(三十六)

2012-07-11 17:09:20 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(三十六
                   (三十六)



路上で稼ぐ仕事は休みを決められない。雨が降れば金が無くて

も何日も休みが続くからだ。近頃は雲の無いカンカン照りの空模

様でも油断をしていると、一気に降り始めて、慌てて片付け終わ

る頃には全身がずぶ濡れになるほど激しい。天気予報を見ても「

一部で大雨」を後で「此処かいっ!」と知るくらいで当てになら

ない。しかし、今日は朝から雨だった。午後になってバロックか

らメールがきた。

「ヒマ?」「ノム?」

久しぶりにバロックと酒を交わすことになった。例の居酒屋だっ

た。ガラガラの店内を抜けて何時もの席へ着いた。

「サッチャンはどうしてるの?」

オーダーを済まして、私から聞いた。

「学校に居るらしいよ。」

「えっ!復学できたの?」

「うん、どうも事務所が学校と繋がりが有ったみたい。」

「じゃ、デビューはしないの?」

「いや、近々らしいけどね。」

「ははぁーん、学校が咬んでいるのか。」

「そう。」

我々は出てきたジョッキを少し持ち上げて目を合わせてから、一

気に喉に流し込んだ。

 私は普段は飲まない、それはホームレスの時の我慢が身に着い

たものだ。欲望を押さえ込むには意志の力だけではどうにもなら

ない。悪習を断つには命に関わらない限り、手に入らなくするし

かない。そうすると今度は、「無いこと」に慣れてくる。この「

無いこと」に馴れるのが苦しい。私は夕暮れの街角を空腹を抱え

て彷徨いながら、商店に並ぶ食い物に何度卑しい欲望に唆(そそ

のか)されたことか。そんな時は散々食べてる様子を思い浮かべ

てから食欲を騙して「ああっ、美味しかった!」と言って水をタ

ラフク飲んで餓えを凌いだ。しかし、ここで気を抜くと騙された

食欲が仕返しにやって来てリバウンドが始まる。それに捕らえら

れると万引きをしてまでも口にしない訳にはいかなくなる。だから

、「ああっ、美味しかった!」を連呼しながらリバウンドが諦める

のを待つのだ。

 バロックはすでにジョッキを空にして何時もの焼酎のアセロラ

割りを飲んでいた。普段から路上をヨロつく酒袋を相手に酒を飲

みながら演奏しているので相当鍛えられているのだろう。ただ、

酒を飲んで酔うという目的から見ると、私の方がはるかに費用対

効果が良かった。私は始めのジョッキだけで限界を超えて、意識

は異次元へワープしていた。私はバロックに気兼ねもせずに尋ね

た、

「サッチャンは売れるかな?」

私のしつこい質問は彼の隠したい何かに障ったのかもしれない

、彼はグラスを一気に空にして、吐き棄てるように言った、

「歌は、売れるやろ。」

「えっ!他に何かあるの?」

「曲!」

彼はそう言ってから今度は焼酎をロックで頼んだ。

「曲?」

「そう、作れへんのや、皆な。」

「ふーん。」

「今まで通りという訳にいかんからな。」

「何が変わったの?」

「大衆、かなっ。」

「どう?」

「うーん・・・?」

彼は届いた焼酎のロックを女性から直接手に取ってテーブルへ置

かずに口に含んで、話しを続けた。

「今の日本はちょうど中国で起きていることの逆の事が起きてい

るんや。中国では豊かさを求めて欲望が渦巻いているが、日本で

は豊かさを失わないように蠢いている。さて、どちらが夢のある

社会ですか?」

「中国!」

「せやろ。暮らしが削られていくのはほんとに辛いんや、音楽聴

いてる余裕なんかあるかいな。中国の混乱を嘲笑ってるけど、こ

っちの足元も崩れかけてる。」

「いつまで続くのかね、この不景気?」

「トコトン落ちればええんや。」

「とことんって?」

「争いが起きるまで。」

「どんな争い?」

「さあ、階級闘争やろか、それとも権力闘争か。ただ俺は世代間

闘争を望んでるけど。」

「世代間闘争?」

「そう!親殺し!」

「おっ、おっ親殺し?そっ、そんなん社会化せんやろ。」

「せんやろな、ただ、そこまでせんと変わらんやろ、この国は。」

「この国の何が?」

「うーん、何やろ、封建制度?」

「ほっ封建制度?」

「儒教道徳こそが狂わせてんや!」

「ああ・・・。」

「あれは身分道徳なんや!たとえば礼儀を叩き込んで、それで頭

を下げさせて、そんなヤラセの敬意を信用してるのか!」

彼はその後も酒のグラスを並べて、今では相当酔っていた。

「尊敬とはたとえ礼儀を教えられなくても、心から敬いたくなる

人物に対する感情や。年長と言うだけで何で敬わなあかんねん!」

「デモクラシーじゃないよね。」

「滅んでしまえ!こんな国なんか。礼儀正しく滅んでしまえ!」

彼は大声を出して叫んだ為、周りの席の人々誰もがこっちを見た

。すぐに店の人がやって来て、

「どうかしましたか?」

「あっ、すみません!どうも酔ったみたいで。」「すぐに連れて

帰りますので。」「あのー、会計して下さい。」

「さっ、帰ろうバロック。」

彼はテーブルに伏してすでに酔眠中だった。ただ、私のワー

プは失敗した。

                                (つづく)


(三十七)

2012-07-11 17:08:17 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(三十六
                    (三十七)



 バロックを抱えて店を出た、雨は随分前に止んだようだ。往来

はいつもとは違う陽気で、雨が上がるのを固唾を呑んで待って

居たかのように人出が多かった。大通りに出てタクシーを拾い、

彼をアパートまで送った。アパートの近くまで来た時、バロック

はムクッと背を伸ばして、

「運転手さん、そこで止めて、そのコンビニで。」

彼は目を覚ました。

「なんだ、起きてたのか。」

「すまん。」

彼は、金は払うと言って私を降ろして、そして車から出てきた。

「雨止む言うてた?」

「どうだっけ?えっ!もしかしてこれから出るつもり?」

「出るかいな、もっかい飲み直すんや。」

そう言いながらコンビニへ入って行った。

 二人はバロックのアパートでもう一度飲み直すことになった。

彼の部屋は始めて来た時から随分と生活らしくなっていた。ただ、

床には手書きの五線紙が散乱していた。

「散らかってるけど、座りいや。」

彼はコンビニで買ったビールを私にくれ、彼は流しの方へいって

紙パックに入った焼酎とグラスを持ってきた。

「オリジナル創ってんの?」

「まあな。」

窓の下では季節を間違えた虫が遠慮がちに鳴いていた。

 「国が無うても人は存在できる、しゃあけど、人がおらんと国

は成り立たへん。」

バロックの話しが始まったが、私は今頃になって酔いが廻ってき

たので横になって聞いた。

「つまり、人間は国家に先行するだね。」

「そうや。」

バロックは私が教えたサルトルの「実存は本質に先行する」が気

に入って、二人で言葉を換えてよく使った。

「さっき、あんた儒教が良くないって言ってたけど、あれどうい

うこと?」

「うん、あんまり知らんけど、まあ早い話が秩序、つまり国家を

守る為には、下っ端の者に勝手な真似をさせんように頭を押さえ

付けとけってことや。」

「つまり礼儀とは洗脳ってことか。」

「ほんなら、さっき言うた『人間は国家に先行する』と合わへん

やん。」

「うん、合わへん。」

私は彼の言葉を真似た。

「せやけど、道徳や礼儀をうるさく言う者に限って、まともに挨

拶もせえへん、何でや思う?」

「さあ?」

「身分が違うからや。」

「なるほど。」

「秩序が大事やから言うて個人を縛り付けるのはやり過ぎや。」
                     
「実存は秩序に先行するだ。」

「江戸末期の大坂に富永仲基と云う人が、儒教も仏教も、後の者

が名を残そうとして新しい説を書き加えて本来とは違うものにな

っていると云った。それはつまり、その時代の実力者が自分達の

都合の良い解釈や教えを『加上』するからやと。孔子や釈迦が今

の儒教や仏教を知ったら驚くに違いないわ。孝行しろなんて、親

が言えないことを上から言われても、親に感謝する気持ちがあれ

ばするし、恨み骨髄に達すれば斧を振り下ろすやろ。」

「うん。」

「そのくせ、礼儀にうるさい人が礼儀正しいかと言うたら挨拶も

碌にでけへん。道徳にうるさい者ほど不道徳なんや。それは、道

徳が下の者を縛り付ける為にあるからや。支配者の秩序とは、自

らの地位を下の者に脅かされないことなんや。」

「要するに犬が腹を見せて服従するようなもんだね?」

「似てるかもしれん。」

「それで人はシニカルになるんだ。」

「上手い。秩序が乱れたら道徳を強いるが、秩序が乱れたんは道

徳が失われたんや無うて、人が道徳に従わなくなったんや。」

「何で?」

「あほらしくて、社会の不公平が、要するに正直に生きることがアホ

らしいなる。」

「なるほど、わかるかもしれん。」

「そこで、秩序が乱れたんは道徳が失われたからやと国民に責任

を転嫁する。富永仲基と云う人は、日本人は隠し事が上手いとま

で言ってる。」

「騙されるんだ、国民は。」

「頭を押さえられてるから下しか見えんのや、今では進んで目を

瞑るようになった。権力者が道徳を持ち出す時、そこには何かが

隠されていると思った方がええ。」

「混乱は秩序に先行するだね。」                      

「山本七平の『日本人とユダヤ人』やったと思うけど、日本人

の勤勉さを、今は成長著しいある国と比べて、人に倉庫番を任せて

も日本人は実直に番をするけども、その国では必ず品物が無くな

って、倉庫番その者が窃盗を企んで信用できない、と言うて、高度

成長を支えた日本人の道徳を讃えていたけれど、人が道徳に従わ

んように為るにはもっと社会的な背景があると思う。」

「高度成長の時は誰もが豊かさを共有できたもんね。」

「そう、何も倉庫の物をパチらんでも、否、真面目に働いて信頼

される方が豊かに為れた。下手こいてクビに為る方が怖かった。」

「それって余分な経費が節約できるんだよね、会社も。」

「なんぼ真面目に働いても『使い捨て従業員』じゃ不満を感じる

し、人は不安の中では利己的になるよ。」

「下手こいてクビに為っても怖くないしね。今度は倉庫番の見張り

が要るようになる。」

「それは経営者も同じで、厳しい競争を勝ち抜いて利益を上げよ

うと思えば、隠れて不正を行いたくもなるよ。」

「でも、世間の信用失うよ。」

「それやねん、信頼関係やねん、それが問題なんや。」

「ふん。」

「道徳を知らんわけやないんや、不正が良くないことも判ってる

んや、ただ、それを思い止ませる信頼関係が無くなったんや。」

「確かに。いくら道徳を説かれても『お前が言うな!』と言いた

くなる時があるよね。信頼できない者に言われたくない。」

「高度成長の時は誰もが前に進めたから多少の不満も我慢できた

。しかし、閉塞した状況でさらに苦しみを分かち合わなあかんと

したら、信頼できる社会やないと上手いこといかんやろ。」

「何で自分だけが辛い思いをしないといけない、となる。」

「今の社会、信頼できるか?今の政治、信頼できるか?」

「信頼は道徳に先行するや。」

                               (つづく)

(三十八)

2012-07-11 17:07:04 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(三十六
                  (三十八)



 水墨画を描くといってもそう簡単では無かった。油絵は間違い

を直せたが、墨絵は間違いを直せなかった。さらに、筆先以外は

紙と接することが出来ないので、筆先の繊細な流れを指先の感覚

で加減して、その指先を手首で運び、その手首の動きを肘で助け

て、その肘を肩で支えなければならない。マンガはほとんどが手

先の作業だったが、肩の動きまでも筆先に影響することに驚かさ

れた。そしてその全体の動きを統べる神経は、片時もその筆先か

ら目を逸らすことが出来ない。迷いは筆に伝わって迷いのある線

となって残るのだ。始めは一本の横線も同じ太さで真っ直ぐに引

けなかったので、新聞紙に線を引く練習を何日も繰り返した。筆

の先端の微妙な力の入れようで自在に太さを変えることが出来る

が、その自在さを会得することが出来なかった。息を止めて意識

を筆先に集中し、ほとんど精神修行に近い緊張感で没頭しなけれ

ばならない。それはまさに、日本の伝統文化の根幹を為す精神性

に通じていた。一言で言えば、「精神の潔癖性」だ。意識の集中

は他者を排し、穢れを嫌う。墨絵は間違いを犯せないのだ。

 「間違いは直せない」文化は、まさに日本文化の精神と符合す

る。それは一度限りの人生に通じ、「真剣」勝負の武士道に通じ

る。日本人はこの「間違いは直せない」文化の中で生きてきた。

人は「間違いは直せない」から隠そうとし、「間違いは直せない

」から言葉を慎み、さらに、「間違いは直せない」から改めるこ

とを躊躇う。余所者を拒み、多情を好まず、純潔を尊ぶ。役人が

頑なに前例を踏襲するのも、そういった文化的な背景があるのだ

ろう。前例の地団駄ばかり踏んでいれば、我々は依然サルのまま

だったのに。

 ところが、西洋絵画は、「間違いは直せる」のだ。これは人を

新しい試みへ誘い、様々な思い付きが実践される、何故なら「間

違いは直せる」のだから。寧ろ、前例を踏襲することは新しいこ

とを生まない退屈なことだった。印象派の画家は独自性に拘った

、新しいこととは古いことを破壊することだ。「芸術とは破壊す

ることだ」。「間違いは直せる」文化はやり直しのきく人生だ。

過去の失敗に拘泥せず、「間違いは直せる」から謝罪し、「間違

いは直せる」から告白する。さらに「間違いは直せる」から間違

いを正す。それは実証主義を生み科学の発展を育んだ。真理とは

それ以上直すことが出来ない「間違い」のことだ。

 「あっ、しまった!また間違った。」

水墨画は詰らぬことを考えていては間違いを繰り返すのだ。

「よしっ、集中!集中!」

                                   (つづく)

(三十九)

2012-07-11 17:06:10 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(三十六
                (三十九)



バロックの御蔭で、と言うべきか、駅前広場には様々なパフォ

ーマーが現れて、休日ともなれば小さな大道芸の見本市みたいな

感じだった。ジャグラーの人は最近良く来るし、占いのおばさん

はバロックよりも前から居た。そして、控えめなソロバイオリニ

ストの若い女性や、休日だけ演るブラジル人トリオのラテン音楽

や、この頃では、若手漫才師までもが人を集めていた。もちろん

、ミュージシャンも入れ代り現れて常に3、4組は居たが、駅に

近い場所がメインステージで、そこには何時もバロックが居た。

駅の中には交番があり、そこには複数の巡査が常駐していて、タ

クシー乗り場の先にある広場を何時も監視していた。ただ、バロ

ックによると、何度かチューリップ組だかサクラ組だかの三下に

言い掛かりみたいなことを言われたらしいが、そこまで広く人々

に認知されると、彼等も下手に手出しが出来なかった。今ではデ

ビュー前の新人が、音楽会社と思われる者に連れられて、聴いた

後から忘れるような、つまり心に残らない歌を唄った後、しばら

くすると、路上から生まれた実力派シンガーとして、CD店の入

り口にポスターが貼られたりしていた。きっと、サッチャンもそ

の口なんだろう。彼女は向こう岸の隣の県で、ユニットを従えて

連日路上ライブを行っているらしい。耳に入ってくる位だから人

気に為っているに違いない。

 私は牛乳配達は続けていたが、墨絵を覚える為に絵画教室は辞

めた。もちろん、人様に見せれる様なものでなかったので、何ヶ

月も路上で絵を売ることが出来なかった。ひたすら水墨の練習を

して、飽きたらモチーフを探しに都心に出かけ乱立する高層ビル

をデジカメで捕った。やがて貯まった映像の処理に困って、ネッ

トカフェに行きサイトから中古のノートパソコンを落札して手に

入れた。

  東京の高層ビルを水墨で描く試みは全くうまくいかなかった。

直線ばかりのモチーフを模写しても、殺伐とした、まるで建物の

完成予想図のような味気ないものになった。それは直線の捉えど

ころのない素っ気無さからきていた。直線は人の感情や温もりを

拒絶する。逃げ場を失った感情は直線の上を行ったり来たりして

、やがて線の端から飛び出して、光になって永遠に向かい消滅す

る。つまり、人の思いは直線に留めることが出来ないのだ。

 子供の頃、一番初めに定規を作った人は、どういう方法で作っ

たのか知りたかった。だって、その定規が直線を満たしているか

どうか、定規が無いから確かめられないじゃん。たとえば、重力

のない宇宙空間で、人間は直線だとか平面だとかの概念を知り得

たのだろうか?否、そもそも、そんなところには人間が生まれま

せんからっー、「残念!」って言われたら、「何んも言えねぇー!」

けど。

 つまり直線とは、重力だとか光だとかの、人間の知り得ない深

い謎を秘めているのだ。落下運動の最中にある我々は、幸いにも

大地に留まれているが、死ねば大地に落とされることは、物理学

的に正しいに違いない。

 あれこれ試行錯誤しながら、高層ビルの直線的な描写を止めて

、強弱をつけたダラシナイ線を引けば、それなりに温もりが生ま

れて、高層ビル群を描いているにも関わらず、遠目にはまるで雪

舟の「秋冬山水図」に迫り、負けるとも勝らない傑作だと思った。

私は思わず、

「これだっ!」

と叫んで、雨上がの往来にその絵を持って飛び出た。

                                        (つづく)

(四十)

2012-07-11 17:05:06 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(三十六
                    (四十)



 「サッチャンがデビューしたよ。」

バロックがベッドの中で寝返りを打ちながら言った。そしてサイ

ドテーブルに置かれたパンフレットを指差した。私はそれを手に

取って見た。

「何これっ!学校のホールじゃん。」

「うん。」

サッチャンの居た学校には、とても専門学校の設備とは思えない

ほど立派なコンサートホールがあった。土曜になると結構名の知

れたミュージシャンが呼ばれていた。私はその前を通る度にサッ

チャンが言った「ぼったくり」を思い出した。

「行くの?」

「行かんよ。」

「まだ『チカコ』って言ってんのかな?」

彼はそれには応えなかった。

「CDあるで、聴く?」

「へーえ、聴く聴く!」

バロックは、ベッドから転がるように起きて、体を反らして伸び

をしてから、テーブルの下の散乱したCDから一番派手なジャケ

ットのケースを私に渡して、

「便所。」

と言って部屋の外にある共同便所へ行った。私は彼のパソコンで

彼女のCDを聴いた。新人らしいテンポのいいラブソングだった

。ただ、曲そのものは耳新しくは無かったが、彼女の声が懐かし

かった。バロックが戻ってきた。私はイヤホーンを外して彼に聞

いた、

「売れるかね?」

「売れるやろ。」

それ以上話しは続かなかった。彼はキッチンで歯を磨き始めた。

私は訪れた目的を危うく忘れるとこだったが、バックから私の描

いた「秋冬高層ビル図」を出して彼に見せた。すると彼は、先に

洗顔を終えて、タオルで顔を拭きながら絵を見て、

「上手くなったやん!」

と言ってくれた。

「ありがとう。」

「しかし、路上で売るには何か足りんな?」

「何?」

「シンボルが。」

「シンボル?」

「うん、例えば東京タワーとか、そんなんが。」

「・・・。」

「馴染みの無いもんには食いつけへんで。」

「でも、東京タワーは此処には無いからな。」

「そんなんどうでもええねん、兎に角、パッと見たら『アッ!』

と判らんとあかんて。」

こうして私の絵には、明らかにそこから東京タワーが見えないや

ろ、と思える絵でも必ず東京タワーが小さく描きこまれる様にな

った。

                                (つづく)