今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

裁判における被害者感情

2009年05月16日 | 時事
裁判員制度が始まることもあり、最近の裁判傾向について気になる事を述べておく。

福岡の飲酒運転事故(3人の幼児が死亡)の2審判決は懲役20年。
遺族の思いが伝わったとされる。
また名古屋の闇サイト殺人では、遺族が死刑にならなかった被告の死刑を求めて、署名活動中で、署名は30万人に達したという。
このように、最近は遺族の心情を量刑に反映させようとする傾向がある。
この問題を冷静に考えてみたい。

近代欧米の刑法の発想は、それまでの「応報刑」から被告の更生・社会復帰を期待する「教育刑」に変化した。
罪を憎んで人を憎まずという発想であり、また収監人数を減らす財政的な意味もある。
だが、それによって被害者(とその遺族)は事件の当事者から排除されてしまった。

犯罪の当事者は加害者と被害者であり、司法は第三者である。
なので本来は、当事者間で決着をつけるもの。
江戸時代の日本では、親を殺された武士には「仇討ち」が義務とされた。
今でも家族を殺された遺族は、犯人に仇討ちしたい気持ちだろう。
仇討ちを禁じて、国家が被害者に代わって刑罰を下すようになり、そして国家の意思で刑法思想が採用される事により、犯罪でもっとも傷ついた被害者側の意思が、判決の場から排除されてしまった。
その矛盾にやっと気づいたおかげで、被害者感情が重視されるようになったわけだ。

だが、それは私憤の公憤化(マスコミも一役)ともいえ、怒りにまかせた厳罰化の方向となる。
私は、”感情”を悪とみなさず、心の本質とみているので、被害者”感情”は量刑に反映すべきでない、と言っているのではない。
むしろ、被害者感情は罪の構成要因であるとみなしたい。
ただその評価をどうするかが難しい。

そもそも量刑の妥当性の基準は何か。
1つはハムラビ法典以来の、与えた損害と等しい,いわゆる応報主義の基準(他は判例主義の基準)。
教育刑信奉者は”古くさい”と鼻で笑うだろうが、被害を基準にしている点で被害者側を排除した教育刑の欠点がなく、社会的相互作用の普遍原則と合致して時代を超えた妥当性がある。
賠償額は少なくとも損害額に等しくなるという理屈は受け容れやすい。
それと同じ論理で、殺人に対する死刑も妥当となる(誤審でないことは前提)。
ただ実際には、さまざまな事項が”酌量”されることで、量刑が軽くなる方向が開かれる。
その結果、加害者側の事情のみが量刑の考慮対象となってしまった。

結局、加害者側と被害者側の考慮のバランスを回復することが、社会的に公平な判断となるということだ。
だから、逆に被害者感情のみに動かされることも、また不公平となるのである。

福岡の事故の後の、飲酒(+酒気帯び)運転に対する、すなわち酒気帯び運転(無事故でも)と死亡事故と等価とする世間のファナティックな反応は、被害者感情の暴発に思えた(そうは思わない人が多いようだが、血液中アルコール濃度が0でない限りは運転に支障をきたすという発想は非科学的。運転に支障をきたすなら、前日の睡眠時間や体温なども道交法で規定するべき)。

さらに”被害感情のみ”で犯罪が構成されることなった「ハラスメント・いじめ」はどうだろう。
被害の度合い=罪の重さという基準なら、故意か過失かという加害者側の事情も無意味となる。
1人で3人を死に追いやった福岡の交通事故は、3人で1人を殺した名古屋の事件より、被告1人の罪の重さは9倍となりうる。

裁判員は、被害者側ではなく、被害者と加害者に等距離の位置にたつべき第三者として、有罪か否かだけでなく、量刑判断までしなくてはならない。
これって難しいよな。