変な言葉や言葉遣いについては、再三再四取り上げてきた。このブログで吼えたところでどうにかなるものではない。しかし義憤という大仰なものではないが、吐き出さなければストレスが溜まる。身体に悪い。今回はオカシいのが一つ、オモシロいのが一つである。
その一 『うなずき』。
相手の話にうなずくのではない。自分の話にうなずく。話の途中や切れ目に、首を縦に振る。つまり、うなずきながら話す。この現象、最近顕著ではないか。わたしの見まちがいであろうか。
さらに、話の区切りに「ハイ」または「うん」がやたらに入る。決してYESの「ハイ」や「うん」ではない。相手の話に相槌を打つのではない。自分の話に相槌を入れるのである。このオカシな現象、蔓延してないか。
『うなずき』は「ショップことば」や「中高生ことば」に頻発する。微細な表現は柳原可奈子に譲る。おじさんにはとても無理だ。それにしても、今やさまざまな年齢層で見受けられる。
自信のなさの裏返しか。アップトークの変形なのか。あるいは、退嬰化の末の自問自答か。とこうに考えあぐねていた時、ふと脳裏を過(ヨギ)ったのが「ファティック」である。
ファティックとは「交話」と訳す。言語学者の金田一秀穂氏によると、なにがしかの情報をやり取りするのではなく、話をすること自体が大事な会話になること。挨拶はこれに当たる。「おはようございます」に由来はあるにしても、さしたる意味はない。文字通り「交わす」ことに意味と目的がある。氏は恋人同士の会話を例に引く。満天の星のもと ――
「星がきれいだね」
「そうね」
「あの星がきれいだね」
「あれもきれいね」
―― ふたりで見上げる星空。この会話には情報らしきものはひとつもない。氏はこう言う。
~~原理的な翻訳をすれば
「あなたが好きだ」
「あなたが好きよ」
「あなたが好きだ」
「あなたが好きよ」
ということになってしまう。他愛がない。ことばの起源の現場を見た人はどこにもいないのだから、あくまで仮説にすぎないけれど、ことばがお互いが仲良くするという目的のために生まれたのだという考えは、ちょっと魅力的だと思う。~~
情報伝達に先だって、親和の手段が言語だったとは実におもしろい。それはともかく、以下をご一読願いたい。
~~心のおもいを紡ぎ出したものが言葉である以上、言葉やその使われ方のなかに、時代の心が響いている。言葉は社会の「写し絵」でもある。
前述の例(『的語(テキゴ)』『みたい語』『とか弁』『って話法』『の方言』アップトーク症候群』)に通底していることは、「ぼかし」である。物事をはっきりと語らない。断定を避け、主張を飲み込んで、すべてをオブラートに包む。言葉はキャッチボールされるのではなく、風船のように空(クウ)にただ放たれる。相手の内面には容易に踏み込まない。心の距離間を微妙に保つ。お互いが傷つかない工夫と知恵。心を傷つけまいとするやさしさが、さまざまな言葉を生み、新手の話法を編み出したのだろう。
だが、待てよ。なにかが足りない。心中に血を流してでも「正義」や「決意」を打ち合う道具としての言葉はどこへいったのか。言葉が、たがいにぶつかり合わないための緩衝材としてしか機能しない現実。トーク番組が隆盛で、言葉はさかんに行き交ってはいるものの、心中に何も痕跡をとどめない言葉の群。~~(本ブログ第2回、06年3月23日付「ヘンなことば」より抜粋)
この文脈で考えると、会話がおしなべてファティックになりつつあると言い換えることもできよう。会話の「交話」化である。とすると、『うなずき』はファティックへの抗(アラガ)いではないか。「風船のように空(クウ)にただ放たれる」言葉の群をなんとか繋ぎ止めようとする抗いではないのか。交話から先に進まない言葉を巡る状況へのもどかしさが、奇しくも表出しているのではないか。言葉の「キャッチボール」をはじめようとする前兆か。
これは好意的に過ぎる見方かもしれない。あるいは全くの的外れか。ともかくも現代日本のエニグマではある。
その二 『組合』。
オカマちゃんのことである。最初耳にした時、命名のセンスのよさに唸った。実にオモシロい。てっきりおすぎとピーコだろうと踏んだのだが、どうも島田紳助らしい。なにかの番組で、紳助がおすピーを「組合長」と呼んだのがきっかけらしい。
かつては日陰者であった彼らが、最近ではすっかりメジャーになった。某国営放送にも平気で出演するようになった。一時代前には、考えられないことである。先駆者・おすピーの功績大であろうが、それぞれに一芸に秀でている。決して変異な際物振りや、外連(ケレン)だけで売っているわけではない。元祖・美輪明宏は言うまでもない。おすぎは映画評論家、ピーコはファッション評論家であるし、山咲トオルは漫画家、KABAちゃんは振り付け師、假屋崎省吾は華道家、イッコーはメイクアーティスト、とそれぞれに当代一級の才能の持ち主だ。
そこで、『組合』だ。まさか信用組合でも生活協同組合でもなかろう。やはりこの場合、労働組合であろう。終戦直後、労組の組織率は60%以上を誇った。全労働者の6割以上が組合員だった。だが次第に組織率は低下し、2005年末には18.7%にまで下落。特に従業員100人未満の小企業では3%にも満たない。日教組ですら50年前の9割からいまや3割を切っている。組合にかつての威光はない。
なぜか ―― 。社会保障制度が組合の代替をするようになったこと。バブル後のリストラによる組合の解散などが挙げられる。しかし、最大の要因は日本が豊かになったことだ。当然、意識も変わる。「全国の労働者よ、団結せよ!」など、今やカリカチュアでしかない。組合主催の行事など、組合費から日当をもらって参加するイベントとなった。組合でしか充足できないニーズなど、もはやありはしない。政治的意志でさえもが多様化した。一二の政党で掬えるものではない。社会構造も変化し、階級論で括れるほどに単純ではなくなった。なにせ「労働者」という言葉の、なんと陳腐なことか。その辺の事情は政党も最近は心得ていて、「働く人たち」などと言い換えている。でも、頭の中までは容易(タヤ)く変わらないらしいが……。
そこに突如飛び出してきたのが『組合』である。「社会の底辺で喘ぐ恵まれない労働者諸君。この旗のもとに集い来れ。団結しようではないか。団結は力なり」 ―― かくなる組合の精神をダブらせたとしたなら、紳助のネーミングは抜群である。もう、脱帽である。
ところで『組合員』の明るさに引き換え、逆パターンの暗さ。といっても、こちらはいっかな表舞台に現れない。現れない以上明るいも暗いもないのだが、存在自体が淫靡なままである。『組合』の結成が待たれるところか。
なにはともあれ、死語の復活は感動的でさえある。□
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その一 『うなずき』。
相手の話にうなずくのではない。自分の話にうなずく。話の途中や切れ目に、首を縦に振る。つまり、うなずきながら話す。この現象、最近顕著ではないか。わたしの見まちがいであろうか。
さらに、話の区切りに「ハイ」または「うん」がやたらに入る。決してYESの「ハイ」や「うん」ではない。相手の話に相槌を打つのではない。自分の話に相槌を入れるのである。このオカシな現象、蔓延してないか。
『うなずき』は「ショップことば」や「中高生ことば」に頻発する。微細な表現は柳原可奈子に譲る。おじさんにはとても無理だ。それにしても、今やさまざまな年齢層で見受けられる。
自信のなさの裏返しか。アップトークの変形なのか。あるいは、退嬰化の末の自問自答か。とこうに考えあぐねていた時、ふと脳裏を過(ヨギ)ったのが「ファティック」である。
ファティックとは「交話」と訳す。言語学者の金田一秀穂氏によると、なにがしかの情報をやり取りするのではなく、話をすること自体が大事な会話になること。挨拶はこれに当たる。「おはようございます」に由来はあるにしても、さしたる意味はない。文字通り「交わす」ことに意味と目的がある。氏は恋人同士の会話を例に引く。満天の星のもと ――
「星がきれいだね」
「そうね」
「あの星がきれいだね」
「あれもきれいね」
―― ふたりで見上げる星空。この会話には情報らしきものはひとつもない。氏はこう言う。
~~原理的な翻訳をすれば
「あなたが好きだ」
「あなたが好きよ」
「あなたが好きだ」
「あなたが好きよ」
ということになってしまう。他愛がない。ことばの起源の現場を見た人はどこにもいないのだから、あくまで仮説にすぎないけれど、ことばがお互いが仲良くするという目的のために生まれたのだという考えは、ちょっと魅力的だと思う。~~
情報伝達に先だって、親和の手段が言語だったとは実におもしろい。それはともかく、以下をご一読願いたい。
~~心のおもいを紡ぎ出したものが言葉である以上、言葉やその使われ方のなかに、時代の心が響いている。言葉は社会の「写し絵」でもある。
前述の例(『的語(テキゴ)』『みたい語』『とか弁』『って話法』『の方言』アップトーク症候群』)に通底していることは、「ぼかし」である。物事をはっきりと語らない。断定を避け、主張を飲み込んで、すべてをオブラートに包む。言葉はキャッチボールされるのではなく、風船のように空(クウ)にただ放たれる。相手の内面には容易に踏み込まない。心の距離間を微妙に保つ。お互いが傷つかない工夫と知恵。心を傷つけまいとするやさしさが、さまざまな言葉を生み、新手の話法を編み出したのだろう。
だが、待てよ。なにかが足りない。心中に血を流してでも「正義」や「決意」を打ち合う道具としての言葉はどこへいったのか。言葉が、たがいにぶつかり合わないための緩衝材としてしか機能しない現実。トーク番組が隆盛で、言葉はさかんに行き交ってはいるものの、心中に何も痕跡をとどめない言葉の群。~~(本ブログ第2回、06年3月23日付「ヘンなことば」より抜粋)
この文脈で考えると、会話がおしなべてファティックになりつつあると言い換えることもできよう。会話の「交話」化である。とすると、『うなずき』はファティックへの抗(アラガ)いではないか。「風船のように空(クウ)にただ放たれる」言葉の群をなんとか繋ぎ止めようとする抗いではないのか。交話から先に進まない言葉を巡る状況へのもどかしさが、奇しくも表出しているのではないか。言葉の「キャッチボール」をはじめようとする前兆か。
これは好意的に過ぎる見方かもしれない。あるいは全くの的外れか。ともかくも現代日本のエニグマではある。
その二 『組合』。
オカマちゃんのことである。最初耳にした時、命名のセンスのよさに唸った。実にオモシロい。てっきりおすぎとピーコだろうと踏んだのだが、どうも島田紳助らしい。なにかの番組で、紳助がおすピーを「組合長」と呼んだのがきっかけらしい。
かつては日陰者であった彼らが、最近ではすっかりメジャーになった。某国営放送にも平気で出演するようになった。一時代前には、考えられないことである。先駆者・おすピーの功績大であろうが、それぞれに一芸に秀でている。決して変異な際物振りや、外連(ケレン)だけで売っているわけではない。元祖・美輪明宏は言うまでもない。おすぎは映画評論家、ピーコはファッション評論家であるし、山咲トオルは漫画家、KABAちゃんは振り付け師、假屋崎省吾は華道家、イッコーはメイクアーティスト、とそれぞれに当代一級の才能の持ち主だ。
そこで、『組合』だ。まさか信用組合でも生活協同組合でもなかろう。やはりこの場合、労働組合であろう。終戦直後、労組の組織率は60%以上を誇った。全労働者の6割以上が組合員だった。だが次第に組織率は低下し、2005年末には18.7%にまで下落。特に従業員100人未満の小企業では3%にも満たない。日教組ですら50年前の9割からいまや3割を切っている。組合にかつての威光はない。
なぜか ―― 。社会保障制度が組合の代替をするようになったこと。バブル後のリストラによる組合の解散などが挙げられる。しかし、最大の要因は日本が豊かになったことだ。当然、意識も変わる。「全国の労働者よ、団結せよ!」など、今やカリカチュアでしかない。組合主催の行事など、組合費から日当をもらって参加するイベントとなった。組合でしか充足できないニーズなど、もはやありはしない。政治的意志でさえもが多様化した。一二の政党で掬えるものではない。社会構造も変化し、階級論で括れるほどに単純ではなくなった。なにせ「労働者」という言葉の、なんと陳腐なことか。その辺の事情は政党も最近は心得ていて、「働く人たち」などと言い換えている。でも、頭の中までは容易(タヤ)く変わらないらしいが……。
そこに突如飛び出してきたのが『組合』である。「社会の底辺で喘ぐ恵まれない労働者諸君。この旗のもとに集い来れ。団結しようではないか。団結は力なり」 ―― かくなる組合の精神をダブらせたとしたなら、紳助のネーミングは抜群である。もう、脱帽である。
ところで『組合員』の明るさに引き換え、逆パターンの暗さ。といっても、こちらはいっかな表舞台に現れない。現れない以上明るいも暗いもないのだが、存在自体が淫靡なままである。『組合』の結成が待たれるところか。
なにはともあれ、死語の復活は感動的でさえある。□
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