伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

退位特例法付帯決議

2017年06月10日 | エッセー

 グリコのおまけみたいな付帯決議は渋々なされたものの、検討課題は「女性宮家の創設等」とされ、「等」の字に丸め込まれてしまった。「女性天皇」の女(ジョ)の字もない。なぜ保守層は異様に嫌うのか。
 〈皇室典範 第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。〉
 との法違反を挙げるのはトートロジーでしかない。もっとドラスティックに問いたい。
 生物学的な血統を前景化するなら、女性天皇がむしろ望ましいのではないか。アマテラスを祖神とする以上、ミトコンドリア・イブこそなによりのエビデンスであるからだ。だが、「男系の男子」という抜き難いこの執着は社会学的事由に因る。
 変な言い方だが、女性天皇自体は問題ない。推古天皇をはじめとしてかつて8人いた(重祚を入れると10代)。しかしすべて男系皇族の女性であり中継ぎであった。在位中に配偶者はいなかった。皇位は男系男子に継承されている。問題が惹起するのは、皇族以外の配偶者がいる場合だ(男系ピンチヒッターの継体天皇は皇族であったとされる)。その子(男性)が後継すると女系天皇となる。万世一系の「一系」が男系を前提としている以上、これが崩れる。これがボトルネックだ。
 理解のために極端な仮定をする。女性天皇が英王室の王子と結婚すると、どうなるか。その子が男系「一系」でなくなるのはもとよりだが、それと同時に天皇家とウィンザー朝が合一され新しい王朝(あるいは天皇家)が生まれることになる。ヨーロッパではよくある事例だが、天皇家は実態的に消える。国内でも事情は同じだ。仮に島津家嫡男とでは、「島津・天皇」家となる。手っ取り早くいえば保守層が最後の砦とし、まさにその「象徴」とする天皇家という家制度(家父長制)が瓦解する。それは彼らの死活的痛点を直撃する。郷愁の戦前的価値体系の具象が喪失される。だから忌避するのだ。家父長制による家制度こそ彼らの核心的イシューなのだ。
 家父長制をベースにした家制度は江戸時代の武士階級によって発達した(庶民は埒外だった)。明治政府はこれを法制化して、天皇家という擬制の総本家による全国の統治を構築した。「郷愁」の実態とはそういうことだ。ただ、無下に却けるばかりが能ではない。
 内田 樹氏は、こう語る。
 〈昔の「家」中心の家族は、愛情なんてあってもなくても、とにかく共同体を形成していることが一人一人が生き延びるために必要だったわけです。愛情ではなく、社会契約の上に立脚していたのです。(戦後に・引用者註)家父長的な家族システムを封建遺制として葬り去ってしまったわけですが、それを断罪するときに、それがどういうプラスの社会的機能を担っていたのかについてもほんとうは冷静に吟味すべきだったと思います。もし、今の家族制度のままであの時代(戦時・引用者註)のような危機的状況に際会した場合、果たして核家族は効果的な相互扶助組織として機能するでしょうか。ぼくは懐疑的です。〉(「疲れすぎて眠れぬ夜のために」から)
 こういう洞見の上でなら、家父長的家制度への固執も頷ける。核家族の対概念としての家制度である。刻下の社会が抱える諸問題の基底的要因として家族のあり方が問われる(さらに核家族の果てに朝日新聞の造語である「孤族」化も)、そのコンテクストでなら家制度への指向は肯んじうる。あくまでも、「郷愁」としてのそれではない。
 ではレンジを広げたい。すると、人類はなぜ家父長制を選択してきたのかという疑問にぶつかる。そう、地上至るところで、かついつも人類は例外なくこのシステムを採用してきたからだ。
 今年1月に取り上げた『サピエンス全史』でユヴァル・ノア・ハラリは「生物学的作用は可能にし、文化は禁じる」という経験則を挙げ、「人々に一部の可能性を実現させることを強い、別の可能性を禁じるのは文化だ」と述べている。その好個の例として「家父長制」に言及し、
 〈何か普遍的な生物学的理由があって、そのせいでほぼすべての文化で男らしさのほうが女らしさよりも重んじられた可能性のほうがはるかに高い。その理由が何なのかは、私たちにはわからない。説は山ほどあるが、なるほどと思わせるようなものは一つもない。〉(上掲書より)
 と、「普遍的な生物学的理由」を棚上げにしている。だから、「文化は禁じる」なのだ。続いて、過去1世紀の間にジェンダーは劇的にフリー化していると述べ、
 〈今日明確に実証されているように、家父長制が生物学的事実ではなく根拠のない神話に基づいているのなら、この制度の普遍性と永続性を、いったいどうやって説明したらいいのだろうか?〉(同上)
 と、「根拠のない神話」に溜息交じりの疑問符を突き付けている。歴史学の泰斗が鳥瞰する図はまことに大きい。比するに、本邦は危機対応の上からも「家父長的な家族システム」に再考が求められる段階にある。停滞と観るか、退歩と捉えるか。なんとも悩ましい。 □