博客 金烏工房

中国史に関する書籍・映画・テレビ番組の感想などをつれづれに語るブログです。

『遣唐使』

2007年12月06日 | 日本史書籍
東野治之『遣唐使』(岩波新書、2007年11月)

先月から今月にかけて遣唐使など日本古代の海外交流に関する本を続けざまに読んでいます。まずはその第1弾ですが、遣唐使に関する今までのイメージを覆すような面白い指摘が多い本なので、以下に話題別に内容をまとめてみます。

1.「阿毎多利思比孤」について

『隋書』倭国伝には倭王の姓と字を「阿毎」(アメ)、「多利思比孤」(タリシヒコ=タラシヒコ?)とするが、遣隋使の小野妹子の祖先名「天帯彦国押人命」(アメタラシヒコクニオシヒトノミコト)と混同したものではないか。

……これは辻善之助という人の説だということですが、今まで「阿毎多利思比孤」を倭王の称号とする説しか見たことがなかったので、メモ。

2.遣唐使の「廃止」をめぐって

一般に894年に菅原道真の建議により遣唐使が廃止されたとされるているが、これは誤解。遣唐使は当初十数年間隔で派遣されていたが、遭難による犠牲者の増加、使節派遣による多大な経済的負担、唐王朝の衰退、新羅商人・唐商人などによる私貿易の活発化などの理由により遣唐使の意義が薄れると次第に派遣の間隔が空くようになり、894年当時も最後に派遣された838年の承和の遣唐使から既に半世紀以上が経過しており、遣唐使は自然消滅に近い状態にあった。

当時派遣が検討されたのは日本側からの働きかけによるものではなく、温州刺史の朱褒が使節派遣を日本に要請してきたからという消極的な理由によるものであり、唐国内で使節の安全が保証されないことなどを理由にその時の派遣が「停止」された。以後、遣唐使派遣が検討されることはなく、なしくずし的に「廃止」されたような状態となったというのが真相。

よく言われるような、藤原氏が菅原道真を遣唐使の使節に任命して体よく道真を追放・亡き者にしようとしたので、菅原道真が自分の身を守るために遣唐使の廃止を建議したという説は憶説にすぎない。また、遣唐使の「廃止」と国風文化の発達は関係がない。むしろ国風化の動きは早くから興っていた。

遣唐使の停止以後も民間ルートによる貿易は活発に行われたので、従来言われていたように日本が以後、鎖国状態に陥ったわけではないが、かと言って近年日本史の学者が声高に主張しているように以後の時代の日本が海外に積極的に開かれていたわけでもなく、海外との接触を過大に評価できないのも事実。中国との正式な国交が断たれたというのは意外に影響が大きかったのではないか。

……このあたりが個人的に最も読み応えのあった部分ですね。894年の遣唐使の停止は菅原道真らが意外に国外の状況をつかんでいたことによってなされたものであるようです。また、近年主張されつつある「開かれていた日本」論に異を唱えているのもある意味衝撃的でした。

3.遣唐使と貴族

奈良時代の頃に唐に留学することは、中小氏族の子弟にとって一気に出世を果たす手段であった。その代表格が無位から最終的に右大臣にまで成り上がった吉備真備である。最近中国で墓誌が発見された井真成も生きて日本に帰国できていれば相当の出世をしていたかもしれない。

また藤原氏は海外との交流に積極的で、進取の気風が一族の勢力拡大の基盤だったのではないか。藤原鎌足の長男の定恵は僧侶として唐に留学し、帰国途上で惜しくも殺害されてしまったが、彼の摂取した知識の一部が鎌足や弟の不比等らに継承された可能性がある。

……井真成については墓誌の解釈など、結構紙幅が割かれています。定恵について詳しく言及していたのはなかなか興味深いところ。その他、著名な人物では粟田真人や鑑真について言及しています。

4.日本にもたらされた漢籍

日本はよく言われるようにシルクロードの終着点ではない。終着点はあくまでも長安・洛陽である。むしろ中国から日本への交易品としては漢籍や仏典が大きな意味を持っており、日中間の交易路については王勇氏の主張する通り「ブックロード」と呼ぶのがふさわしい。しかし漢籍の中でも道教の経典については意図的に受容されなかった。

5.遣唐使船

遣唐使船は従来考えられていたのよりも高度な技術により建造されていたことが明らかになってきた。遭難が多かったのは朝貢・朝賀使節としての外交的な制約により、航海に適切な出発・帰国時期を選べなかったため。
コメント (7)
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