「同じものの永遠なる回帰の思想」⑥-4

2018-07-29 11:10:13 | 従って、本来の「ブログ」

     「同じものの永遠なる回帰の思想」⑥-4


     ハイデッガー著「ニーチェ」ⅠⅡを読んで-4


 ハイデッガーは、ニーチェが書き残した断片から彼の思想を読み

解きます。

「或るものを、持続的に存立する堅固なものという意味において存

在的なりと表象することは、一種の価値定立である。《世界》の真

なるものを、それ自体で持続的に存立している永遠不変なるものへ

持ちあげるということは、とりもなおさず、真理を必然的な生活条

件として生そのもののうちに移すということなのである。しかしな

がら、もしも世界が不断に変遷する無常なものであるとすれば、も

しも世界が過ぎ去りゆく不定なもののもっとも無常なものにこそそ

の本質をもっているのだとすれば、そのときには、持続的に存立す

る堅固なものという意味での真理は、それ自体としては生成しつつ

あるものをたんに固定化して打ち固めたものにすぎず、この固定化

は、生成するものに照らしてみると、これにそぐわないもの、これ

を歪曲するものでしかないだろう。正当なものとしての真なるもの

は、かえって生成に即応しないことになるであろう。そうなると、

真理は、不=正当性であり、誤謬であり――たとえ必然的なものか

も知れないが、やはり一種の《幻想》となるであろう。

 こうしてわれわれは、真理とはひとつの幻想であるというあの異

様な箴言がそこから告げられる方向へ、始めて眼を向けることにな

る。だがわれわれは同時に、この箴言においては真理の本質があく

まで正当性という意味で固執されているのを見る。その際、正当性

とは、存在者を、《そんざいしている》ものへの合致という意味で

表象するということを意味している。なぜなら、真理がその本質に

おいて正当性であるからこそ、真理がニーチェの解釈によれば、不

=正当性(Un-richtigkeit)であり、幻想でありうるのだからである

。真理が、持続的に存立する堅固不変なものという意味でのいわゆ

る存在者としての真なるものとして受け取られるならば、その真理

が幻想なりというのは、ほかでもなく世界が存在的なものではなく

《生成的な》世界だからである。認識は真の認識であるかぎり、或

るものを持続的に存立する堅固なものという意味での存在者として

受け取るわけであるが、その真なる認識は、存在者を《当てにして

》いながら、実は現実に的中せず、すなわち生成するものとしての

世界に的中していないのである。」

「ニーチェは真なるもの――すなわち確立され決定され堅固にされ

、この意味で存在しているもの――に対して、生成するものを対置

する。ニーチェは《存在》(Sein)に対して、それより高い価値とし

て、《生成》(Werden)を対置する。われわれはこのことから、さし

当り次の一点を看取する。すなわち真理は最高の価値ではないので

ある。」「なぜなら、それは生の生動性を、生の自己超越の意志と

生成とを否認するからである。生にその固有の生動性を承認して、

生をして生成するものたらしめ、生がたんに存在者として――堅固

に現存するものとして――固定化することのないようにすること、

それが明らかに新しい価値定立の狙いなのであって、これを基準に

すれば真理は格下げされた価値でしかありえないことになる。」

                         (つづく)


「同じものの永遠なる回帰の思想」⑥-3

2018-07-28 04:28:03 | 従って、本来の「ブログ」

      「同じものの永遠なる回帰の思想」⑥-3


       ハイデッガー著「ニーチェ」ⅠⅡを読んで-3


 真理について、「ニーチェはかく語り」ます。(赤字は本書では

すべて傍点がされている)

「〈真理〉の本質とは、〈私はしかじかのものはこうであると信じ

る〉という価値評価。この価値評価のうちには、維持成長諸条

(Erhaltungs-und Wachstums-Bedingungen)が表現されてい

る。我々のすべての認識器官と感能は、もっぱら維持と成長の諸条

件という観点から発達してきたのである。理性とそのカテゴリーへ

信頼、弁証法への信頼、要するに論理学の尊重は、経験によって

証明済みの、これらのものの生にとっての有用性を証明しているに

すぎず、それらのものの〈真理〉を証明するわけではない。幾多の

が現存する必要があること、判断を敢えてすることが許されてい

ること、すべての本質的価値に関しては疑念がないということ――

これが、すべての生物とそれの生命の前提である。すなわち、何ご

とかが真なりと見なされなければならないということが必然であっ

て――それが真であるということは必要ではない。

 〈なる世界と仮象の世界(die wahre und scheinbareWelt)〉

――この対立は、私から見れば、価値関係へ還元される。われわれ

われわれの維持条件を、存在一般の述語として投影(projiziert)し

たのである。われわれは発展するためにはわれわれの信において安

定している必要があるということ、――このことをわれわれは、〈

真の〉世界は変化生成する世界でなく、存在する世界である、とい

うふうに作りかえたわけである」。【断片五〇七番(一八八七年春

から秋にかけて成立)】

 ニーチェは新たな主著の執筆を準備をしていたが、その表題は「

新たな価値定立の原理」だったが、精神を病んでしまって遂に果た

せなかった。しかし、そのために書き残した多くのメモや断片を彼

の死後に編集され出版された。この文章はその断片の一つで、ハイ

デッガーは、この断片を「幾巻もの認識論の書物を無用にするほど

のものである」とその重要性を語る。そこで主題になっているのは

真理の本質規定である。ニーチェは真理の本質とは「価値評価」で

あると言う。「価値」という言葉はニーチェにとって本質的な言葉

である。「価値」とは「生」の条件であり、その「生」の本質を、

おのれを超え出でる昂揚(力への意志)と見なしていたニーチェは、

「ダーウィンの影響を受けた同時代の生物学や生命論のように生の

本質を、《自己保存》(《生存競争》)と見たのではなかった。」(

ハイデッガー) 生の本質が生の昂揚であるとすれば、昂揚とは「―

―或る自己超出(ein Über-sich-hinaus)である。ということは、生

は昂揚においておのれ自身のより高い可能性を自分の前方に投企し

て自分自身を前進させ、まだ達成されていないもの、これから達成

されるべきものへ自分自身を志向させる、ということである」そし

て「昂揚の中には、より高いものの圏内へ行き向かう見通しのよう

なもの、一種の《遠近法的展開》(Perspektive)が含まれている。」

生が生の昂揚であるかぎり「生はもともと《遠近法的性格》をそな

えている。これに応じて、生の条件たる《価値》にも、この遠近的

性格がそなわっている。」「《生》、《生の条件》、《価値》――

これらはニーチェの基本用語であって、それなりの独特の規定性を

帯びており、しかもこの思索の根本思想によって規定されているの

である。」(ハイデッガー)

                        (つづく)


「あほリズム」 (431)

2018-07-26 01:34:53 | アフォリズム(箴言)ではありません

          「あほリズム」 

 

           (431)

 

       「地球温暖化スパイラル」 

 「こんなに熱いとクーラーがないとやってられないよな」

 こうしてマンションのそれぞれの部屋の室外機から吐き出された

 熱は大気中の温度を更に高めた。

  「何か全然効いてないんだけど、もっと強くしてくれる?」

 しかし自然と文明のこの「いたちごっこ」の結果は明白だった。

 つまり、文明(人間) は自然に依存しなければ存在できないが、

 自然は自然のままで存在できる。

 「だめだ、ちっとも涼しくならないや。もっと大きなクーラー

 に買い替えるか」

 

            (432)

 

 人生が一度きりで、生命が宿る希有の惑星に生を得たなら、

 なにも 檻(社会) の中に身を置いて無難に一生を存えるよりも、

 よしんば短命であったとしても、

 生命が萌え出でた自然の摂理の下でその命を全うしたい。

 

            (433)

 

 人生が一度きりであるなら、誰もが初めて生きることに命の

 歓びを感じ、よしんば不運に見舞われたとしても、生きてい

 ることの歓びは失せることはない。

 不幸は、他人への蔑みと妬みから始まるのだ。

 「さあ、もう一度、一度きりの自分に帰ろう!」


「同じものの永遠なる回帰の思想」⑥-2

2018-07-24 04:22:26 | 従って、本来の「ブログ」

     「同じものの永遠なる回帰の思想」⑥-2


      ハイデッガー著「ニーチェ」ⅠⅡを読んで-2

 

「力への意志」が本質存在だとすれば、「同じものの永遠なる回帰

の思想」は事実存在ということになります。たとえば、私という存

在は事実存在ですが、やがて死んでしまえば私を形成する分子は私

から離れてバラバラになり、私という生命体は存在しなくなります

。本質存在とは永遠不変のものであるとすれば、生命体としていず

れ消滅する私は本質存在ではありません。しかし、そもそも「存在

とは何であるか?」と問うこと自体が存在の本質を問うことに他あ

りません。形而上学(Metaphysik)の《-physik》とはギリシャ語の

《存在者として自ずから存立し臨在している存在者》という意味の

《自然的なるもの》で《Meta-》はそれを超え出るという意味で、

では《存在者を超え出て》何処へ出て行くのかといえば、本質存在

へということになります。本質存在とは分り易く言えば「神の存在

」を思い浮かべばいいかと思います。こうして形而上学はプラトン

のイデア、中世ではキリスト教の神、近代では理性、おそらく近未

来にはAI(人工知能)が担うことになるでしょう。しかしニーチェ

はプラトン・アリストテレス以来の形而上学を逆転させました。そ

れまで本質存在が優位であった形而上学を否定して、「神は死んだ」

、事実存在である生成としての存在者のための哲学を思惟しました。

つまりニーチェが最後の西欧形而学者と言われる所以です。

 有史以来、われわれが哲学的思惟に耽るのは、いずれ死んでしま

うからに他なりません。死によってすべて失われてしまうのであれ

ば辛い思いをして生きることはまったく報われないことではないか

。ロマンロランはジャン・クリストフにこう言わせました。「わた

くしがなにをし、どこへ行こうとも、終わりはつねに同じではない

でしょうか、最後はどうしたってあそこにあるのではないでしょう

か?」(ロマン・ロラン著「ジャンクリストフ」) 有限の生とは処

刑の日を待つ死刑囚のようなものではないか。そして超感性界を喪

失した世界、つまり神の救いを失った世界はたちまちニヒリズムに

陥る。理性によって世界を見直して見ればこれまでの《最高の諸価

値の無価値化》は生きる目標が崩壊した世界でしかない。しかし、

ニーチェは《最高の価値の転換》が起こるのであればニヒリズムへ

の回帰は避けられない言う。それどころか、「私が物語るのは、今

後二世紀の歴史である」と記している。ニーチェが死んだのは19

00年だから、単純に計算して2100年あたりまではニヒリズム

は時代の底流として流れ続けることになる。ハイデッガーは「形而

上学の終末は、決して歴史の終熄を意味するものではない。それは

、《神は死せり》というあの《出来事》との深刻な取り組みの『開

始』である。ニーチェ自身も、自分の哲学を或る新しい時代の開始

の序奏と解している。来るべき世紀、すなわち現在の二十世紀を、

ニーチェは、従来知られているいかなる変革とも比較しえないよう

な変革の続発する時代の開始として予見している。」と記している

。ニーチェの死後、二度の世界大戦があり、そして現在はと言えば

、とても穏やかな時代だとは思えないし、いまも神の名の下に凄惨

な事件が頻発してる。しかも2100年まではまだ百年足らず残っ

ているのだ。そして、理性による存在者の真理の追究は我々を決し

てニヒリズムから救ってはくれないと言う。ニーチェは「真理の畏

敬は、すでにひとつの『幻想』の帰結であるということ」、つまり

「真理とは幻想なり」と言うのだ。

                         (つづく)