「構造改革なき成長戦略」

2013-10-28 03:28:37 | インポート


        「構造改革なき成長戦略」


 どうも、小説の方が現実に拘泥し過ぎた余り、それは原発問題に

拘った(アンガ―ジュマン)からですが、ただ、少なくとも日本で暮

らす者にとって切実な原発問題を取り上げずに如何なる理想を語っ

ても虚しいだけだと思ったからですが、ところが、あまりにも話し

が現実的すぎてフィクションに戻れなくなってしまいました。例え

ば、その美しさから誰からも愛されたダイアナ妃が、実は幼少の

頃の生い立ちが原因で人格障害だったという事実を暴露してして

しまえば、もう彼女への幻想は語れなくなってしまう。つまり、ノン

フィクションの世界にフィクションを持ち込むことは許されないとす

れば、フィクションの世界で今まさに起こっている社会問題を取り

上げてしまうと再びフィクションに戻れなくなってしまった。まあ、そ

んなジレンマを感じた次第ですが、また章を変えて虚構の話を綴る

心算で居ます。今さらながら小説(フィクション)は現実との距離感を

保たなければならないと改めて感じました。とは言っても、現実を無

視して夢物語に終わっては詮ないので「邯鄲の枕」は借りずにアナザ

ーワールドを綴ります。暗黒の世界に閉じ込められた私にとってこの

創作こそが今のところ天上の一穴から差し込む一条の光明なのです

から。

 さて、話しはガラッと変りますが、たまたま目にしたロイターの

ニュースに我が意を得たりと思わせる記事がありました。以下はそ

の記事です。

[東京 23日 ロイター] - 富士通総研の早川英男エグゼクティ

ブ・フェロー(元日銀理事)は23日の記者向け勉強会で、成長戦

略が後退しつつある中で、アベノミクスは「3本の矢」から財政拡

張を金融緩和が支える構図に変化しているとの認識を示した。

そうした中で、日銀が国債買い入れなど追加緩和を実施すれば、マ

ネタイゼーション懸念が高まるリスクがあると警告した。

 早川氏は政府の成長戦略について、従来の内閣と比べて「異次元

なものはない」とし、今臨時国会における「岩盤規制」の打破は見

送られるとの見通しを示した。一方、来年4月の消費増税による景

気への悪影響を軽減するため、政府が5兆円規模の経済対策を打ち

出したことで、「第3の矢(成長戦略)がどんどんしぼみ、第2の

矢(財政政策)が膨らんでいる」と指摘。アベノミクスの「3本の

矢」は「財政拡張を金融緩和(第1の矢)が支え、構造改革をスル

ーするものへと変質しつつあるのではないか」と語った。

 こうした中で、日銀が掲げる2%の物価安定目標の実現が困難と

なり、さらなる国債の大規模購入など追加緩和に踏み切れば、「マ

ネタイゼーション懸念を高めるリスクがある」とし、足元で落ち着

いている市場が再び混乱する可能性もあると警告。政府に対し、岩

盤規制の打破とともに、異次元緩和の前提ともなる財政の持続可能

性の確保に注力するよう求めた。

 デフレ脱却に向けた今後の注目点として、来年のベースアップ(

ベア)を中心とした賃金動向をあげた。来年4月に消費税率が現行

の5%から8%に引き上げられるが、賃金の上昇が限定的にとどま

れば、実質所得はマイナスになると指摘。そのような状況では「さ

らなる物価の上昇を国民は絶対に望まない」とし、2%を目指して

物価を押し上げていく日銀の政策自体に異論が出る可能性があると

の認識を示した。

 ただ、日銀は2年で2%の目標実現を明確に約束しており、そう

した局面では「日銀のコミュニケーションは難しいものになる」と

指摘。半年後の日銀は「相当に複雑な連立方程式に直面せざるを得

ない」と語った。(伊藤純夫)

     *      *      *

 「岩盤規制の打破」とは構造改革のことだと思うが、アベノミク

スの成否を決する「第三の矢」は「財政拡張を金融緩和(第1の

矢)が支え、構造改革をスルーするものへと変質しつつあるので

はないか」と、既得権に手を付けられなかったこれまでの政策と

変り映えのしないものに終わるのではないかと危ぶんでいる。

それどころか、これまでに放たれた「第一、第二の矢」が落下し

てきて我々を苦しめるかもしれない。もとより、白川日銀は何より

もその反動を懼れていた。ところで、構造改革はそれぞれの意

識改革からしか生まれないとすれば、たぶん危機に直面しない

と意識改革は生まれないだろう。つまり、経済危機による意識変

革が構造改革を生む。だとすれば、この国の経済構造が競争力

を失っているとすれば、「半年後の日銀は『相当に複雑な連立方

程式に直面せざるを得ない』状況に追い込まれ、遂には経済危

機が避けられなくなるのではないだろうか。敢て言えば、私は構

造改革を促す経済危機を待ち望んでいる。


                                  (おわり)

 *「邯鄲の枕」・・・《盧生(ろせい)という青年が、邯鄲で道士呂翁
            から枕を借りて眠ったところ、富貴を極めた五
            十余年を送る夢を見たが、目覚めてみると、
            炊きかけの黄粱(=大粟)もまだ炊き上がって
            いないわずかな時間であったという「枕中記」
            の故事から》人生の栄枯盛衰のはかないこと
            のたとえ。一炊(いっすい)の夢。盧生の夢。邯
            鄲の夢。「大辞泉」より



 「ラジオ体操と共同幻想」

2013-10-24 04:38:25 | 「ラジオ体操と共同幻想」

          

            「ラジオ体操と共同幻想」


 たとえば、マスゲームはその是非は別にして、少なくともみんな

が動作を揃えなければならない理由がある。将軍様であれ観客であ

れそのシンクロナイズされた動きを見せるためだ。また、スポーツ

ゲームを応援するサポーターが声を合わせたりチームカラーの服に

これ見よがしに袖を通すのも、私はまったく馬鹿げたことだと思う

が、と言うのも、たとえば不運にも広島カープの応援席に紛れ込ん

だりでもすれば、もはやそのゲームを楽しむことよりもメガホーン

を打ち鳴らして一球一打に立ったり座ったりする大勢のファンに邪

魔されて落ち着いてゲームを観ることなどまず出来ない。かつてはサ

ッカーにしろ野球にしろ、審判の依怙贔屓はあったとしてもホーム

だとかアウェイだとかの差はさほど気にならなかった。つまり、サ

ポーターは音無しく固唾を飲んで好きなチームを応援したものだっ

た。サポーターの応援が試合を左右するなどということはなかった。

ところが、イギリスの抑圧された労働者階級のフーリガンと呼ばれ

るサポーターが世界のスタジアムを一変させた。もはや彼らは試合

の展開だとかすばらしいプレーなど見ようとしていない。彼らはた

だ勝ことしか望んでいない。「戦争は勝たねばならない」ように試

合もまた勝たねばならない。ゲームに負けることは戦争に負けるこ

となのだ。そして、プレーヤーまでもがその風潮に煽られて「応援

よろしくお願いします」などと言って観客に媚びる。私は何故かあ

のプロスポーツ選手らしからぬショー人根性が嫌いだ。自らの実

力で栄光を手にしたスポーツ選手たちはあまりファンに媚びない

で欲しい。

 かつて、阪神タイガースが「攻めダルマ」吉田監督の下で日本シ

リーズを制して日本一に輝いた時に、知り合いのトラキチの男は最

後には仕事を棄て家族を捨ててまでして応援に熱狂する姿に唖然

とした。そして、いまやそのサポーターたちの熱狂はグローバリズム

の下で、安倍晋三応援団長に率いられたオールジャパンをサポート

するために対立国との不毛な貶し合いに我を忘れて興奮する。つま

り、彼らは、もちろん相手国のサポーターもそうだが、我を忘れて熱

狂させてくれるものなら、阪神タイガースでもナショナリズムでも何だ

っていいのだ。

                                   (つづく)


「ラジオ体操と共同幻想」②

2013-10-24 04:37:43 | 「ラジオ体操と共同幻想」
   

      「ラジオ体操と共同幻想」②


 話しは逸れてしまいましたが、ラジオ体操に話を戻すしますと、

これまで述べたようにマスゲームにしろスポーツゲームの応援にし

ろ、動作を揃えたり声を合わしたりすることの一応の理由はありま

す。ところが、それではラジオ体操はいったい何のためにみんな一

緒に揃ってやらなければならないのだろうか?私は何もラジオ体操

そのものを否定してるのではありません。もちろん、曲に合わせて

体操するわけですから同じ動きになるのは当然の成り行きですが、

自分の健康づくりのために行うのであれば、何もわざわざ集ってや

らなくても、それぞれが自分の家でラジオを聴きながら勝手にやれ

ばいいではないか。ただ、大勢の人が一か所に集い揃って個人的な

体操を行う理由がわからないと言ってるのです。よしや、体操する

ことよりもみんな集まって一緒に行うことの方に意味があるならば、

つまり、集まらなくてもできるのに集まってするのは、社会的連帯

を求める人間の動物的本能によるものであるなら、その集りには人

間社会の原点のようなものがあるのではないか。人々は様々な共通

の目的の下に集ります。信仰を共にする者たちの集りから政治的心

情を同じくする者たちの集り、果てにはその目的が霧散してしまっ

て集まることが目的になった集りまで数限りなくあることでしょう。

それを、私のようにいちいち追究してみても詮ないことだと言われ

ればそれまでですが、要するに参加しなければ済む話で、ただ、そ

れら様々な集りは、実は、集って共感を確かめ合うことの方がその

目的なんかよりも優先するのではないか。例えば、自分の家でひと

りでラジオ体操をしていると、多分つまらなくなって投げ出してし

まう。それは何もラジオ体操だけではなく、広島カープが好きだか

らと言ってひとりテレビの前で歓声を上げても人との繋がりは生ま

れない。そうだ、繋がりだ!われわれが集まるのは人との繋がりを

を求めているからだ。人と繋がっていないと本能的に不安になり、

本来のラジオ体操をするという目的を「手段にして」、人との繋が

りを求めているのだ。つまり、本能的な不安を解消するために、み

んなで一緒にラジオ体操をするだとか、広島カープを応援するだと

かの目的は手段に転換され、集まることこそが目的になる。ところ

が、間もなく曲が流れ誰もが一斉に「腕を前から上にあげて大きく

背伸びの運動」を始め出すとそれぞれは体操の世界に入っていく。

みんなが集まっているにもかかわらず、ひとりでも出来る体操が始

まる。しかし、体操はすでに目的ではないのだ。会場には喪失した

目的が虚しく宙に浮く。それは、電車の中で見知らぬ乗客たちが醸

す無関心ともちがう。乗客たちにとって電車に乗ることは目的では

ないので移動手段にいちいち関心など払ってられない。ところが、

ラジオ体操に集まる人々は周りの動きに無関心では居られない。

しかし、みんなが揃って体操をするのは、将軍様に見てもらうため

でもバッターボックスに入る梵選手の応援のためでもなく自分自身

のためである。体操に集中すればするほど集団で行うことの虚しさ

を感じる。個人が求めることとそれを受け止められない集団の感受

的な喪失感が漂う。その喪失感とは、今のわが国が置かれている

状況「テーマを失った社会」そのものではないだろうか。

                                  (つづく)




 

「ラジオ体操と共同幻想」③

2013-10-24 04:36:56 | 「ラジオ体操と共同幻想」


      「ラジオ体操と共同幻想」③


 ラジオ体操や広島カープの応援は嫌になればやめることもできる

が、この国に生まれた国民は国家という船が突然急旋回して先祖返

りし始めたとしても、船を下りるわけにはいかない。思想とは洗脳

によってもたらされる、とすれば、私は「国体とは天皇である」と

言うフェティシストのロマンティズムよりも、だってオレたちアリンコ

じゃないんだから、「自由と民主主義」に洗脳されることを望む。

対立する国民意識の希薄な中韓に「習って」今さら重ねて愛国心を

洗脳するというのは馬鹿げてる。それなら、人種や国籍による差別

やいじめをなくす人道教育を進める方がグローバル社会に相応しい。

そもそも、愛とは感情であって理性がいくら強いても芽生えるとは

限らないし、転ずれば憎悪を生む。アンシャン・レジュームに縋る

人々は原理主義へ回帰すれば「やまとごころ」が甦るとでも思って

いるのだろうか。いっそ将軍様に習って鎖国でもするなら話は別だ

が、もはや戻るべき「陸地」はどこにもないのだ!


                                  (つづく)


「ラジオ体操と共同幻想」④

2013-10-24 04:36:18 | 「ラジオ体操と共同幻想」



       「ラジオ体操と共同幻想」④


 近代文明の頂上(サミット)に登りつめた経済先進国は、更に成長

することが出来ずに「経済成長の終わり」を迎えている。実は、頂

上とは行き止まりあって、サミットとはリミットのことでそれより

上はない。植物で言うなら、花を咲かした草木は種を残して潔く枯

れる、次世代のために。ところが、われわれの果てしない欲望は更

なる上を目指そうとそこに留まろうとする。例えば、富士山の登頂

を目指す人は頂上を制すれば自ずから次の目的は明白である、つま

り無事に下山しなければならない。ところが、われわれの社会がテ

ーマ(目的)を見出せないのは頂上に佇んで更にありもしない上を目

指そうとしているからではないか。少子化や年金問題が深刻な事態

になることはすでにバブル崩壊後には分っていた。本来ならば、安定

成長を促すための構造改革が求められた。ところが、それらの問題

を更なる経済成長によって克服しようとした。成長幻想を追い求めて

空手形が乱発された。アベノミクスがやろうとしていることはこれまで

の蹉跌を繰り返しているだけではないか。

 何もかも失った焼け野原から急成長して経済大国まで成り上った

国民にとって、かつてのカラーテレビや自動車やクーラーなどの新

製品は身を削ってでも手に入れたい画期的なものだった。ところが、

今のわれわれは、たぶん、そんなモノを持たない途上国の人々より

も、そんなモノがなくたって構わないと思っている。ま、あるに越

したことはないがそんなモノが自分の人生の幸福を満たしてくれる

とはもはや思っていない。新しいテレビがどれほどきれいに映ろう

とも、自動車の燃費がさらに良くなっても、そして多機能化はただ

消費者を迷わすだけで、マニア以外の人々にとってはすでに大きな

関心ではなくかつてのような消費意欲を刺激しない。成熟した消費

者の関心は表象的なモノ社会のその深部へ向けられ、すでに世界

経済はゼロサム社会を迎えて、これまでの価値観が見直され自分

にとって本当に意味のあるモノ以外に惑わされたりはしない。偉そ

うなことを言えば、イノベーションを迫られる産業界は、ひたすら目

先の便利を追求するが、たぶん消費者はたとえ不便であっても新

しい価値を認めれば買い求めるだろう。産業人は消費者の深部に

訴える新しい価値の創造を忘れている。

                                   (つづく)