仮題「心なき身にもあわれは知られけり」
(2)のつづきの続き
さて、それではその「卑弥呼」が君臨する「邪馬台国」は日本の
どこに在ったのか、つまり大和説と九州説とに分かれる所謂「邪馬
台国論争」ですが、それは「魏志倭人伝」にその行程が極めて詳細
に記述されていることから何の問題もなく特定されると思いきや、
どうもそうではないらしい。その「魏志倭人伝」が伝える「卑弥呼
」の居る「邪馬台国」への行程は、まず朝鮮半島の中西部にあった
帯方郡より「海岸に従って水行し」、そして対馬、壱岐を経て九州
の「末盧(まつろ)国」に上陸する。「末盧国」とは佐賀県唐津市北部
の東松浦半島付近で、さらに「東南に陸行五百里で伊都(いと)国に着
く」とあり、それは糸島半島辺りで、そして「東南の奴(な)国まで百
里」、「奴国」とは博多付近で、それは江戸時代に近くの志賀島から
金印「漢委奴國王」の印が発見されたことからまちがいない。ただ、
それら「東」へと連なる土地の方角が「東南」と記載されていて些か
怪しいが、それは現代のように正しい方角を知ることができなかった
時代のことなので柔軟に受け止めるしかない。次に「東行して不弥(
ふみ)国に到るまで百里」とあるが、ここで「奴国から東行百里」の
「不弥国」とは何処であるかが特定できない。それは九州の中の何処
かに違わないが、方角の不正確さもあって奴国(博多) から「東行百里
」の地は諸説ある。ただ、次にある「南の投馬(つま)国に行くには水
行二十日」とあり、ここで突如として里程による表示が日数に変わる
が、水行、つまり船に乗って向かうにはどうしても海に面した場所で
なければならない。もちろん、内陸の河川を遡上することも考えられ
ないわけではないが、そもそも「邪馬台国」が九州にあるとすれば上
陸した後に再び「二十日」もかけて「水行」したりするだろうか?だ
とすれば、「水行二十日」は九州から離れて海上を「水行」する以外
に考えられないのではないだろうか。つまり、それは「九州説」の破
たんにほかならない。
(つづく)