「精神の片輪」

2020-12-29 23:21:00 | 従って、本来の「ブログ」

           「精神の片輪」

 

 科学技術の《進化》はその一方で我々の生存能力を退化させ、

退化した生存能力は我々の精神を《片輪》にする。

では「精神の片輪」とは何か?

それは管理された生命、つまり自らの力で生きられなくなった

ものたち、家畜のことだ。管理社会「幸福の檻」の中で家畜た

ちはこう言う、

「なんでもないことがいちばん幸せなんだ」と。

ただ私は、どれほど幸せだったとしても檻の中の決められた人

生は望まない。

 ところで自由についてニーチェはかく語っています、一部です

が、

「最後に一つ、自由になろうと欲する者は誰でも、自分自身によ

ってそうならなくてはならぬ、誰にとってにしろ自由は奇蹟の賜

物よろしく棚ぼた式に落ちてくるものではない」(『ヴァイロイト

におけるリヒアルト・ヴァーグナー』、第一巻585頁)

 


「二元論」(2)

2020-12-28 00:22:56 | 「二元論」

          「二元論」


           (2)


 そもそも西洋形而上学は「存在とは何か?」と問うことから始ま

り、そこで古代ギリシャの哲学者プラトンは、変遷流転する仮象と

しての存在を《事実存在》として、そして永遠不変である真の存在

こそが《本質存在》であると捉え、それに沿って世界を、遷り変る

仮象の存在でしかない実存の世界と、永遠不変の真の世界としての

「イデアの世界」に二分化し(プラト二ズム)、その後、キリスト教

世界観の下で「イデアの世界」は「神の世界」へと引き継がれ、《

本質存在》の《事実存在》への優位は揺るぐことがなかった。

 ところが、哲学者ニーチェは「私の哲学は逆転したプラト二ズム

である」と言明し、プラトンの「イデア論」から引き継がれた「神

の世界」を「神は死んだ」と諷刺して、存在概念を《事実存在》と

《本質存在》に分ける「二世界論」を逆転させた。しかし、逆転さ

せたからと言って二元論が消滅した訳ではない。そもそも二元論を

もたらすのは我々の存在根拠によるからである。つまり、我々は精

神なのかそれとも物質なのか、或は、本能なのかそれとも理性なの

かの二元性が二元論を生むのである。

 形而上学的境涯、つまり「存在とは何か?」を問うことに生涯

をかけたニーチェにとって最終結論である実存主義思想はもの足

りなかった。「神は死んだ」「この世界が全てだ」では何よりも

精神の居場所がなくて忽ちニヒリズムに陥る。事実存在がすべて

であれば世界は意味を失う。しかしモノが消えても想いは残る。

そこでニーチェは新たな精神をニヒリズムにこそ求めた。超人思

想とは精神主義者ニーチェの実存主義からの転回にほかならない

。永劫回帰説とは「この世限り」の実存思想の全否定である。つ

まり、ニーチェもまた事実存在としての実存と本質存在としての

精神の二元論に逡巡した。形而上学的境涯とは最終結論が出たと

しても形而上学的思惟から離れることができない。

                         (つづく)


「あほリズム」(788)

2020-12-22 22:04:24 | アフォリズム(箴言)ではありません

          「あほリズム」

 

            (788)

 

 国権の最高機関である国会で118回も平気で嘘を吐く虚言癖

のある政治家が、今更改まって本当のことを言う訳がないではな

いか。

https://mainichi.jp/articles/20201221/k00/00m/010/234000c

「安倍前首相の「虚偽答弁」118回 衆院調査局 桜を見る会前夜祭」