(百四)改
小林秀雄は著作「当麻」の中で、「美しい『花』がある、『花』
の美しさといふ様なものはない」と言っている。当然「花」が存在
しな ければその「美しさ」といふ様なものはない。実存論的に言う
なら「『花』は『美しさといふ様なもの』に先行する」のだ。一方
で「花」は美しさの象徴のようにも言われる。しかし花を「美しさ」
の象徴にしたのは人間の主観であって、もとより「花」の与(あず
か)るところではない。従って花の「美しさ」とは人が創り出した
観念である。そうでなければ画家も困ってしまう。「花」を巧みに
描写すれば美しい絵ということになって、それこそ「近代絵画」な
ど生まれなかった。抽象絵画はただのヘタな絵になってしまう。さ
らに近代の画家達は象徴としての「花」を棄て「美しさ」そのもの
を、つまり自分の感性を描こうとしている。ただ、何れの現代絵画
も独創的ではあるが、観る者からすればどれも独尊的で着いていけ
ない。「美しさ」そのものなどないのだ。「美しさ」とは相対から
しか生まれて来ない。
さらに小林秀雄は別の著作でゴッホの絵の複製を見て、「その前
にしゃがみこんでしまった」というほど愕然としたが、後日オラン
ダへ行って期待して本物を観たらそれほど感動しなかった、いや複
製の方が良かったとさえ書いている。「美しさ」とはそれを観る人
の主観によって異なり、人の感性とは実に気紛れですぐに飽きてし
まう。画家を目指す私がこんなことを言っては可笑しいが、感性な
どと言う訳の解らないものに騙されてはいけない。移ろい易い美意
識などに惑わされるな。ただ、「これが私だ」と自らの本能とまで
化した感性こそが、人の心にこの世に在らざる「美しさ」を甦らせ
るのだ。つまり「美しさ」とは「花」に在るのではなく人が創るの
だ。
「『花』の美しさといふ様なものはない」とすれば、「『暮らし』
の豊かさといふ様なものもない」のかもしれない。我々は「豊かさ」
ばかり追い求めて『暮らし』そのものを見失ってしまったのではな
いだろうか。『暮らし』は確かに便利になって憂ざい生活から解放
されたが、一方で『暮らし』を通した人との繋がりが薄れ、家族や
友人、或いは地域の『暮らし』が失われ、「豊かさ」が日常化して
憂ざい『暮らし』だけが残されて、そしてその憂ざい『暮らし』を
賄う為に憂ざい仕事をして、この憂ざい生活から逃げ出す為に「豊
かさ」を追い求める。つまり「豊かさ」も「美しさ」と同じに相対
的であるとすれば、我々は「豊かさ」ばかり追い求めて『暮らし』
を見失い、『暮らし』を見失うことで自らの「豊かさ」も実感でき
なくなってしまったのではないだろうか。
人の「豊かさ」とはそれぞれ異なっている筈だが、世界の「豊か
さ」は経済的価値によって一元化されてしまった。今や誰もが「豊
かさ」を金額で計るようになってしまったが、経済価値で判断する
という事は、自分がどう考えるかではなく社会的価値で自分の生き
方や幸福を判断していることになる。ジャン・ジャック・ルソーは
「社会に生きる人は、常に自分の外にあり、他人の意見の中でしか
生きられない」と残している。もはや世界中の「豊かさ」とはいず
れも画一的な「貧しい」ものになってしまった。ニューヨークで暮
らすアメリカ人のセレブが求める「豊かさ」も、広島県三次市三良
坂町で暮らす老人が求める「豊かさ」も、アフリカ大陸のカラハリ
砂漠で暮らすコイコイ人(ホッテントット)が求める「豊かさ」も
同じなのだ。我々は68億人で同じ「豊かさ」を奪い合っている。
しかし、そもそも「豊かさ」とは誰が享受するのだろうか。つまり、
我々が追い求める「豊かさ」とは、自分自身が求める「豊かさ」で
はなく社会に誇示する為の「豊かさ」なのだ。社会の「豊かさ」に
自分を委ねるということは自分自身を失うことだ。自分自身を捨て
て手に入れた「豊かさ」とは、果たして自分自身の「豊かさ」とい
えるだろうか。我々は社会の「豊かさ」に手を伸ばした時にそれま
で手にしていた『暮らし』を手放してしまったのだ。好奇心を圧し
て興味のないことを記憶させられ、自分自身の可能性よりも不可能
性を信じて夢を諦め、それではと老後に夢を託して遣り甲斐のない
仕事に仕方なく仕え、不本意な競争に巻き込まれて相手を恨み、他
人を蔑むことで自分を護り、人質に捕られた家族の為に逃げ出すこ
とさえ出来ず、それでもやがては自分が隷属する肩書きを誇示して、
それを持たない人たちを侮蔑するようになる。手にした「豊かさ」
は何時も自分自身の外にあって、人々の反応でしか自らの「豊かさ」
が実感出来ない。そうして自分を捨ててまで社会の「豊かさ」に委
ねた人生は期待通りに報われたのだろうか。我々は世界第二位の経
済大国に見合った酷使に耐えたが、それに報いる「豊かさ」を手に
したのだろうか。経済成長を支えた人々は果たして豊かな老後を過
ごしてるのだろうか。社会の『暮らし』の為に納められた血税が、
権力者の「豊かさ」の為に使われて来なかっただろうか。我々が手
にするはずの「豊かさ」が、五十年以上掛かっても完成しないダム
を造って埋めることに使われていないだろうか。それでは政治家は
これまで「お粥をすすって」きたと言えるだろうか。我々のサービ
ス残業が愛人の口座へ間違わずに振り込まれていないだろうか。我
々はただ黙って見て見ぬ振りをしていなかっただろうか。おかしな
ことを「おかしい」と言ってきただろうか。
かつて「不経済」だと諌めて節約を強いたこの国の美徳も、「穴
を掘って埋めるだけでも経済効果がある」と説く経済学によって穴
の中に埋められてしまった。それでは何も行わず「穴を掘って埋め
たことにして『金を払って』も経済効果がある」ことになるではな
いか。「消費は美徳だ」というのは貨幣経済だけを重んじた全体を
見ない考え方である。貨幣経済とはマーケットのレジを通さなけれ
ば生まれない。しかし、マーケットのレジを通っていないが人間に
とって価値のあるものは幾らだってある。我々の経済学は、上流と
下流の間にある貯水池の水位を計るだけの学問なのだ。上流の水が
もたらされる水源のことも、下流へ垂れ流される汚水のことも専門
外なのだ。マーケットのレジを通っていない無尽蔵に在る資源と、
「豊かさ」とは消費だと思っている人々の無駄で成り立っている。
しかし、資源の枯渇が危ぶまれ、温暖化が叫ばれてエネルギーの節
約を強いられる時代の経済は軸が正反対に転換した。これまでのよ
うに電気が水道の蛇口を捻る様に流れてくる時代は残念ながら終わ
った。すでに水源は衰え貯水池は底が覗けるまでに枯渇した。もは
や社会の外にはただ「山」があるだけだ。「節約は美徳だ」の「不」
経済学の時代が始まったのだ。
小林秀雄はその前段で世阿弥の次の言葉を引用してしている。
「物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬところを知るべし」
世阿弥のこの言葉はまるで日本美術の神髄を語っている。さらに現
代の日本のモノ創りの精神そのものではないか。我々は室町時代よ
り現実的な概念と簡潔な美意識を持ち合わせていた。例えば西洋絵
画は背景までも写実して世界を切取ったが、日本画は対象に世界を
見て無駄を排し背景までも捨て去った。宗教の違いと言ってしまえ
ばそれまでだが、対象を抽象化する意識はすでに室町文化にあった。
工夫を凝らして無駄を省けば「美」は失われない。「美しさ」とは
この世に在らざるものの如くでなければならないが、しかし、絵が
仮想の世界であれば、そこで如何にこの世に在らざるものを表現し
ても所詮は絵空事に過ぎない。現(うつつ)にしっかりと足を据え
なければ「美」への階段を踏み外す。突然「美しさ」そのもの世界
へ招かれても「花」が頭を離れない。豊かな『暮らし』はあっても、
『暮らし』の豊かさなど無い。
「不」経済学の時代とはモノから人への転換の時代だ。我々は清
貧に耐えて新しい時代を産まなければならない。モノを変えられな
ければ人が変わるしかない。我が国には古(いにしえ)より貧困を
豊かに暮らす知恵があった。自己を捨てて社会の価値に従う暮らし
を貧しい「豊かさ」と言うなら、豊かな「貧しさ」とは自己を失わ
ず無駄なものを捨て去ることである。何故なら無駄は進化を阻むか
らだ。これからは我々が新しくならなければ次の時代は拓け無いの
ではないだろうか。
(つづく)