伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

分かりにくい言い訳

2015年10月21日 | エッセー

〓「怪しうこそ物狂ほし」とは知的練達と呻吟のアンビヴァレンツを述懐したものだと、解(ホド)いてくれたのは小林秀雄であった。
「物が見え過ぎ、物が解り過ぎる辛さ」
 小林秀雄著『徒然草』のこの一節に至った時、「二十代」であった稿者の背筋を稲妻が奔った。〓
 これは昨年6月の拙稿『爺 再考』の一部である。ほかにも「背筋を稲妻が奔った」センテンスは幾つかあった。
「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。」(モオツァルト)
 これぞダンディズムの極み。今に至るまでこれほどカッコイイ章句に出逢ったことがない。
「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない。」(当麻)
 文意を貶めるのを覚悟で超々ぶっちゃければ、洒落や落ちを説明したのではおもしろくもなんともないとパラフレーズできるかもしれない。
「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」(無常といふ事)
 「解釈を拒絶」されているほど訳が分からないのに、妙にフレーズが「美しい」と痺れた。
 分かりやすく書きなさいと教え込まれてきたのに、一文字ずつは理解できても併置されるとまったく理解が飛んでいく。今なら「なんて日だ!」と言ったにちがいない。しかし「背筋を稲妻が奔った」のは確かだ。なぜだろう。
 かつては難解さから入試問題に多用された。丸谷才一は生前、「飛躍が多く、語の指し示す概念は曖昧で、論理の進行はしばしば乱れがち。入試問題の出典となるには最も不適当」と扱き下ろした。ある時、小林秀雄の娘が国語の試験問題を見せて「何だかちっともわからない」と嘆いた。彼が「こんな悪文、わかりませんとこたえておけばいい」とうっちゃったところ、「でも、これお父さんの本からとったんだって」と逆襲された。御本人が書いたエピソードである。
 小林の難解さについて国学院大学教授の高橋昌一郎氏は、「逆説。二分法。飛躍。反権威主義。楽観主義」の五つの特徴があるという(13年10月朝日新聞)。詳説は措くとして、氏は「自分の感動をいかに伝えるか、読者の胸を打つにはどうすればいいかを考え抜いた結果の文体」だという。文末を「だ」にするか、「である」にするかで一日呻吟したという話もある。
 さらに氏は跳び上がるほど驚きの比喩を使う。深い敬愛を込めて『酔っ払いのおじさん』、と。世故長けたおじさんが酔っ払うと、話が逆さまになったり、変に決めつけたり、ぽーんと筋が飛んだり、妙に意固地なくせに、決して暗くはない。素面のおじさんは理屈っぽくていけない。ほろ酔いで捲し立ててくれるのがいい。そんなところか。
 自身も紛れもなくその一類である内田 樹氏が難解な文章について熟思を記している。以下、要約。
◇分かりにくく書く人には二種類ある。
1. 「むずかしいことを言う」ことが知的威信の一部だと思っている人々である。この人たちの書くものは、おのれの強記博覧を開陳するばかりで、「私は賢い」という以外には読者に向かってとくに伝えたいメッセージがあるわけではない。こういうものはさらっと読み流しておけばよろしい。
2. 彼らの側に「言いたいことがある」というよりはむしろ、読者に「何かをさせる」ためである。彼らは次のような読者からの問いかけを励起するために、わざと分かりにくく書いている。「あなたは『何が言いたいのか分からないような文体で書く』ことによって、私に何を言いたいのか?」 テクストの語義を追う読みから、書き手の欲望を追う読みへのシフト。語られている当のこととは別の、もっと深い欲望にかかわることに誘うためだ。◇(「他者と死者」から)
 「別の、もっと深い欲望」とは、例えば哲学的探究への誘いなどであろうか。そのブレークスルーとして『何が言いたいのか分からないような文体』があるのだろう。「背筋を奔った」「稲妻」の正体はそれだったといえなくもない。
 さて本ブログの佶屈聱牙は1. を事由とする以外、高橋、内田両氏の洞見には寸毫も該当しない。むしろそれら卓説のエピゴーネンたろうとすることに因る。これが本稿の分かりにくい言い訳である。
 以上、辺境に住まう一ディレッタントのペダンティックな微意を御領諾の上、今後ともどうか「さらっと読み流し」のほど、平にお願いいたします。 □