(百一)

2012-07-11 08:34:20 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(百一)
                  (百一)



 私は急いで部屋に戻って、「逆光の近遠法」による作画を試み

た。過去の作品に無理矢理近景のシルエットを描き足して、遠く

離れるに従って逆光が薄れる様子を描きたかったが、オブジェが

高層ビルでは全く面白くなかった。しばらく止めていたタバコを

吸いながら「近遠法」について考えていると、サッチャンからメ

ールが来た。彼女は私のことを「アート」と呼ぶ。

「アート、久振。私学校卒業出来!謝々。所デ個展何日?」

何を言ってるのか解らなかったので、

「意味が解らん!」

とメールを返した。

「ごめん!アート、私は学校を卒業できました。アートのお蔭で

す、感謝してます。ところで、個展は何日なの?」

「何だ、さっきのは?」

「私達の間で流行ってる『新漢文』なの。『珍文漢文』とも言う

けど。意味通じなかった?」

「装言割手見場、私理解出来可若」

「何、其?」

「そう言われてみれば、解ってきた。」

「そういう時は、『?言事、理解出来』でいいのよ。漢文じゃな

いんだから。」

「是々、其案外面白沿 。(なるほど、それは案外面白そうだね。)」

「巧!大分良成果ネ、解無時ハ仮名使良 簡単デショ?(うまい

!大分よくなったわネ、解らない時はカナを使えばいいのよ。簡

単でしょ?)」

「是、要日本語文体良可。(うん、日本語の文体でいいんだね。)


「是々!醤油事。(そうそう!しょうゆうこと。)」

 サッチャンは学校で、中国から学びに来ている生徒と親しくな

り、メールを交わしている内に「珍文漢文」が生まれたらしい。

あくまでも日本語の文体を使うことが基本で、飛んだり返ったり

しない。

「御免!個展終ッ了。」(ごめん!個展終わっちゃった。)

「江ッ!何故教呉無為?」(えっ!何で教えてくれなかったの?)

「江ッ」の『?』(さんずい)は汗っている様子を表すらしい。

私は女社長に嵌まり込んでしまって、サッチャンのことはすっか

り忘れていた。彼女は学校で習った作曲とギターで、一人で復帰

を目指してまた路上から始めていた。元々ヒット曲を出していた

ので人気はあったが、新しい曲作りに苦しんでいるとの事だった

。サッチャンが、

「ねっ、バロックはどうしているの?」

「ん?」

その時、私にある考えが閃いた。

「サッチャン、バロックに会いたい?」

「何、急に?」

「オレ、バロックに会いに行こうと思っているんだけれど、・・

・・・若思良可鱈一緒行可能何?」

「何言解無。」(何言ってるのか解らない)

「サッチャン!もしよかったら一緒に行かないか?」

「点々々々々々々々々々。」(・・・・・・・・・)

 私は「逆光の近遠法」を自然の風景をオブジェにして描きたか

った。女社長からも休みを貰っていたので写生旅行に出ようと思

いっていた。すぐにバロックが暮らす限界集落の自然が頭に浮か

んだが、さすがに一人では心許ないので彼女を道連れにしようと

考えた。ところがサッチャンは、

「一寸考続。」(ちょっと考える)

                                続(つづく)

(百二)

2012-07-11 08:32:09 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(百一)
                   (百二)



 私は、彼らが独立宣言した限界集落への亡命を打診しようと思

って、放っておいたバロックのメールへ返事した。

「あんた達の独立宣言を心から応援する。東京はと言えば、誰も

が手垢の付いた暮らしに飽き飽きして、新しい変化を望んでいる

のだ。しかし、進化することで夢を与えてきた都市は、閉塞した

時代の壁を越えられずに、まるで文明の終焉を迎えたかのようだ

。そんな飽食の果てに注文されたのがオリンピックだ。もう我々

は食い飽きた。世界一高い高層ビルも、世界一のグルメ都市も、

世界一の最先端技術さえも、格差に怯える都民にはもはや連帯感

など生まれない。そんな時にオリンピックを誘致しても、昔流行

ったドラマの再放送を見るようでトキメく訳が無い。ただ、オリ

ンピックから始まった成長がオリンピックで幕を引くというのは

、何時かあんたが言った、万博から始まった繁栄が花博で終わっ

た大阪の凋落にダブって映る。更に誘致に失敗でもすればそれこ

そ大阪の二の舞になるかもしれない。つまり、柳の下に二匹目の

ドジョウは居ないってことだ。案外、大阪は時代の先頭を走って

いたのかもしれないね。私は、今の官僚支配を耳にする度に、か

つてのソビエト連邦を崩壊へと導いたノーメンクラツーラ(特権

官僚)を思い浮かべずには居れない。かつてソ連のゴルバチョフ

大統領は『日本は世界で最も成功した社会主義国家だ』と揶揄し

たが、そこで暮らす中流社会はすでに底が抜け落ちて崩壊してい

るのに、この国のノーメンクラツーラ達は責任を問われることも無く

、のうのうと破綻した社会主義体制にしがみついているではないか

。彼らにとって国民とは体制を維持する為の手段でしか無いのだ。

いずれ地方分権の声が大きくなって、ソ連崩壊の時の様に地方の

叛乱が独立宣言にまで及ぶとすれば、あんた等の独立宣言こそが

その先駆けだったと証言してもいいと思っている。

 去年の今頃は、メディアも社会も連日のように地球温暖化の問

題を取り上げて、あんたが言う様に破壊された上空のオゾン層が

今にも落ちてくると言わんばかりに悲痛な想いで語っていたが、

高速料金が値下げされた途端、そんなことは杞憂だとばかりに、

ハイウェイをブッ飛ばして行楽地でハシャぐ客の姿をテレビニュ

ースで見ていると、確かに『朝四暮三』を喜ぶサルのように見え

てくる。メディアは去年の経緯から、せめて『車で出掛けるのは

成る丈控えましょう』くらいは言ってもいい筈なのに、逆に煽っ

てるよね。全く『喉もと過ぎれば・・・』だよね。

 それから累積債務の問題は、会計のことは全く知らないけど、

驚いたことに、国会議員の口から『実は金は有るんですよ』と平

然と語られ、『財務省が消費税を上げる為に借金を水増ししてい

る』などと言うのを聞いて唖然とした。そもそも、金の有る無し

に関わらず、そんな事って認められるの?それって二重帳簿じゃ

ん。しかも、国会議員が知っていて何もしないってどういうこと

。埋蔵金だって有ること自体おかしくない?何だかこの国の民主

政治が済(な)し崩しに崩壊し始めてるよね。『朝四暮三』を喜

ぶ国民を尻目に、官僚たちが政党の対立を利用して、無知な政治

家を操って自分達の立場を守ろうとしている。彼らは何れこの国

を旧ソ連のように崩壊へと導くだろう。それでも、彼らには責任

は無くて、操られてる政治家の責任で、元を辿ればそんな政治家

を選んだ、『朝四暮三』を喜んでいる国民に還って来るんだよね

。つまり、この国の政治というのはちゃんと民意を反映している

ってことなんだよね。」                      

『朝四暮三』・・・中国、宋の狙公(そこう)が、飼っている猿に
(朝三暮四)   トチの実を与えるのに、朝に三つ、暮れに四つ
         やると言うと猿が少ないと怒った為、
         朝に四つ、暮れに三つやると言うと、たいそう
         喜んだという「荘子」斉物論などに見える故事
         から。
         目先の違いに気をとられて、実際は同じである
         のに気がつかないこと。
         また、うまい言葉や方法で人をだますこと。
                        ( 大辞泉)

 すぐにバロックからメールが返って来た。

 「この国の三流政治は、かねてより文化人達がノンポリを助長さ

せたツケが廻って来たんや。若者に影響を与えたタレントや文化人

達は、決まって政治的な発言を避けてきた。奴等はセックスと嘘と

金儲けのことしか語って来なかった。しかし、そんな中で唯一権力

に対して『アンガージュマン』したミュージシャンがおととい死ん

でしまった。ごめん、もう考えが浮かばへん。」

 かつてミュージシャンを志したバロックの短いメールだった。

『アンガージュマン』・・・知識人や芸術家が現実の問題に
             取り組み、社会運動などに参加
             すること。(大辞泉) 
         
 
 バロックは、路上で彼の歌を自分からパフォーマンスすることは

無かったが、リクエストされた時にスコアも見ずに持ち歌のように

歌っていたことを思い出した。私は、恐らくバロックも、清志郎が

還暦祝いの赤いチャンチャンコを着て、「ロックンロール最高!」

なんて叫んでいる姿は絶対に見たく無かった。さらば!青春の光だ。

 バロックから再びメールが来た。

 「春になって農繁期に入り、冬の間に身体を怠ける訳が理解でき

る程、一転して慌しくなった。それでも、自然の中で働くことは、

考えるより先に身体が動くので全くストレスやなかった。まるで全

ての生き物が待ち焦がれたように楽しそうに働き始めた。枯れ草の

上を急ぐトカゲも、目が合うと足を止めて怪訝そうに首を傾げてか

ら、嬉しそうにウィンクした。凍てついた景色も日毎に緩み、小鳥

の覚束ないさえずりに急かされる様に残雪も姿を消し、雪解け水と

なって川に集い、名残を惜しむかのように山裾を巡って、水嵩を増

しながら軽やかに流れた。ところが、我等が水流発電機は、休んで

いる間に本来の仕事を忘れたのか、水の流れを遣り過ごしたまま微

動だしない。そこで発電機を引っ張り上げゴミを取り除いて目覚め

させ、再び川へ放り込むと思い出したように水流を電流に転換した

。今はまだ開発段階なので、我々はこの発電機を貸し出す事に決め

た。電力会社の電気代の半値程度の単価で、消費分を徴収すること

にした。すると、問い合わせが殺到して、上手く行けば初めて利益

が生まれるかもしれない。ただ、そうなれば三人ではとても間に合

わないかもしれんけどね。」

 私にとって、バロックの懸念はまるで話の水を向けられている様

に思えたので、直ぐにメールを返した。

「もし邪魔じゃなかったら、そっちへ行ってもいいかい?」

「えっ!何かあったん?」

私は、今の自分の画を変えようと思っていること、それには自然を

描きたいと思っていることを伝えて、

「ただ、邪魔になったら悪いけど?」

「何言うてんの!邪魔な訳ないやん。空き家いっぱい有るから心配

いらんって。来いっ来い!」

「友達と一緒でもいいかな?」

私は敢てサッチャンの名前を出さなかった。

「ああ、十人でも二十人でもOKや!来いっ来い!」

そんな訳で、あっさりと話しは決まった。私はバロックに会いに行

くことになった。

                         (つづく)

(百三)

2012-07-11 08:30:54 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(百一)
                    (百三)



 私は早速サッチャンにメールした。

「サッチャン。俺、バロックに連絡取ったよ。バロックは来いって

言ってる。どうする、一緒に行かない?」

サッチャンからメールが返って来た。

「如何為可?」 (どうしようか?)

彼女はまだ『珍文漢文』を懲りずに使っていた。仕方ないので付き

合った。

「何迷?」 (何を迷っているの?)

「何等迷無」 (何も迷って無いよ。)

「再会望無?」 (会いたくないの?)

「点点点」 (・・・)

「由解了。明々後日出発為故、行心算有接、メール送来。」

(よし解った。しあさって出発するから行くならメールして。)

すると、すぐにサッチャンがメールを送って来た。

「行く!バロックに会いたい!」 (&ノ!#Z%?存@H?*&??P\カラ)

「?江ッ?」 (エッ?)

 「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。」と芭蕉も記

したように、私もホームレスになってから、片雲の風にさそわれて

京浜を流離(さすら)い、やがてバロックのアパートに移り住んだ

が、「そヾろ神の物につきて、こころ狂わせた」訳ではないのだが

、漂泊の思ひやまず、取ものも手につかず春立る霞の空に、絵筆を

携えて白川の関を越えたいと思い立った。

 東京は立ち去る者に未練を起こさせない。それは、共に暮らした

蜘の古巣が張ったアパートも、すぐに取り壊されて新築マンション

に立ち替り、懐かしさを留めぬ位に様変わりすることを承知してい

るからだ。次のひな祭りの頃には、馴染みの家並みも姿を消して、

何れは殺風景な建物に一変することだろう。

そこで、

 草の戸も 立て替わる世ぞ 雛までに

麺カップの空を流しに置いて部屋を出た。

 明けぼのゝ空は黄砂で朧々として、有明の月など高層ビルに隠れ

て目にしたことなど無かった。花粉の舞うビル壁の通りを抜けて駅

へと歩いたが、東京の雑踏も最早これまでと思うと心が軽かった。

駅では混雑に巻き込まれて前へ進めないほどだったが、私の乗った

電車を通勤客はホームに立並んで見送ってくれた。満員の車内では

花粉症の症状が出て、鼻水が出て涙が止まらなかった。

そこで、

 行春や 花粉で鼻たれ 目は泪

私は東京へ再び戻って来ないかもしれないと思い、車窓から早送り

される東京の景色を記憶のマイドキュメントへダウンロードした。

 「オハヨ―ッ!」

 新幹線の地下コンコースで、サッチャンが元気に手を振っていた。

私は肩に背負ったバッグを前に廻して両手で抱えて駆った。

「ごめん!待った?」

「何言ってんのよ!まだ30分も早いんだよ」

彼女は、話す時は例の「珍文漢文」では無かった。私はサッチャン

の頭越しに奥の時計を見た。確かに約束していた時間より随分早か

った。私はこの頃では予定通りに着けるという幻想を捨て、現場で

時間を無駄にしても早く着く事を心掛けていた。ただ、サッチャン

はそれよりも更に先に着ていた。彼女に切符を渡して、

「元気そうだね。」

そう言うと、彼女は恥ずかしそうに小さく頷いた。

 東京駅をゆっくりと離れていく新幹線から、三日前に訪れた秋葉

原が見えた。私はノートパソコンを新しく買い換える為にそこに行

った。そして凄惨な事件があった現場を通って、ある画家の画集を

捜す為に神田の古書街まで歩いた。社会からはじき出された私が

無差別殺人の実行犯に選ばれたとしても何の不思議は無かった。

私の抱えていた絶望は「社会の安楽な生き方」を手引きにしていれ

ば簡単に炎上したに違いなかった。ただ私は私を捨てた社会を捨て

てもいいと思った。私はマニュアルを破り捨て「自分だけの生き方」

を模索していた。そんな時に出会ったのがフリードリヒだった。も

しも影響を受けた画家を一人挙げろと言われたら、迷わずにフリー

ドリヒだと言う。絵画を言葉で説明することほど野暮な事は無いが

、彼の絵を見た時キャンバスの外に何か重大なことが隠されている

のではないかと強い苛立ちを覚えた。それは神の存在だった。彼の

絵とは神が不在の宗教画だった。そしてそれは自分が失ってしまっ

た生きる目的と重なった。ペシミスチックな静謐が支配する世界は

愛や希望などという嘘は自らの羞恥心によって色を失い、ただ実存

という永遠だけが残された。遂に我々は自分達だけでこの世界を生

きなくてはならない。ただ生きる為に睡眠不足のまま通勤したり、

溜まった食器を洗ったり、しつこい新聞の勧誘を断ったり、気の乗

らない仕事を果たさなければならない。やがて自分自身を見失った

まま自分の身体を失ってしまうのだ。人が生きる理由とは何と嘘っ

ぽいことだろう。それに比べて死ぬ為の理由は幾らでも用意できる

。我々は理由が在って死ぬことが出来ても、理由が在って生きるこ

となど出来ないのだ。しかし、僅かばかりでも我々が救いを見出せ

るとすれば、それはこの絶望的な自然の美しさである。まるで神々

は姿を変えて木々に宿っているかのようだ。フリードリヒは神を描

かないことで神を暗示し、そして同時に神の不在をも描いているのだ。

                                         (つづく)

(百四)改

2012-07-11 08:29:08 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(百一)
            (百四)改



 小林秀雄は著作「当麻」の中で、「美しい『花』がある、『花』

の美しさといふ様なものはない」と言っている。当然「花」が存在

しな ければその「美しさ」といふ様なものはない。実存論的に言う

なら「『花』は『美しさといふ様なもの』に先行する」のだ。一方

で「花」は美しさの象徴のようにも言われる。しかし花を「美しさ」

の象徴にしたのは人間の主観であって、もとより「花」の与(あず

か)るところではない。従って花の「美しさ」とは人が創り出した

観念である。そうでなければ画家も困ってしまう。「花」を巧みに

描写すれば美しい絵ということになって、それこそ「近代絵画」な

ど生まれなかった。抽象絵画はただのヘタな絵になってしまう。さ

らに近代の画家達は象徴としての「花」を棄て「美しさ」そのもの

を、つまり自分の感性を描こうとしている。ただ、何れの現代絵画

も独創的ではあるが、観る者からすればどれも独尊的で着いていけ

ない。「美しさ」そのものなどないのだ。「美しさ」とは相対から

しか生まれて来ない。
 
 さらに小林秀雄は別の著作でゴッホの絵の複製を見て、「その前

にしゃがみこんでしまった」というほど愕然としたが、後日オラン

ダへ行って期待して本物を観たらそれほど感動しなかった、いや複

製の方が良かったとさえ書いている。「美しさ」とはそれを観る人

の主観によって異なり、人の感性とは実に気紛れですぐに飽きてし

まう。画家を目指す私がこんなことを言っては可笑しいが、感性な

どと言う訳の解らないものに騙されてはいけない。移ろい易い美意

識などに惑わされるな。ただ、「これが私だ」と自らの本能とまで

化した感性こそが、人の心にこの世に在らざる「美しさ」を甦らせ

るのだ。つまり「美しさ」とは「花」に在るのではなく人が創るの

だ。

 「『花』の美しさといふ様なものはない」とすれば、「『暮らし』

の豊かさといふ様なものもない」のかもしれない。我々は「豊かさ」

ばかり追い求めて『暮らし』そのものを見失ってしまったのではな

いだろうか。『暮らし』は確かに便利になって憂ざい生活から解放

されたが、一方で『暮らし』を通した人との繋がりが薄れ、家族や

友人、或いは地域の『暮らし』が失われ、「豊かさ」が日常化して

憂ざい『暮らし』だけが残されて、そしてその憂ざい『暮らし』を

賄う為に憂ざい仕事をして、この憂ざい生活から逃げ出す為に「豊

かさ」を追い求める。つまり「豊かさ」も「美しさ」と同じに相対

的であるとすれば、我々は「豊かさ」ばかり追い求めて『暮らし』

を見失い、『暮らし』を見失うことで自らの「豊かさ」も実感でき

なくなってしまったのではないだろうか。

 人の「豊かさ」とはそれぞれ異なっている筈だが、世界の「豊か

さ」は経済的価値によって一元化されてしまった。今や誰もが「豊

かさ」を金額で計るようになってしまったが、経済価値で判断する

という事は、自分がどう考えるかではなく社会的価値で自分の生き

方や幸福を判断していることになる。ジャン・ジャック・ルソーは

「社会に生きる人は、常に自分の外にあり、他人の意見の中でしか

生きられない」と残している。もはや世界中の「豊かさ」とはいず

れも画一的な「貧しい」ものになってしまった。ニューヨークで暮

らすアメリカ人のセレブが求める「豊かさ」も、広島県三次市三良

坂町で暮らす老人が求める「豊かさ」も、アフリカ大陸のカラハリ

砂漠で暮らすコイコイ人(ホッテントット)が求める「豊かさ」も

同じなのだ。我々は68億人で同じ「豊かさ」を奪い合っている。

しかし、そもそも「豊かさ」とは誰が享受するのだろうか。つまり、

我々が追い求める「豊かさ」とは、自分自身が求める「豊かさ」で

はなく社会に誇示する為の「豊かさ」なのだ。社会の「豊かさ」に

自分を委ねるということは自分自身を失うことだ。自分自身を捨て

て手に入れた「豊かさ」とは、果たして自分自身の「豊かさ」とい

えるだろうか。我々は社会の「豊かさ」に手を伸ばした時にそれま

で手にしていた『暮らし』を手放してしまったのだ。好奇心を圧し

て興味のないことを記憶させられ、自分自身の可能性よりも不可能

性を信じて夢を諦め、それではと老後に夢を託して遣り甲斐のない

仕事に仕方なく仕え、不本意な競争に巻き込まれて相手を恨み、他

人を蔑むことで自分を護り、人質に捕られた家族の為に逃げ出すこ

とさえ出来ず、それでもやがては自分が隷属する肩書きを誇示して、

それを持たない人たちを侮蔑するようになる。手にした「豊かさ」

は何時も自分自身の外にあって、人々の反応でしか自らの「豊かさ」

が実感出来ない。そうして自分を捨ててまで社会の「豊かさ」に委

ねた人生は期待通りに報われたのだろうか。我々は世界第二位の経

済大国に見合った酷使に耐えたが、それに報いる「豊かさ」を手に

したのだろうか。経済成長を支えた人々は果たして豊かな老後を過

ごしてるのだろうか。社会の『暮らし』の為に納められた血税が、

権力者の「豊かさ」の為に使われて来なかっただろうか。我々が手

にするはずの「豊かさ」が、五十年以上掛かっても完成しないダム

を造って埋めることに使われていないだろうか。それでは政治家は

これまで「お粥をすすって」きたと言えるだろうか。我々のサービ

ス残業が愛人の口座へ間違わずに振り込まれていないだろうか。我

々はただ黙って見て見ぬ振りをしていなかっただろうか。おかしな

ことを「おかしい」と言ってきただろうか。

 かつて「不経済」だと諌めて節約を強いたこの国の美徳も、「穴

を掘って埋めるだけでも経済効果がある」と説く経済学によって穴

の中に埋められてしまった。それでは何も行わず「穴を掘って埋め

たことにして『金を払って』も経済効果がある」ことになるではな

いか。「消費は美徳だ」というのは貨幣経済だけを重んじた全体を

見ない考え方である。貨幣経済とはマーケットのレジを通さなけれ

ば生まれない。しかし、マーケットのレジを通っていないが人間に

とって価値のあるものは幾らだってある。我々の経済学は、上流と

下流の間にある貯水池の水位を計るだけの学問なのだ。上流の水が

もたらされる水源のことも、下流へ垂れ流される汚水のことも専門

外なのだ。マーケットのレジを通っていない無尽蔵に在る資源と、

「豊かさ」とは消費だと思っている人々の無駄で成り立っている。

しかし、資源の枯渇が危ぶまれ、温暖化が叫ばれてエネルギーの節

約を強いられる時代の経済は軸が正反対に転換した。これまでのよ

うに電気が水道の蛇口を捻る様に流れてくる時代は残念ながら終わ

った。すでに水源は衰え貯水池は底が覗けるまでに枯渇した。もは

や社会の外にはただ「山」があるだけだ。「節約は美徳だ」の「不」

経済学の時代が始まったのだ。

 小林秀雄はその前段で世阿弥の次の言葉を引用してしている。

「物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬところを知るべし」

世阿弥のこの言葉はまるで日本美術の神髄を語っている。さらに現

代の日本のモノ創りの精神そのものではないか。我々は室町時代よ

り現実的な概念と簡潔な美意識を持ち合わせていた。例えば西洋絵

画は背景までも写実して世界を切取ったが、日本画は対象に世界を

見て無駄を排し背景までも捨て去った。宗教の違いと言ってしまえ

ばそれまでだが、対象を抽象化する意識はすでに室町文化にあった。

工夫を凝らして無駄を省けば「美」は失われない。「美しさ」とは

この世に在らざるものの如くでなければならないが、しかし、絵が

仮想の世界であれば、そこで如何にこの世に在らざるものを表現し

ても所詮は絵空事に過ぎない。現(うつつ)にしっかりと足を据え

なければ「美」への階段を踏み外す。突然「美しさ」そのもの世界

へ招かれても「花」が頭を離れない。豊かな『暮らし』はあっても、

『暮らし』の豊かさなど無い。

 「不」経済学の時代とはモノから人への転換の時代だ。我々は清

貧に耐えて新しい時代を産まなければならない。モノを変えられな

ければ人が変わるしかない。我が国には古(いにしえ)より貧困を

豊かに暮らす知恵があった。自己を捨てて社会の価値に従う暮らし

を貧しい「豊かさ」と言うなら、豊かな「貧しさ」とは自己を失わ

ず無駄なものを捨て去ることである。何故なら無駄は進化を阻むか

らだ。これからは我々が新しくならなければ次の時代は拓け無いの

ではないだろうか。

                                  (つづく)

(百五)

2012-07-11 08:28:04 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(百一)
                    (百五)



「どうしたの、まずい?」

「あっ、ごめん!んんーん、美味しいよ」

サッチャンは早起きして二人分の弁当を作って来てくれた。私は駅

の売店で買った缶ビールの一つを彼女に渡してからひと口流し込ん

で、彼女が作ってくれた彩りのある弁当を褒めて、結びの次に存在

感のある鮮やかな黄色の厚焼き玉子を口に入れた。窓の景色は見ら

れることを拒むかのように高速でスクロールされていた。口に入れ

た玉子焼きに少し違和感を覚えた。食べ親しんだものと違って癖が

残った。新幹線はあっという間に東京を離れてしまった。玉子焼き

というのはどうして家庭によって味付けが違うのだろう。いや、ひょ

っとして味付けではなく、それぞれのスーパーが仕入れる鶏卵業者

の飼育の違いが微妙な味の違いになっているのではないのだろう

か。そんなことを思いながら窓の景色を追っていたら食べることを

忘れて考え事をしてしまった。私は慌てて咀嚼して飲み込み、「うま

い!」と言ってから追うように結びを頬張った。春の空は雲一つなく

、まるでホームレスが作ったテント小屋の中から見上げるブルーシ

ートのように青かった。いや、やっぱり飼育の仕方なんてどこも同じ

だよ、きっと。二切れ目の玉子焼きを口にしたときにはもう何も気に

ならなかった。

 ひとたび春が訪れても、「春は名のみの風の寒さや」と歌われるよ

うに、そうは言っても日ごとに勢いを増す陽射しが車窓から飛び込ん

で来て車内のいたる所で反射を繰り返していた。都心ではビルに遮

られて光と影がはっきりと分けられいたが、東京を過ぎた辺りから車

内に閉じ込められた光線が陰になっていた隅にも届くようになった。

ほぼ満席の車内はその明るさと暖かさに促されて和みはじめ、やが

てあちこちから会話が聞こえてきた。そしてその内容から日常を逃れ

た人々の言い訳がましい歓びが伝わってきた。窓越しの空は雲一つ

無い青空で、まるで冬の重たい雲ばかり描いていた画家が春の雲の

描き方が判らずに途中で投げてしまったキャンパスのようで、その物

足り無さが東京を逃れた乗客たちの緊張を解したのかもしれない。

空は、ただポカンとしていた。どこの座席からか中年女性の大きな笑

い声が聞こえてきた。ポカンとした春の空と屈託のない女性の笑い声

が妙に調和していた。私は笑いを堪えて顔を車窓に近づけ、ブルーシ

ート色した東京の空の記憶を拭い去る為に、何度も本当の空の青さを

確かめた。

「気を付けていてもどうしても間違っちゃうんだよ」

「シャンプーとリンスを一緒に買わないからよ」

「えっ、一緒に無くなるの?」

「だって同じ量を一緒に使えば大体一緒に無くなるじゃない」

「リンスなんて滅多に使わないからな」

「あっ、そうなの、男の人って?」

「いやっ、僕だけかもしれない」

私はサッチャンが作ってきた弁当を平らげて、その前に飲み干した

ビールの酔いも手伝って、中年女性に負けない位に周りを気にせず

に話していた。サッチャンは信じられない位ゆっくりとまだ弁当を

食べていた。折角食べやすい様に結んだおにぎりをわざわざ箸で崩

してから口に運ぶ量の少なさに、作ってきた本人に対して思わず、

「どうしたの、まずい?」と聞くところだった。

 どういう経緯からシャンプーの話しになったのか忘れてしまった

が、自分はシャンプーを買いに行って何度も間違ってリンスを買っ

てしまうことを話した。そうなんだ、事実僕の部屋には間違って買

わされたリンスが5つも置いてある。詰め替え用のパッケージの表

示が小さくてほとんど見分けがつかなくて、二度間違った後からド

ラッグストアで細心の注意を払って、間違う客が多いのだろう、バ

ス製品のコーナーに大きな字でシャンプーと書かれた棚を何度も確

かめてシャンプーを手に取り、ミッションをクリアした安堵感から

部屋に帰ってから安易にシャンプーの容器に移し変えてしまい、そ

れでもリンスだとは努々(ゆめゆめ)気付かずに、頭に擦り付けて

も泡立たないことに失意が蘇り、豈(あ)に図らんや、三度までも

騙された恨みに、頭を抱えたまましばらく動けなかった。その時に

私は、これはメーカーの策略だ、と感づいた。事実、容器に残って

いたシャンプーは使えなくなるわ、シャンプーの容器に入れたリン

スもダメになって、実際もう一度シャンプーを買わなくちゃならな

い。呆然と立ち尽くしたまま頭を洗って出直すことさえ出来なかっ

た。ただ、あれほど慎重に確かめたのに、何故リンスを手にしてし

まったのか。他の客が間違って戻したのだろうか。それとも販売店

もメーカーの販戦を渡りに船とばかりに乗っかって、十個に一個は

リンスを紛れ込ませているのかもしれない。リンスを使わない者に

、置いていても仕方が無いから、とリンスを使う習慣を定着させる

ことが狙いなのだ。それならそれで、もうシャンプーやリンスの表

示を止めて、いっそ同じ棚に一緒に並べて「当たり」と「外れ」に改

めてくれた方が気分が納得する。そうでなければ、何故メーカー

はシャンプーとリンスの違いを一目で判るようなパッケージにしな

いのだろうか。ただそれ以来、私はどんなことがあってもリンスを

使わないぞ、洗剤メーカーの販売戦略に引っ掛らないぞと固く誓

ったのはいいが、それからも間違い続けている始末だ。

「日本中の浴室には間違って買われたリンスが必ず置いてあって、

それが洗剤メーカーの大きな売り上げになっているんだよ、きっと」

「へへへっ・・・」

あっ、今のはサッチャンの笑い声だよ。

  殺風景な駅のホームに何度か停車して、車内は幾分空いてきた。

軽くなった電車は更に軽快に疾走した。それは羽根さえあれば地上

を離れて大気圏外へも飛び出してしまいそうに思えた。中年女性の

笑い声は相変わらず聞こえてきた。サッチャンは、やっと弁当を食

べ終えて、話しが途切れ出したらカバンからi-podを取り出した。

「何を聴いているの?それ」

「へへへッ」

「自分の曲?」

彼女はヒット曲もある歴っきとしたミュージシャンなのだ。

「違う、ビバルディ」

「ビッ、ビッ、ビバルディー」

彼女はそのイヤホーンを私の耳に近づけてスイッチを入れた。ビバ

ルディの「四季」の第一楽章「春」が始まりだした。私は人気作家

のように曲を聴いただけで誰の演奏か言い当てることなど出来ない

が、ビバルディの「四季」だけは分かった。

「ねっ!いい曲でしょ」

「どうしたの、もう歌わないの?」

「んんっ・・・。」

サッチャンは少し間をおいて、

「実は、この曲に歌詩を付けようと思ったの」

「うん」

「でもどうしてもダメだった」

彼女は続けた、

「もしかして、いい曲というのは歌なんて要らなんじゃないのかな

って」

「うん」

「で、歌詩が作れなくなっちゃった。」

「ふーん」

サッチャンは詩が作れなくって苦しんでいたが、それは彼女の恋愛

と深く絡んでそうなのでそれ以上聞くのを止めた。バロックに会い

たいという思いも恐らくその辺りにありそうだ。ただ、サッチャン

はイヤホーンをするなりビバルディなど聴く間もなくすぐに眠って

しまった。彼女は「歌は思えど 時にあらずと」寝息を立てていた。

 北国の春はまだ名ばかりだった。

                                  (つづく)