伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

元祖エッセイストに学ぶ

2015年10月17日 | エッセー

 本ブログはサブタイトルに記しておりますように雑感を書きなぐったもので、とてもエッセーなどと呼べる代物ではありません。ただ、そうあれかしと願わないわけでもありません。そこで、元祖エッセイスト“少納言”大姐御の爪の垢でも煎じて飲んでみようかと考えました(言わでものことですが、姓が清/名が少納言。ペンネームです)。ご存じ、『枕草子』です。
 日本語学の泰斗である埼玉大学名誉教授の山口仲美先生のご本に訓(オシエ)を乞います。昨月発刊のNHK出版『清少納言 枕草子』です。
 ついでながら、「まくらのそうし」ではなく、元々は「まくらそうし」と「の」の字を入れずに呼んだそうです。『とぎそうし』……つまらない共通点を見つけて糠喜びするのは下衆の極み、溺れる者は藁をも掴む、ですね。
 山口先生は「韻文を書く力と散文を書く力は別のもの」であり、清少納言は「感情をそのまま表出する韻文型の人間ではなく、ものごとを客観的に見る散文型の人間だった」とおっしゃいます。「それまで自然の美しさは歌で詠むものであり、散文のテーマになるとは誰も思っていませんでした。そんな中で、清少納言がはじめて風景描写を散文に持ち込み、見事に文学として成立させた」のだそうです。
 しかも、その「持ち込み」方が天才的に斬新! 超有名な第一段から。

 春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
 夏は夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほかにうち光て行くもをかし。雨など降るもをかし。
 秋は夕暮れ。夕日の差して山の端いと近うなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などの連ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。
 冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭持て渡るも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりてわろし。

 先生曰く、「その季節における最も情趣のある事柄を『時間』という観点から切り取っている」。ベタな風景ではなく、自然を時間で切り取る。春は“桜”じゃなくて、夜明け。夏は“海”じゃなく「夜」、そして「月」が満ちる際(キワ)。秋は“紅葉”じゃなく陽が移ろう夕間暮れ。冬は“雪”じゃなくて「朝」。なるほど、これはスゴい! 同じ切り取りでも、コピペばかりのわたくしなぞ穴があったら入りとうございます。大姐御の一世どころか、永世を風靡する天稟とはこのようなものかと畏れ入るばかりです。
 エッセイストに必要な資質として、先生は次の五点を挙げています。
(一)散文を書く力があること。
(二)文章にテーマを設定するのがうまいこと。
(三)人と違ったものの見方ができること。
(四)観察力・批判力に優れていること。
(五)興味関心の幅が広いこと。
 一々は申しません。詳しくは同書をお読みいただくとして、何点か掻い摘まんで申し上げます。(五)に関連して大姐御が大衆に支持される大きな理由の一つに、
「彼女の立ち位置が、とてもミーハー的なこと。気になる人がいれば覗き見し、気になる気配がすれば耳をそばだてる。このようなミーハー的な立ち位置から書いているので、多くの人の共感を得ることができるのです。
 多くの人に共通するミーハー的なことにも、人一倍の興味関心を持っていました。男や女、老人から赤ん坊まで、人間に対して貪欲な好奇心を持って観察していました。また、祭見物や行列見物が大好きで、矢も楯もたまらず見に行っています。」
 と先生は指摘しています。わたくしも、ことミーハーでは人後に落ちません。レベルもラベルも雲泥万里ではありますが、大姐御の爪の垢と幾分かは同種かと感じ入っております。
 さらに、「清少納言は、当時の女性には珍しいほど興味関心のありどころが広い。たとえば、言語。普通の女性は、言語にあまり興味を示しません。現代でも、文学を研究する女性は多いのに、言語を研究する女性は少ないことからも証拠立てられます。清少納言は、普通の女性が興味を持たない語源解釈や言葉のシャレに興味津々。言葉の語源に興味を持ち、その言葉の由来を聞いてみる」ことに熱心であったともおっしゃっています。
 これは勇気百倍。ほとんど病的なわたくしの性行をオーソライズしていただいているようで、感激に耐えません。日頃、親父ギャグと白眼視する連中にも教えてやりたい。清少納言だってオバさんギャグ(失礼!)を連発していたんだぞ、『枕草子』を読んだことがないのかい、と。
 (四)について。
「清少納言は、どんな言葉遣いを下品と考えていたのでしょうか? 田舎びた言い方、発音の省略、訛っている発音、など。また、敬語の使い方がいい加減な人のことを批判しています。
 でも、すごいところは、下品な言葉、悪い言葉遣いでも、本人が意識的に使っている時は認めていることです。そういう言葉の効果も心得ていることです。『相手や場面や効果を考えて、言葉というものは使うものです』。これが、清少納言の主張。」
 都鄙、華夷意識が前段だとすると、知的パフォーマンスは後段の捻りにあり、でしょうか。いや、前人未踏、“後人難踏”の境位でありましょう。
 おおーと大姐御の御前(ミマエ)に額ずきたくなったのは以下の分析です。
「類聚的章段の発想。同じ傾向を持つさまざまのジャンルのものを集めて列挙してみるという方法。瓜、雀、赤ん坊、雛遊びの道具、蓮の葉・葵の葉。それぞれ、全く異なるジャンルの事物を並べ、そこに共通点を見出すという発想に新鮮な驚きを覚えたのです。引用の最後に『小さきものは、みなうつくし』と書いてあって、ハッとさせられます。そういえば、日本人は小さいものを愛する。ずっと昔から流れ続ける日本人の感性なのだと気づかされる。」
 苦節、屈折877回を振り返って、奇想天外、牽強付会のなんと多いことか。「類聚的発想」などという高邁なものではありませんが、ジャンル違いに無理やりアナロジカルなこじつけを押し込むというのは本ブログの常套手段です。猿の真似でも、真似は真似。中身は下衆の極みでも、カッコだけは付いてるか、などとほくそ笑んでおります。
 終わりに、これは真似ではないなという山口先生の御高説を。
「清少納言はとてもじれったがり屋です。何でも、予定通りにいかないと、いらいらじりじりしています。けれど、面白いことに、こと、恋愛になると、清少納言は乙女のように、どきどきわくわくはらはらしてしまう人なのです。」
 これは頷ける。わたくし、「予定通りにいかないと」すぐ狂います。近ごろでは「なんて日だ!」と咆えます。因みに、拓郎さんも一緒です。彼はアドリブが嫌いです。それにカムアウトしまと、「けれど、」なにのことになると「乙女のように、どきどきわくわくはらはら」なんです。いや、なんでした。本当です。大姐御に誓って嘘ではありません。
 と、なんだか自画自賛になってきました。もう一回例の煎じ茶を飲んで、勉強し直します。はい。 □