足拍子は絶妙な効果音だ。まさにどたばたの音だ。能と二つで悲喜劇の両面を担う。それにしても遙か古(イニシエ)の笑劇が、今なおなぜ笑いの波を起こすのだろう。それは人間の奥深いありように材を採っているからではないか。〉(13年7月「なぜ笑う?」)
 現代版はおかしみばかりではなく、涙もある。悲劇もある。しかし「人間の奥深いありよう」だけは的確に描いている。読み物でいえば、史実を基にした歴史小説ともいえる。
 映画COM.には次のように紹介されている。
──野村萬斎が、戦国時代に実在した池坊専好という京都の花僧に扮し、天下人である豊臣秀吉に専好が単身立ち向かう姿を描いたエンタテインメント時代劇。織田信長が本能寺で倒れ、天下人が豊臣秀吉へと引き継がれた16世紀後半。戦乱の時代は終わりを告げようとしていたが、秀吉による圧政は次第に人々を苦しめていた。そんな中、町衆の先頭に立った花僧の池坊専好は、花の美しさを武器に秀吉に戦いを挑んでいった。萬斎が池坊専好を演じるほか、豊臣秀吉役に市川猿之助、織田信長役に中井貴一、前田利家役に佐々木蔵之介、千利休役に佐藤浩市と、豪華な役者陣が顔を揃える。──
  秀吉役が猿之助とはなんとも憎い。狂言と歌舞伎のバトルともいえるし、狂言の鼻祖が猿楽であってみれば洒落めいてくる。それに、「猿」が筋書きの重要なファクターでもある。
 いけばなは古代において神の依代として発芽した。やがて仏前の供花として開花を迎え、さらに華道が結実する。だから「花僧」だ。舞台となる六角堂は聖徳太子の創建である。
 同時期に成立したのが茶道である。司馬遼太郎は今の生活の行儀、作法の原型は室町時代にできたという。乱世ではあったが生産力が飛躍的に上がり、文武の両面を経済的に押し上げた。それゆえ司馬は室町時代ほど輝ける時代はないといい、「われわれは室町時代の子孫」(講演集から)とも讃える。
 劇中では武の絶頂として秀吉が、文の爛熟として利休と専好が登場する。かつ、武と文が干戈を交える。「花戦さ」とはその謂だ。
 齋藤 孝氏は、利休の史的偉業は価値観の支配力を明示したことだという。今に至る日本人の美意識は利休の遺産だとし、
 〈戦国時代は力の強い者が支配する時代でした。武士の中でも強い者が土地を支配する。商人はお金の力で多少はそれに対抗できるかもしれませんが、それも一握りです。しかし、そうした武力や金というわかりやすいものとは別に、美意識を軸にして新たな価値で世の中に存在感を示すことができる。〉(祥伝社「型破りの発想力」から)
 と語る。自己肥大した武である秀吉に文を体現する利休は敢えなく潰える。そのリベンジが「花戦さ」だ。
 信長の居城、岐阜城の大座敷に盤踞する大砂物。その専好の作品を初見した時、利休は「けったい」と評する。大砂物とは、自然の景観と調和を表現する「砂の物」を幅広に極大化した形式である。豪壮なものだ。侘び寂び軽みとは対極にある。今様にいえば、シュールかプログレッシブとでもなろうか。もちろん専好はシチュエーションによって楚々たる「投げ入れ」(花瓶に投入したように自然に生ける)もする。いずれにせよ、対極の美に堺の人利休はコテコテの関西弁を発語した。脚本の妙であろう。互いは触発しつつ高みをめざす。
 秀作ではある。役者にも、演技にも文句はない。ドラマツルギーも上質である。ただ、映像が悪い。凡庸だ。ここぞという見せ場に迫力がない。つい黒澤映画の「夢」、その『桃畑』の艶やかな雛壇シーンを連想してしまうのだが、比するにまさに花を撮らんとするにいかにも貧相だ。世阿弥がいう「めづらしきが花なり」の花がない。意外性が、驚きがない。つまり、映像が「けったい」ではないのだ。現代池坊に、悲しいかな刻下の映像力が適わなかったのであろう。「花に負けた」というべきか。
 さて、「戦さ」である。勝敗はどう決したか。帰り道、ラジオが共謀罪の騒動を報じていた。頻りにあの箴言が浮かんだ。
「ペンは剣よりも強し」 □