「目覚めた獅子 中国」(6)

2019-12-11 11:19:42 | 「目覚めた獅子 中国」

       「目覚めた獅子 中国」

 

            (6)


 これまで見てきたように、中国は未だ封建主義政治を続けていて

、そしてそれを精神面で支えているのは厳格な身分道徳を説く儒教

思想である。儒教は国民が身分を弁えずに政治に関わることを厳に

戒めて、人民もまた、政治のことは政治家に任せておけばいいと、

政治に無関心であることがある種の美徳のよう思われて、おおよそ

民主主義とはかけ離れた政治意識でしかない。かつて都知事であっ

た石原慎太郎は「中国のやり方はまるで暴力団と同じだ」と言った

が、それはまったく逆で、日本の暴力団が彼の国の任侠道を真似て

いるのだ。われわれが暴力団との係わりを避けるように、彼らも政

治とは係わらないようにしている。身分の低い者に口を挟ませない

というのはまったく暴力団と同じで、政治権力者とは暴力団と同じ

なのだ。もちろん日本も厳格な儒教社会だったが、欧米列強の進出

によって存亡の危機を迎えて、「天皇」という絶対的存在が見直さ

れ、閉鎖的な封建主義社会(鎖国主義の幕藩体制)を絶対的視点から

改革することによって、曲りなりにも天皇制による絶対主義の下で

議会政治が行われた。政治学者丸山眞男氏は、民主主義政治の前段

階としてどうしても絶対主義支配が必要だ、と語っているが、不完

全であったにせよ明治政府は戦後民主主義の前段階としての役割を

果たした。ところが、宗教的(絶対的)視点を持たない儒教思想は決

して平等思想を生むことがなかった。そして平等思想が生れない社

会に民主主義が育まれることはなかった。

 ところがである、英国による植民地支配によって一国二制度が認

められ民主主義社会を築いてきた香港に対して、中国共産党は様々

な政治干渉を行ない自治権を脅かして、ついには香港市民、とりわ

け民主主義の洗脳を受けた学生たちが抗議行動を起こして民主主義

社会を死守しようとしている。かつて、中国本土では民主化を求め

て天安門事件が起こったが、政治に関わろうとしない儒魂人民の支

持を得られなかったが、ところが、香港の学生たちによる抗議行動

はこれまでの民主主義社会の下で育まれた経験からそのあるべき姿

が実感できるのでそう簡単に諦めたりはしないだろう。事実、彼ら

はバリケードを築いて立て籠もった学校の中で二十歳にも満たない

学生たちが遺書を書き残していると聴く。果たしてわが国はその紛

争をただの対岸の火事と他人事のように眺めているだけでいいのだ

ろうか?


                        (おわり)


「目覚めた獅子 中国」(5)

2019-11-27 07:59:13 | 「目覚めた獅子 中国」

           「目覚めた獅子 中国」

 

             (5)

 ニーチェを敬愛する私は、もちろん実存主義者で無神論者ですが

、ただ、「神」という絶対的な視点を借りて世界を俯瞰することは

とても意義深いことだと思います。「平等」という観念は立体的な

視点から眺めなければ認識できないからです。儒教思想は平面上の

相対的な関係においては箸の上げ下げに至るまで教義を説くが、た

だ「神」は存在しないので「理想《イデア》」については思惟する

ことがなかった。つまり、「平等」だとか「自由」だとかは「理想

」から生れるのであって、現実の社会道徳に執着する儒教道徳から

は決して生れない。そして何よりも大事なことは、キリスト教は社

会から疎外されて苦しんでいる人々に来世での神による救済を説い

て、神の世界(もう一つの世界)こそが真実の世界であると説いた。

現世で恵まれなくても、来世でその魂は永遠に祝福される。こうし

て信仰は信者たちに生き方の重大な選択を迫る。この世界か、或は

「もう一つの世界」か。この選択が信者たちの精神性を高めた。今

を耐え忍んでいつの日にかを誓うことは精神的な行為である。つま

り信仰は信者に精神をもたらした。宗教とは精神なしには一時も存

在し得ないのだ。いや、もっとはっきり言おう、

「宗教とは精神なのだ」

                          (つづく)


「目覚めた獅子 中国」(4)

2019-11-26 08:04:54 | 「目覚めた獅子 中国」

        「目覚めた獅子 中国」


            (4)


 そもそも儒教道徳は権力闘争に明け暮れる権力者が君臣関係を維

持するために庇護したことから広く支持された、謂わば上から押し

付けられた君臣道徳である。以下はまったく私の独断と偏見による

推論であるが、うろ覚えで恐縮だが、作家司馬遼太郎は自著「項羽

と劉邦」の中で、中国の庶民は昔からできるだけ政治に関わらない

ようにして生きてきた、みたいなことを書いていたが、何もそれは

中国社会だけではなく、わが国の武家支配においても同じことで、

武士は刀を帯びて身分の低い者には威圧的で、庶民はできるだけ拘

らないようにして生きていた。今の時代で言うと暴力団に対してで

きるだけ拘らないようにするようなかもしれないが、実際に封建時

代の中国では厳格な儒教道徳の下で道を外した者への懲罰として足

を切り落とすなどの「肉刑」が横行していた。つまり、暴力団が掲

げる「仁義」や「任侠」などといった名分や、或は過ちを償うため

に武士が切腹したりヤクザ者が指を切り落としたりする行為は厳格

な儒教道徳からもたらされた。政治学者の丸山真男は、自著『日本

政治思想史研究』の中で、江戸時代前期の儒学者山崎闇齋が開いた

私塾では、門弟たちはそのリゴリズム(厳格主義)による緊張から講

義を終えて門を出た後はその解放感にしばらく立ち尽くした、みた

いなことを書いていたが、つまり、儒教道徳は人々に身分を弁えさ

せるための「リゴリスティックなヒエラルキー」(丸山真男)こそが

重要であって、真理そのものは第一義ではないのだ。 

                        (つづく)


「目覚めた獅子 中国」(3)

2019-11-24 23:37:06 | 「目覚めた獅子 中国」

          「目覚めた獅子 中国」


              (3)


 それでは日本はどうかと言えば、何とわが国には「現人神」が御

座します。しかし、そもそも西欧世界で神とは全知全能で当然不老

不死で「一神だけ」ですが、ところが、わが国の神は「万世一系」

の下に世襲することによって「神の死」を凌いできました。そうで

す、わが国の現人神は死ぬのです。それは、一神教の世界からみれ

ばとても神とは呼べない存在に違いありませんが、たぶん天皇とは

神と言うよりは世襲制の身分のようなものかもしれません。世襲制

の身分とは封建社会そのものですが、数多の権力者たちは天皇の地

位を脅かすことがなかった。こうしてわが国は伝統文化の象徴たる

天皇と実権を預かる権力者の二元政治が時代に流されながら盛衰を

繰り返して近代化の夜明けを迎えることになる。さて、ここで私は

天皇論を論ずるつもりは毛頭ありませんので、言いたいことだけを

吐いて逃げ去るつもりですが、ただ、こうして日本には中国とも、

またキリスト教社会のアメリカとも違う独自の支配構造があった。

このことが同じ儒教国でありながら中国・韓国とは異なった道を

拓いた。つまり、身分社会(武家社会)という封建主義に固執する権

力者に代わるもうひとつの道(オルターナティブ)が残されていたこ

とが、天皇(神)の視点から生れる平等社会への転換(明治維新)が図

られ、もちろん紆余曲折は避けられなかったが近代化へと続く道を

拓いた。確か政治学者の丸山真男だったと思うが、民主主義が成立

する前段階として封建国家から絶対主義国家への移行が重要だと言

ったが、つまり、封建体制はどうしても相対主義から抜け出せない

からだと思うが、ところが、まさに日本には社会を3次元的視点か

ら窺う絶対者としての「天皇」が御座したのだ。

 

                       (つづく)

 


「目覚める獅子 中国」(2)

2019-11-21 13:45:52 | 「目覚めた獅子 中国」

          「目覚める獅子 中国」


             (2)


 それでは、アメリカと中国の社会の大きな違いは何かと言えば、

「自由と民主主義」と「儒教思想」の社会思想の違いである。儒教

思想とは厳格なヒエラルキー(身分制度)を重んじる差別思想であり

、そもそも人は生れ堕ちた時から身分差別が始まる。ところが、「

自由と民主主義」は、日本国憲法第14条の「すべて国民は、法の

下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により

、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」とあ

るように平等思想の上に築かれる。つまりアメリカと中国の違いと

は建前上だが平等社会と差別社会の違いである。では、同じ地上に

在りながらその思想の違いはどこから生れるのか?

 そもそもアメリカは西欧キリスト教社会からの移民たちによって

建国された。かのマルクスは「宗教とはアヘンである」と言ったが

、宗教とは生きることに迷った人々が神の存在を信じて、その教え

に従って生きることで救われる信仰で、キリストは迷える人々に神

の救いを説き人々を信仰へ導く神の子である。信仰は、信者がその

存在さえも不確かな神をひたすら信じることによって、全能の神の

御心を「忖度」して、神の立場から社会の有り方を見詰め直して、

とは言っても思惟そのものは人間の想像でしかないが、社会の有り

方を見詰め直して、利害を超えた理想的な社会を考えようとする。

「平等」とは絶対的な神の存在がなければ生れなかった観念で、

仏教は同じように「平等」を説いたが、相対的な身分道徳を説く儒

教思想は2次元的な世界に終始した。そもそも中国には仏教が伝来

して広く信仰されていたのだが、封建社会の権力者にとって身分道

徳を説く儒教の教えは封建秩序を管理するのに都合がよかったので

官学として認められたが、その反対に形而上にこだわった仏教は廃

れた。つまり、アメリカと中国における平等社会と差別社会の違い

は、人間社会を外からの神の視点から俯瞰するか、それとも内の権

力者の視点から見るかの違いである。では、その視点の違いは社会

にどんな違いを生むのだろうか?神とは絶対的な存在なのでその視

点は揺るがないが、しかし権力者は限られた存在でしかないので、

権力者が代わる度に視点が変わり社会の有り方が変わる。「神は死

なない」が、権力者はいずれ死ぬ。つまり、神の視点からの社会の

位置づけは不変だが、それはつまりは神の御心を忖度した国民の願

望にほかならないが、一方、権力者が支配する社会は権力者が代わ

る毎に社会秩序の基軸がぶれて一貫した社会理念が築けない。実際、

儒教国家である中国や韓国は政権が代わる度に前政権の功績を覆し

て、そして権力を失った前権力者は非道い扱いを受け時には罪人と

して裁かれる。

 

                          (つづく)