(七十六)

2012-07-11 09:08:11 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(七十六
                    (七十六)



 百年に一度の経済危機だと言いながら、経済対策は先送りにし

ても三年後の消費税の増税を閣議決定するというトンチンカンな

政府の対応に呆れ果てて居ると、評論家たちが強(あなが)ち否

定的でない事に驚いた。中には良く言ったと賛同する者までいた

が、それじゃあ百年に一度の経済危機をどうやって三年で立て直

すのかを先に示すべきだ。船が沈みかけているのに、こんな時の

為に保険に入っておくべきだと勧誘されているようで、まずは無

事に船を岸に着けろと言いたくなる。日本の経済は外需依存で、

もっと言えばアメリカ頼みの経済で、つまりアメリカが立ち直ら

なければ、日本の景気回復などありえないにもかかわらず、アホ

ウ総理は日本がどの国よりも早く経済回復すると言い放った。ど

うやって?この国の総理大臣は言ったことの責任を負うべきだ。

かつて小泉元総理は、国民の政治不信に対して自民党を変える、

もし変わらなければ自民党をぶっ壊す!とまで言いながら、自民

党って変わった?それとも自民党はぶっ壊された?安倍元総理は

消えた年金を一年で片付けると言ったが、年金問題は解決した?

福田元総理は2009年より道路特定財源を一般財源化すると言

ったが、ホントにそうなってるの?いったいこの国の国民は何時

までこんなデタラメな大本営発表に付き合っているのだろう。如

何なる国家の政治もその責任を負わされるのは国民である。北朝

鮮のような独裁体制にしても権力を支配者に預けた責任は国民に

ある。政治家に権力を与えてその責任を政治家に問うている限り

、いくら首相を取り替えてもこの国の政治が変わることはないだ

ろう。忘れては為らないのは、如何なる独裁国家にしろその主権

は国民にある。政治を変えることが出来るのは、北朝鮮にしろ日

本にしろ、そしてオバマを選んだアメリカにしろ、その責任を嫌

でも負わされる主権者たる国民だけなのだ。もっとハッキリ言え

ば、この国の政治が誤っているとすれば、そんな政治を選らんだ

我々主権者の誤りなのだ。

 「ネット繋がったよ、そして、明けおめ。」

バロックとのネットが繋がった。そこには廃村といっても数人の

老人が終の棲家として暮らしていたので電話回線はまだ繋がって

いた。バロックは朽ちた廃屋を借りて自らリフォームして住んで

いたが、ただ電話を繋ぐのに随分手こずったらしい。NTTは後

数年もすれば老人達も居なくなって本当の廃村になり、面倒が減

ると算段をしていたようで、何度も「本当に此処に住むのですか

?」と聞いてきたらしい。考えてみれば、我々の文化的な暮らし

とは、生活の根本を電気やガスや水道といったライフラインに繋

がれていて、ひとたび社会から弾かれた途端に、糸を切られた

操り人形のように、自分の力で立つことも出来なくなってしまう

のだ。やがて操り人間からは自由や正義などといった情熱なし

では生まれない意志すら退化して、自動制御された快適な空調

のマンションの檻の中で、南米ギニア高地の自然から人間の脳

細胞の仕組みまで映してくれるテレビの擬似知識によって世界

を知った気になって物分りの良い知識人を気取り、ただ目の前

の欲望を満たすことだけが生きる歓びだと思うに違いない。私も

もちろん現代社会のインフラの整った暮らしに洗脳も洗身もされ

てしまい、何もそんな時代に逆行した僻地で暮らさなくてもいい

のにという思いと、自ら操り糸を断ち切って山の中に逃げ込んだ

バロックを羨ましいという思いに心の中は振り子の様に揺れなが

ら、テレビ受像機が映すギニア高地の大自然の中で、若い女性レ

ポーターが恐らくは排便も思いに任せない不便な世界を、笑顔で

伝える美しい映像を寝転んで見ていた。ただ私は生きる情熱のエ

ントロピーがなし崩しに増大していくことに虚しさを覚えていた。

                                (つづく)  

(七十七)

2012-07-11 09:06:38 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(七十六
                    (七十七)



 「電気を自分達で作れることがこんなにも感動するとは思わん

かった。まるでマルティン・ルターによる宗教革命でローマ・カ

トリック教会の権威から解放されたプロテスタント教徒のように

、権力への依存から脱した解放感と自立して生きれる歓びに感動

した。

 水流発電機は改良を重ねて製品として販売されるまでになった

よ。初めは電力会社に電気を買い取ってもらう積もりでいたが、

信じられない安値で全く採算が合わなかった。彼等はまったく自

然エネルギーに消極的であることが良く解った。恐らく国は、原

子力発電の推進を図るためにも、そして何よりもエネルギー供給

のヘゲモニーを失わない為に、市民の参加を疎ましく思っている

んや。そこでこの発電機を製品にして販売する事に決めた。つま

り、僕達のライバルは国と大手電力会社や。改良された発電機は

、一台で充分一家族の電力を賄えるまでに為ったけど、それには

ゆーさん(発電機を作った人)の娘が信じれんくらい頭が良くて、

流水力学による解析によって驚くほどパワーアップした、ただ如

何せん、川の無い処では役に立たないけど。それでも現金収入の

少ない限界集落や山間地域からは問い合わせがあって、もうすで

に5台の予約が入った。僕等は早速ゆーさんを社長にしてネット

上で会社を創った。いろいろ問題はあるけど、例えば河川は国や

自治体が管理しているので勝手に発電機を沈めることはいずれ問

題になるだろう、しかし、電力会社が幾ら手練手管を操ったとし

ても、自家発電を手に入れたプロテスタント(反抗者)達のエネ

ルギー革命は止められないだろう。何故なら日本カトリック電力

協会がどれほど反対しても、それでも自然エネルギーの発電機は

回っているのだ。」 

 バロックのメールだった。

 私は早速メールを返した。

 「元気そうなんで安心した。あんたが言った通り東京は二度目

の終戦を迎えたみたいだ。ただ、先の終戦は何もかも失ったが、

それでも夢と希望だけは在った。しかし、今の東京は何もかも在

るが、夢と希望だけは失った。社会壊れて高層ビルあり、そんな

感じ。駅の通路に累々と横たわるホームレスを見て、誰もが心の

片隅でそんな境遇が何時自分に降りかかって来るのかと恐々とし

て生きている。かつては外国からエコノミック・アニマルとまで

言われて、身を粉にして働いた企業戦士達は、僅かばかりの年金

も役人に体良く掠め取られて、遂には短くなったロウソクの火を、

自らの爪に灯して糊口を凌いでいる始末だ。そんな親の背中を見

て育った若者が、封建的な会社主義と距離を措いて派遣を受け入

れたのも事実だろうが、しかし我々の選択は、滅私奉公の果てに

過労死する終身奴隷になるか、搾取の果てに解雇される使い捨て

奴隷になるかのどちらかしか無かったのも事実だ。かつてドイツ

人の経営者は世界第二位の経済大国の暮らしを見て「日本人は可

哀想な国民だ」と言ったけど、これがエコノミック・アニマルの

成れの果てだとすれば、僕達は何て報われない国で生きているん

だろうか。多くを犠牲にして得た経済成長がこんなにも簡単に朽

ち果てるとすれば、若者が希望を失うのも仕方ないことだと思う。」

                                  (つづく)

(七十八)

2012-07-11 09:04:50 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(七十六
                    (七十八)



 「いやーっ、久々にあんたの悲観的な意見に接して、俺は益々

元気になってきたよ。今、気付いたんやけどペシミスティックな

意見も時には逆に人を勇気づけることもあるんやな。こっちは、

年末から降った雪が何度か解かされたけど、遂に大晦日には白組

が雪辱を果たして辺りを征服してしまった。我々は彼等が撤退す

る春までは捕らわれの身と為ったが、その圧倒的な美しさに頭の

中まで真っ白になった。夜通し雪を降らせた雲が新雪を残して消

えた朝に、『これが青空の定義じゃ!』と謂わんばかりの空の青

さと真っ白い山々、ただこれだけの世界。墨で絵を描く君に見せ

てやりたい美しさだ。人の呼吸に穢されていない生まれたばかり

の冷たい大気が、初めて気管を通った時に、まるで新しく生まれ

変わったような清々しい気持ちになったよ。今朝撮った写真送る

よ。」

 そう言ってバロックは十点ばかりの画像も送ってきた。

 私はバロックにこっちの近況を伝えた。僕たちがライブをして

いた駅前の広場は、ホームレス達に占領され人が寄り付かなくな

り、遂にはホームレスのホームになってしまった事や、思いがけ

ずに自分の絵が売れた事を、ただ、サッチャンの事には触れずに

メールを返した。そして最後に、

「バロック、本当は何で東京を出てようと思ったの?」

と、私はどうしても本当の事を聞きたいと思った。

 バロックから返事が来た。

「サッチャンは元気にしてるか。あんたも知ってたと思うけど、

俺とサッチャンは付き合っていたんや。彼女にデビューの話しが

来た時、サッチャンはどうしても俺の作った曲を歌いたいと言っ

てくれて、俺も頑張って作ろうとしたけれど、やっぱりダメやっ

た。俺には女のラブソングが作れんのや。音楽事務所の奴等から

散々ダメ出しされて、遂に俺は外されることになった。それから

彼女とは次第に疎くなり別れてしまった。彼女がデビューして、

俺が偉そうなこと言えないが、この曲じゃアカンやろと思ってい

たが、その通り大して売れなかった。ところが、その後直ぐに出

した曲は、事務所の奴等がボロカスに言って採用しなかった俺の

曲やないか。俺は腹が立って事務所へ怒鳴り込んだんや。すると

、サッチャンの歌手としての成功が掛かっているとか抜かしやが

って、サッチャンの為にも友人なら事を荒立てない方が良いとか

言ってカネを握らせやがった。俺はそのカネを奴等に投げつけて

帰った。そしてもう彼女の歌が流れてる東京を離れようと思ったん

や。サッチャンは元気にしてるか?」

 私はバロックに憚っていたサッチャンの事を伝えた。彼女が仕

事を休んで学校へ復学したことや、バロックからのメールが来な

くなったことを気にしていたとか、あの小室哲哉との金銭問題の

話しはスルーしたが。そして、「東京に戻って来なよ。また三人

でやろうよ。」と誘ったが、どうもバロックにその気はなかった。

                               (つづく)

(七十九)

2012-07-11 09:03:55 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(七十六
                  (七十九)



 バロックが送ってきた画像の中にバロックが自分で撮った写真

もあった。彼はニット帽を被っていたが襟足辺りから伸び放題の

髪の毛が跳ね上がっていた。顔にも髭を蓄えて、さながらキュー

バのチェ・ゲバラの様だった。それでも穏やかな笑みからは以前

の彼には見られなかった逞しさが感じられた。

 バロックのメールだ。

 「失意は日常を取り戻した頃に襲ってくる。俺は東京を出てか

ら何度も生きる『意味』を失った。母親が中国地方の山間部の出

身で、子供の頃、夏休みには良く連れて行かれた。山間を流れる

渓流には岩魚に似た魚で『ごぎ』という川魚が産卵の為に険しい

急流を遡上する。滝のような激流を越える為にその溜まりで餌を

獲り体力を養って跳ね上がるのだ。その溜まりに手を入れて探る

と簡単に『ごぎ』が手掴みできた。ある時大きな『ごぎ』を掴ん

で喜んでいると、その溜りの中からもう一匹の『ごぎ』が死んだ

様になって浮かんで来た。彼等は番い(つがい)になって遡る為

、メスを失ったオスはただ一匹では生きる意味を失うのだ。俺は

そのオスの『ごぎ』の哀れな姿に心を揺すられて、手に掴んでい

たメスの『ごぎ』を彼に返してやった。それ以来、楽しみだった

川釣りをする気にならなくなった。東京を出た頃の俺はまさにあ

のオスの『ごぎ』のように生きる意味を失ってしまった。

 あんたが、『美』は対象に在るのでは無く、それを観る人の感

性に在ると言ったが、人の『生きる意味』もまたそれぞれの認識

の中に在るのだ。つまり、美しく無いと思えば『美』は成り立た

ない様に、生きる意味など無いと認識すれば生きる意味など無い

のだ。俺はその生きる意味を失って、もう死んでもいいと思った

。そして赤城山の麓の赤木(城)ヶ原の樹海に入った。鬱蒼とし

た山々を彷徨っているうちに格好の洞窟を見つけた。奥は歪に何

処までも続いていたが、中は初秋の肌寒さを凌げるほど温かった

。俺はその暗闇の中でまんじりともせず考えた。果たして『意味

』とはなにか?人は言葉を覚えて言葉によって思考するが、そも

そも言葉によって語られる物事の意味とは全て社会的な『意味』

ではないのか。俺は言葉に拠らない自分を確かめたかった。そこ

で世界に自分一人だけの世界を想像した。暗黒が支配する場所で

やがて場所が消滅し、長い沈黙の間に遂には時間が失われ、そし

て言葉も意味を無くした。唯一人だけの世界は全ての意味が消滅

して、もはや俺は人間でも無く、遂には善悪も無く、理性や美も

意味を失い、やがて生死すら意味を無くした。生きていることを、

死を知らない者がどうやって知るのか。社会性を持たない者には

あらゆる『意味』が消滅する。だから当然自ら死ぬことにも意味

が無くなった。私はただ餓えと恐怖に怯える生き物だ。人が自殺

するのは自らの社会性に殺されるのだ。つまり自殺とは社会的な

死なのだ。何故なら、社会が迫る真実ほど移ろいやすく当てに為

らないものは無いではないか。俺は社会性を棄てることで、自分

を殺さずに、反対に社会性を迫る自分を殺すことが出来た。そして

俺はもう生きる『意味』を問うことは止めた。そして、ヘビとカラスの

後に従って赤木ヶ原の樹海から生還した。」

                        (つづく)

(八十)

2012-07-11 09:03:04 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(七十六
                    (八十)



 私のメール。

 「赤木ヶ原の樹海なんてあるの?知らなかった。『ごぎ』の話

し、何か身に詰まらされた。人間は命を大切さを言いながら、他

の生き物は散々食い殺して、それで世界平和を願っているんだか

ら、命を奪われた生き物からすればやってられないよね。食物連

鎖の頂点に居る人間が67億人も増えて、ピラミッドの秩序が崩

れ、人間が人間によって淘汰される戦争を、虐げられてきた生き

物たちはさぞや良い気味だと思うだろうね。『ごぎ』との心に届

く関わりが無ければ、気に為らないことだっただろうが、この頃、

我々は気に掛けたく無いという理由から関わりを避けようとして

いる。イスラエルとパレスチナの紛争は、我が国とは関わりの

無いことだとあまり気にもしてないが、同じように北朝鮮による

拉致問題も、他の国にとっては関わりのないことなんだよね。

原爆の被爆者にとっては核兵器の拡散は気に為っても、旧日

本軍によって占領された国民の苦しみは関わりのないことなん

だ。我々は気に為ることだけに関わって、関わりの無いことは気

にしない、では世界の問題は何も解決しないよね。だって社会っ

て関わることで成り立っているんだから。社会は何の為にあるの

かと言えば、あんたが言った、人々を『餓えと恐怖』から救う為の

、謂わば生命維持装置ではないだろうか。その生命維持装置の

共有を妨げたり、恣意的な判断で公平性が歪められたりすれば

、人々は途端に『飢えと恐怖』の予感に怯える。社会が、生活に

困っている人やホームレスとの関わりを避けて、気にも掛けなく

なったら、我々の社会は財政による破綻より先に無関心によっ

て破綻するに違いない。」

 さらに私のメールは続いた。

 「それから、あんたが死ぬことまで考えるほど、苦しんでいたと

は知らなかった。私もホームレスの頃、あんたと出会うまでは唯一

の友だちは死神だった。一歩踏み出せば死ぬという場面に何度も

関わっていると、徐々に恐怖が薄れていくのが解った。最後は『

どうせいつかは死ぬんだ』と言って踏み出せると思った。そして死

への恐怖が薄れていくと、同時に生きる恐怖も薄れて、どんなヤバイ

状況に追い遣られても、生活の為に厭な男に抱かれる売女の様に、

鼻歌を歌って遣り過ごすことが出来た。つまり、死へのハードルが低く

なると生きるハードルも低くなった。

 あんたが言うように、人間は社会によって認識を共有してい

る。倫理や価値や真理までも我々が認識していることの全てが、

もし何らかの事情でこの世界にたった一人取り残されたとしたら

、つまり社会が失われれば、正義も判断も秩序も意味を失う。な

ぜ人を殺してはいけないのか?は、そもそも殺される人が居なけ

れば成り立たない、だから、社会の秩序なのだ。社会の秩序を壊

す者は社会の外敵である。外敵は殺しても社会の秩序と矛盾しな

い。宇宙はビッグバーンから誕生した、と科学的な実証の基に真

理とされるが、ビッグバーンは神が起こしたと言われたら反論で

きない。真理と云えども限定的だ。しかし、たった一人残された

者がビッグバーンは神が起こしたと言ってももちろん反論する者

など居なくて、彼が信じることが彼の真理になる。要するに真理

なんてものもいい加減なものだということだ。ただ、社会が無く

なったとしても、彼は社会的な意味を失うだけで、生きる意味な

ど知ることは出来ないだろう。つまり、どこまで行っても生きる

意味なんて見つからないってことさ。

 我々は我々自身を視れない。視線の対象はいつも自分以外なの

だ。だが、鏡の反射によって虚像は視れる。社会とは自分を反射

してくれる鏡ではないだろうか。この頃は歪んできているが。

 『生きる意味』を問うとは視線のようなものだ。視線を投げて

いるのは自分だが、その視線が捜しているのも自分なのだ。しか

し、自分は自分を視れない。そこで社会という鏡によって自分を

映すが、それは社会に反映された自分で、虚像である。こうして

、我々は社会化された自分の虚像を自分自身だと信じるのだ。視

線を自分以外に求めると神が現れるんだけど、何れにしろ、言葉

によって意味を『問う』限り社会的な結論に帰趨するんだ。

 西洋の画家たちは自分を世界を映す鏡にした。やがて画家たち

は見るということが自分の意識によって一様でないことに気付い

た。同じバラを見てもさっきと今では違うのだ。どちらが本当の

バラなのか。果たして本当のバラの姿などあるのか。意識が変わ

れば見る対象の姿も変わるのか。画家は自分の意識に映るバラこ

そ描くべきだ。こうして絵画は画家の意識の鏡に映されて世界は

歪められた。否、美しく歪められた。

 社会が我々を歪めるのか、我々が社会を歪めるのか、それは相

対的でどちらともいえる。疲れたのでここ止めるよ。

 水流発電機はどうなった?もっと教えてよ! 」

                                 (つづく)