「あほリズム」(359)

2017-09-20 05:41:47 | アフォリズム(箴言)ではありません

              「あほリズム」

          (359)

 最近の右翼の人々が唱える自国防衛論は、

もちろんイデオロギーは異なるが、かつて安保闘争

で左翼の学生たちが訴えたこととそんなに違わないの

じゃないかな。曰く、

「自分たちの国は自分たちで守る、米軍は出て行け!」

果たして、今の右翼の人たちは同じことを言えるのだろうか?

ただ、それさえもアメリカの意向だとすれば言葉もないが。


「アース・オーバーシュート・デー」改稿

2017-09-07 06:18:04 | 「パラダイムシフト」

        「アース・オーバーシュート・デー」改稿


 国際シンクタンク「グローバル・フットプリント・ネットワーク

(GFN)」は、2017年8月2日が、2017年の「アース・

オーバーシュート・デー」であると発表しました。これは、人類に

よる自然資源の消費が、地球が持つ一年分の資源の再生産量とCO2

吸収量を超えた日を意味します。つまり、この日以降の2017年の

残された日々を、人類は地球の生態系サービスの「原資」に手を付け

ながら、「赤字状態」で生活していくことになります。

[https://www.wwf.or.jp/activities/2017/08/1378201.html]

 


 われわれが追い求める幸福な暮らしは地球環境を貧しくして成り立

っています。そして、われわれが消費したり排出したりして失わせた

地球の再生能力はそのまま未来の地球環境の貧しさになります。すで

に地球環境は再生可能な自然循環システムが賄い切れないほどの自然

破壊や温室効果ガスの排出によってその裂け目は年々大きくなってい

ます。年単位で見ると8月2日以降の地球環境の再生能力は未来の地

球環境を取り崩して使っているのです。つまり、こんな生活がいつま

でも続くはずはありません。すでに地球温暖化がもたらす気候変動に

よって異常気象などの様々な弊害がニュースによって伝えられその限

界を教えてくれています。近代文明が永続性のない繁栄であるとする

ならそれは人類進化の傍流に過ぎません。今の日本の暮らしを世界中

の国が望めば地球がもう一つあっても賄いきれません。やがてその傍

流は行き止まりゲームオーバーを迎えるに違いない。すでに新興国だ

けでなく途上国でさえも全速で近代化を進めているからです。つまり

、一つしかない地球の上でわれわれの欲望はもっと多くの地球を求め

ているのです。フランスの思想家サルトルはかつてこう言いました

「我々はつねに自分自身に問わなければならない。もしみんながそう

したら、どんなことになるだろうと。」

 近代科学文明はその局面に於いては自然を支配することができまし

たが、しかし永続的な持続性はありません。自然循環は回帰と生成に

よって再生されてその循環は謂わば永久運動ですが、科学技術の生ん

だ動力エンジンが排出するガスが再びオイルに再生されることはあり

ません。循環性を持たない科学技術が自然循環に繋がって、閉じてい

た系が寸断され循環が崩れようとしています。しかし、われわれは自

然環境が破壊されればまず生存そのものが危ぶまれる自然内存在であ

るということを改めて認識しなければなりません。そして、どうして

も近視的にならざるを得ない科学技術を、もう一度グローバルな視点

から見直さなければならい。 

                          (おわり)


「みたび『愛と死を見つめて』を見つめて」

2017-09-05 08:18:38 | 「愛と死をみつめて」を見つめて

 


      「みたび『愛と死を見つめて』を見つめて」


 「愛と死を見つめて」の記事を載せながら、実は本も映画も観たこと

がなかったのですが、映画だけはYouTubeで観れたけれど、このたび

ネットで古本を取り寄せて読みました。大島みち子さんと河野実さんの

文通を纏めた「愛と死を見つめて」と彼女が書き遺した「若き命の日記

」です。と言うのも、前にも書きましたが、どうしても大島みち子さん

のことが頭から離れないのでもっと知りたいと思ったからです。軟骨肉

腫という難病に冒されて、進行を止めなければもう助からないと知りな

がら、再発を防ぐために顔の半分を切除したにもかかわらず、若い命に

巣くった病魔の進行をくい止めることができずにやがて再発する。彼氏

である河野実さんの強い考えから嘘や隠し事はやめようと決めて、死を

覚悟したふたりの手紙は揺れ動く感情が赤裸々に綴られている。われわ

れは日常生活の中で他愛のない話をしていても、相手の人が余命幾ばく

もないことを知りながら日常の会話を交わすことはまずない。そもそも

そんな非日常的な事実を知れば日常の会話は成り立たない。日常生活は

誰もが「いつまでも生きている」という前提の上で成り立つ。確か彼女

も本のどこかで、主治医から両親だったかと一緒に今後の治療方針を聴

く場面で、誰もが治る見込みのないことを知りながら、それには一切触

れずに話を聴いていることの不思議を記していた。彼女の死が避けられ

ないと判った後のふたりの手紙は、残された時間の中で残酷な現実に向

き合いながら、日常を取り戻そうとする思いと、非日常をどう受け止め

ればいいのかの間で交錯する。ふたりは愛で繋がっていても死の影は彼

女にだけ忍び寄る。死を悟った彼女には愛しか残されていない。そして

彼女の死はやがてふたりの愛を引き裂く。彼女は命とともに愛も失う。

いっぽう彼の方は愛を失っても命は残る。やがて彼女の死によって愛を

繋ぐことは出来なくなる。限られた愛の行方の選択を委ねられたのは彼

の方だ。彼女は何度も自分のことを忘れて新しい人生を手にして欲しい

と願う。が、彼は生きることを諦めないで欲しいと訴える。生きている

限り愛は続くからだ。しかし、彼女の余命は尽きて彼の愛に見守られな

がら息を引き取る。それは「愛は死を乗り越えられるか」それとも「死

は愛を引き裂くか」の瀬戸際のやり取りだった。もしも「命は愛に先行

する」とすれば、彼女の死によって二人の愛は終わったことになるが、

しかし「愛は死に先行する」とすれば、たぶん二人の愛は永遠に終わる

ことはないだろう。

                           (おわり)


「同じものの永遠なる回帰の思想」②

2017-09-02 10:25:00 | 従って、本来の「ブログ」

 

         「同じものの永遠なる回帰の思想」②

 

 父が宗教家であったニーチェにとって「神は死んだ」と宣言すること

は、自らの生い立ちを否定し拠って立つべき大地を失うことに等しかっ

た。神の死はキリスト教世界観の否定であり、心の拠り所を失った者は

ペシミズムに陥らざるを得ない。ニーチェ晩年の超人思想はそのペシミ

ズムから脱け出すために考え出された思想である。永劫回帰説とは「神

の世界」の消滅によってもたらされた世界観で、世界とは永遠に回帰を

繰り返すだけの無意味な円環にすぎない。当然、救いのない世界はペシ

ミズムを生む。しかし、その世界観を「諾」と受け容れて生きる者こそ

超人である。だとすれば、無神論者を自認し生涯マネーゲームに明け暮

れて一生を終えるほとんどの現代人はニーチェからすればおそらく超人

に見えるに違いない。その生い立ちから深くキリスト教文化に感化され

、その呪縛から自力で脱け出したニーチェにとってペシミズムを克服す

る超人像を描くまでには時間が残されていなかった。それでは、彼はい

ったい如何なる世界を思い描いていたのだろうか?彼はバーゼル大学で

古典文献学の教授だったこともあって、古代ギリシャ世界に精通してい

た。そこでキリスト以前の世界、とりわけプラトン、アリストテレス以

前の世界に憧れていた。つまり形而上学が生まれる以前の世界、存在の

あるがままを受け容れて、ありもしない本質によって世界が歪められて

いない時代こそ、もしかしたら超人たちの世界だったのかもしれない。 

 幼な子は無垢である。忘却である。そしてひとつの新しいはじまりで

ある。ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。ひとつの第

一運動である。ひとつの聖なる肯定である。そうだ、創造の遊戯のため

には、わが兄弟たちよ、聖なる肯定が必要なのだ。創造の遊びには聖な

る肯定を必要とする。ここに精神は自分の意志を意志する。世界を失っ

ていた者は自分の世界を獲得する。

「ツァラトゥストラはこう言った-上-」氷上英廣訳(岩波文庫33-

639-2)『ツァラトゥストラの教説』 「三段の変化」より、

 

                          (おわり)