「新しい価値定立」(3)

2020-06-07 11:39:05 | 「三島由紀夫について思うこと」

         「新しい価値定立」

             (3)


 哲学者 木田元によると、ハイデガーは「人間を本来性に立ちかえら

せ、本来的時間性にもとづく新たな存在概念、おそらくは《存在=生

成》という存在概念を構成し、もう一度自然を生きて生成するものと

見るような自然観を復権することによって、明らかにゆきづまりにき

ている近代ヨーロッパの人間中心主義的文化をくつがえそうと企てて

いたのである。」(木田元著「ハイデガーの思想」より)と言う。ハイ

デガーは、理性によって固定化された近代科学文明社会は生成として

の人間にいずれそぐわなくなり行き詰まることを早くから予見してい

た。たとえば極端な話だが、我々が走る能力を進化させて時速100

kmで走ることができれば、自動車は役に立たなくなりガラクタにな

ってしまうが、それとは反対に車に頼った生活は人間から歩行機会を

奪っていずれ人間の歩行能力は退化する。つまり、人間だけを自然の

中から取り出して、人間の思い通りに自然を作り変えることは人間か

ら進化を奪うことになる。ところで、人間中心主義的文化とは自然を

《存在=現前性=被制作性》と認識して、自然は《作られたもの》ま

た《作られ得るもの》として捉えられ、自然を制作のための死せる材

料と見る自然観の下に近代ヨーロッパの文化形成が行われてきた。そ

れは《作る》技術を担う人間が世界の中心である人間中心主義にほか

ならない。では、「もう一度自然を生きて生成するものと見るような

自然観を復権すること」(木田元) になれば、科学技術によってもたら

される人間中心主義は崩れ、それはヒューマニズムの終焉を意味する。

たとえば、ヒューマニズムが科学技術によって代表されるのは医療技

術にほかならならないが、生成としての人間が事故や病気が原因で死

ぬことは極めて自然なことだとすれば、科学技術による延命治療は自

然に反することになる。こうしてハイデガーはヒューマニズムに撞着

して自らの考えを改めざるを得なかった。果たして人間とは自然の中

の一部なのか、それとも、自然とは人間が生きるための材料(ヒュレ―)

にすぎないのか?

                        (つづく)


「新しい価値定立」 (2)

2020-05-17 16:14:28 | 「三島由紀夫について思うこと」

                 「新しい価値定立」


             (2)


 私は以前に近代社会の人間の活動が自然環境に異変を及ぼして何れ

世界は限界に達するという思いから、それを「世界限界論」と呼んだ

。もちろんそれは1970年に「ローマクラブ」が警告した「成長の

限界」に同感してのことだが、あれから半世紀を経て、事態は益々深

刻さが増したと思っていると、一方では何も変わっていないじゃない

かと「フェイク」呼ばわりする学者さえ居ると聞くと、つくづく地球

の許容の大きさに感心するばかりで、もちろん私にはその警告音が疑

いなく次第に大きさを増していると思っているのですが、そこで「世

界限界論」の下での新たな時代の価値の創立について考えてみようと

思う。そして、それはこれまでのような何もかもを科学技術に依存し

た社会とは違う「新しい価値定立」の下で「世界限界論」を回避する

生き方を考えてみたいと思います。何故なら、いま我々が享受してい

る近代科学文明社会はいずれ様々な限界に達して、仮に人類がこれか

ら先も生き残っていくと仮定すれば、間違いなく未来の人類が今のよ

うな暮らしを営んでいないことは明白であり、だとすれば、我々の文

明は一時的に繁栄したあと何れ消滅するしかない傍流であり幻実でし

かない。私はいずれ限界によって淘汰される一時的な繁栄の傍流を生

きたいとは思わない。

                        (つづく)

 

 


 「新しい価値定立」

2020-05-17 15:20:08 | 「三島由紀夫について思うこと」

           「新しい価値定立」

 

 オランダの哲学者スピノザ(1632年~ 1677年)はこう言いました。

「未知の事物の認識と確実性に到達するには、認識と確実性において

その未知の事物に先立つほかの事物の認識と確実性によるほかない」

[スピノザ『デカルトの哲学原理』「幾何学的方法で証明された哲学
原理」第一部(公理)より]

 つまり、我々が「世界とは何であるか?」と問う時、我々は生まれ

て来る前に《この世界に先立つほかの認識と確実性》を何一つ持ち合

わせていないので、この世界の《認識と確実性》に到達することはで

きない。《認識と確実性》を《真理》と呼べば、我々の《理性》はこ

の世界の《真理》を掌握することができない。そして《真理》を見失

った者はニヒリズムに陥る。ニヒリズムから脱け出すにはニヒリズム

に陥れた《理性》はまったく役に立たない。ニヒリズムから脱け出す

には《非合理性》である《芸術》こそが《価値》がある、とニーチェ

は説く。もしも、それが《論理的》であるとすれば、三島由紀夫が伝

統文化としての《価値》を認めた《天皇》の存在も、《非論理的》で

はあるが、「真理よりも多くの価値がある」のかもしれない。

 《芸術》が《感性》によって規定されるとすれば、ここでは《感性》

による《芸術的価値》について考えてみたい。ニーチェ=ハイデガー

によれば、《理性》による形而上学的思惟では存在の本質を捉えるこ

とができずにニヒリズムに陥ると言うのだから、我々に残された価値

は《感性》によるしかないではないか。

 ハイデガーによると、「《価値》という言葉は、強調された言葉と

しては、ひとつにはニーチェによって流布するようになった。それで

今では、或る国民の《文化的価値》、或る民族の《生の価値》、《道

徳的価値》、《美的価値》、《宗教的価値》などが話題になっている

。」(ハイデガー「ニーチェ」Ⅰ) つまり、「価値」という言葉はニー

チェによって一般的に使われるようになったと言うのだ。さて、その

ニーチェは、生成としての世界とは「力への意志」であり、「力への

意志」とは《新たな価値定立の原理》であると言う。つまり、生成と

しての「力への意志」は常に《新しい価値定立》を模索しているのだ。

そして、いま我々が探し求めているのは、《理性的価値》を追い求め

て陥ってしまったニヒリズムから我々を救い出してくれる《芸術的価

値の定立》を考えようと思う。

 まず、三島由紀夫がその社会的価値を主張する天皇を中心とした日

本の伝統文化は、開闢以来途切れることなく続く日本の歴史的価値で

あることに違いないが、だからと言って天皇国体論が近代社会を繁栄

へと導いた科学文明に取って代わるほどの価値があるかといえば言わ

ずもがなである。そもそも天皇中心の伝統文化とは《みやび》に価値

を置く宮廷(上流)文化であり、文化的価値は常に低きに流れるとすれ

ば、民主主義社会の下で今さら《みやび》文化が甦ることは決してな

い。そして何よりも、現人神としての天皇は、先の戦争でその神とし

ての能力の限界が露わになったことで神格を失った。つまり、天皇を

中心にした伝統文化も政事も近代社会の下ではその価値を失ったのは

明白である。但し、ものごとの浮き沈みは世の習いである。三島由紀

夫は百年後の未来を見据えてこう言う、「日本的非合理の温存のみが、

百年後世界文化に貢献するであらう」と。果たして・・・。

                         (つづく)


「新しい価値定立」

2020-05-12 20:04:12 | 「三島由紀夫について思うこと」

           「新しい価値定立」

 

 オランダの哲学者スピノザ(1632年~ 1677年)はこう言いました。

「未知の事物の認識と確実性に到達するには、認識と確実性において

その未知の事物に先立つほかの事物の認識と確実性によるほかない」

[スピノザ『デカルトの哲学原理』「幾何学的方法で証明された哲学
原理」第一部(公理)より]

 つまり、我々が「世界とは何であるか?」と問う時、我々は生まれ

て来る前に《この世界に先立つほかの認識と確実性》を何一つ持ち合

わせていないので、この世界の《認識と確実性》に到達することはで

きない。《認識と確実性》を《真理》と呼べば、我々の《理性》はこ

の世界の《真理》を掌握することができない。そして《真理》を見失

った者はニヒリズムに陥る。ニヒリズムから脱け出すにはニヒリズム

に陥れた《理性》はまったく役に立たない。ニヒリズムから脱け出す

には《非合理性》である《芸術》こそが《価値》がある、とニーチェ

は説く。もしも、それが《論理的》であるとすれば、三島由紀夫が伝

統文化としての《価値》を認めた《天皇》の存在も、《非論理的》で

はあるが、「真理よりも多くの価値がある」のかもしれない。

 《芸術》が《感性》によって規定されるとすれば、ここでは《感性》

による《芸術的価値》について考えてみたい。ニーチェ=ハイデガー

によれば、《理性》による形而上学的思惟では存在の本質を捉えるこ

とができずにニヒリズムに陥ると言うのだから、我々に残された価値

は《感性》によるしかないではないか。

 ハイデガーによると、「《価値》という言葉は、強調された言葉と

しては、ひとつにはニーチェによって流布するようになった。それで

今では、或る国民の《文化的価値》、或る民族の《生の価値》、《道

徳的価値》、《美的価値》、《宗教的価値》などが話題になっている

。」(ハイデガー「ニーチェ」Ⅰ) つまり、「価値」という言葉はニー

チェによって一般的に使われるようになったと言うのだ。さて、その

ニーチェは、生成としての世界とは「力への意志」であり、「力への

意志」とは《新たな価値定立の原理》であると言う。つまり、生成と

しての「力への意志」は常に《新しい価値定立》を模索しているのだ。

そして、いま我々が探し求めているのは、《理性的価値》を追い求め

て陥ってしまったニヒリズムから我々を救い出してくれる《芸術的価

値の定立》を考えようと思う。

 まず、三島由紀夫がその社会的価値を主張する天皇を中心とした日

本の伝統文化は、開闢以来途切れることなく続く日本の歴史的価値で

あることに違いないが、だからと言って天皇国体論が近代社会を繁栄

へと導いた科学文明に取って代わるほどの価値があるかといえば言わ

ずもがなである。そもそも天皇中心の伝統文化とは《みやび》に価値

を置く宮廷(上流)文化であり、文化的価値は常に低きに流れるとすれ

ば、民主主義社会の下で今さら《みやび》文化が甦ることは決してな

い。そして何よりも、現人神としての天皇は、先の戦争でその神とし

ての能力の限界が露わになったことで神格を失った。つまり、天皇を

中心にした伝統文化も政事も近代社会の下ではその価値を失ったのは

明白である。但し、ものごとの浮き沈みは世の習いである。三島由紀

夫は百年後の未来を見据えてこう言う、「日本的非合理の温存のみが、

百年後世界文化に貢献するであらう」と。果たして・・・。


以下の文章は、「三島由紀夫について思うこと」(6) に挿入します。

2020-05-09 10:52:20 | 「三島由紀夫について思うこと」

 以下の文章は、「三島由紀夫について思うこと」(6) に挿入します。

 

余談ではあるが、三島由紀夫は超感性、所謂スピリチュアルな世界に

も強い関心があった。彼は自分が生れて来た時のことを覚えていると

自著「仮面の告白」に書いているし、霊能力者としての美輪明宏とは

政治理念がまったく違うのに終生親しくした。さらに、彼の最後の作

品「豊饒の海」は主人公の輪廻転生を軸にして物語が綴られる。それ

はまさに彼が愛読したニーチェが説いた永劫回帰説へのオマージュと

言えなくもない。ニーチェによると、永遠の時間の中で世界が有限で

あるなら、世界は同じことを永遠に何度も繰り返すと説き(永劫回帰説

)、回帰は何もかもが寸分の違いなくまったく同じように起こるという

のだが(同じものの永遠なる回帰)、それは「再生までにはまだゆっく

りできる、と汝らは思っている、――だが間違えてはいけない。意識

の最後の瞬間と新生の明け始めとの間には、〈少しの暇もない〉のだ。

――それは電光石火のように過ぎてしまう。たとえ生物たちはそれを

幾兆年単位で測り、あるいはそれでも測りきれないかも知れないが。

知性が不在になれば、無時間性と継起とは両立しうるのだ。」(ニーチ

ェ「手記資料」122番(第12章66頁) つまり、回帰(転生)は死ん

だ後〈少しの暇もな〉く起こると言うのだ。すでに三島由紀夫の霊は

再び未来の日本に転生して小説を書いているかもしれない。