伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

『ぼくの新しい歌』

2017年06月27日 | エッセー

 拓郎の新曲である。昨年9月、拙稿で「70歳のラブソング」と題して紹介した。今春リリースされた『LIVE 2016』DVD・Blu-ray版のボーナストラックとして収録されている。今、これにハマっている。
 不思議な吸引力に満ちた曲だ。作詞は康珍化。『全部だきしめて』もそうだが、憎いほど、悔しいほど巧い。姜 尚中氏と同様、在日二世の混濁が稀に見る純度で蒸留された澄明な美禄になったのであろうか。嗜む者を惹き、今の日本のありようとその心象を過たず掬う。
 ハマっている理由はどうも“リメンバー『結婚しようよ』”であるらしい。この曲については12年7月の愚稿「いまさら『結婚しようよ』」で、神戸女学院大学教授の難波江和英氏の「恋するJポップ──平成におけるディスクール」を徴しつつ管見を述べた。それを下敷きに“リメンバー”を探ってみたい。
 難波江氏は『結婚しようよ』を「牧歌的といえるほどのどかな歌である」と評した。『ぼくの新しい歌』も同等だ。メロディーはシンプルで確かに“牧歌的”だ。老いを迎える夫婦の日常をコロキアルな言葉で綴った“のどかな歌”でもある。しかし難波江氏は“牧歌”が背負う革新性を見逃さなかった。その革新性が拓郎世代の琴線を掻き毟り、見逃した連中は帰れコールを浴びせた。
 上掲稿の繰り返しになるが、以下の4点である。
1)家より本人、家(制度)からの独立、個人の意志(自立)
2)地元より町、都会志向
3)神式より教会式……西洋志向
4)親戚縁者より仲間…共同体から友だち、グループへの移行
 周知のことゆえ、歌詞とのレファランスは省く。あれから44年、4点とももはや抜き難い価値観、慣習となっている。革新はとうに古びた。家父長制は崩れ去ったし、東京への一極集中は已まない。グローバリゼーションは西も東も平準化したし、ITは仲間を驚異的に重層化した。そこに登場したのが『ぼくの新しい歌』である。以下、牽強付会──。
 「ぼく」はもちろん拓郎だが、ぼくたち「拓郎世代」でもある。「歌」を『結婚しようよ』だとすれば、そのリメークが「新しい」だ。
「きみが好きだって 内緒で書いたんだ」
 と語り、
「きみの新しいシャツが 好きなんだ」
 と続ける。それでいて、
「だけど その辺はうまく隠したから きみは聞いたって きっとわかんないさ」
「だけどそういうと 着なくなっちゃうから 興味ないフリして 横目で見てるんだ」
 とエクスキューズする。70のじいさんがなにを恥ずかしげもなくと、こちらが赤面するほどの惚気である。枯れてないといえなくもないが、これは『結婚しようよ』で5回もリフレインされた「結婚しようよ」のフレーズを耳にした時の気恥ずかしさと同質ではないだろうか。当時、あれほど明け透けにカジュアルなフレーズを求婚に使ったりはしなかった。
 香山リカ女史は「Jポップはあまりに等身大な世界を歌っているので、仮想現実の持つ凄みや浮遊感という点では今ひとつである。洋楽のサウンドから浮力を得ながら、言語のレベルで日常生活の重力に引っ張られて、現実性の大地に引き戻されている」とかつて語ったそうだが、それはあまりに短慮というものだ。少なくとも一流ミュージシャンは「等身大な世界を歌っている」ように見せて「仮想現実」に「浮遊」し、「言語のレベルで日常生活の重力」を削ぎ落とす術を心得ている。でなければ、演歌の衰退を尻目にJポップがこれほど重畳の歴史を刻むはずはない。一体、香山女史は中島みゆきの「浮遊感」をどう説明するというのだろう。
 ともあれ、『ぼくの新しい歌』の気恥ずかしさは『結婚しようよ』のそれと類似性が高い。相当高い。「言語のレベルで日常生活の重力」を振り切っているからだ。「そんなこといわないだろう」と、仲間内で頷き合う蓋然性が同等に極めて高い。確実に高い。
「きみが言うことは大体当たっている」
 とは認めつつも、
「だけど欠点もそれなりにぼくだし 反省したくせに懲りていないんだ」
 と空とぼける。
「きみは喧嘩するとなんでも投げつける だけどどうしてなんだろ一度も ぼくに当たったためしがないんだ」
 これは「日常生活の重力」を撓める老練な技だ。そして、極めつきが7回も繰り返される
「愛してるって なんてテレくさいんだ」
 である。
 もうお判りいただけるであろう。『ぼくの新しい歌』は『結婚しようよ』のアンサーソングである。44星霜を越えたアンサーであり、それはそのまま拓郎世代が担う(べき)老いらくの革新性を歌っているのだ。かつて『結婚しようよ』が牧歌に隠し持っていた革新性を愛でた世代が高齢化の波に対峙している。傍らには同類の連れ合いがいる。
 〈心まで老いちゃだめ。「愛してるって」そっと聞こえないように呟いてごらん。今だからこそ、そうするんだ。「結婚しようよ」のアンサーは「愛してる」。意外だろうけど、そうなんだ。だって、それが老いらくへのぼくたちの「日常生活の重力」を振り解くアンチテーゼだから。「結婚しようよ」が共感を呼んだように。〉
 とでもいうのではないか。
 「70でも80になってもラブソングを歌いたい。ラブソングを作り続けたい。ずっと言い続けてることなんだけど、ラブソングのない音楽なんて話になんない。ラブソングの側にいたいのは永遠のテーマです」と拓郎はインタビューに応えている。
 蛇足ながら、老化防止に本能に属する刺激が有効であるとか、ましてや老いらくの恋を勧めるものではない。
 話はこれで終わらない。
「なんてテレくさいんだ」
 も7回リフレインされる。ここだ。なんだかんだ言っても、拓郎さんは日の本のおのこなのだ。難波江氏は上掲書で、
「しかし他方、この歌(『結婚しようよ』・引用者註)の主人公も、根本から進歩派だったとはいえないだろう。たとえば地元より〈町〉、神式より〈教会〉がアカ抜けていると考えること自体、見方によれば非常にヤボったく思われる。そこには、新しいものに飛びつく日本人の田舎根性と保守性が透けて見える」
 と斬り込んでいる。しかし、それもまた浅見というべきではないか。「田舎根性と保守性」という俗っぽさこそが「仮想現実」への「浮遊」力になる。そういう力学を身に帯してこそ世に受け入れられる。それは、『寅さん』を想起すれば足りる。深山幽谷に住まう寅さんなぞ単なる戯画でしかない。
 日に何度もなんども聴くものだから、愚妻があらぬ勘違いを口にした。
「ん、そういうことなんだね」
 なにを血迷ったか、この不届き者。そこへ直れ、拙者が成敗してくれようぞ!! □