「時間って何?」

2021-06-30 07:54:43 | 「二元論」

          「時間って何?」

 

 ハイデガーは自著「存在と時間」で「存在とは時間である」と言

ったが、私はどうしても了解できなくて未だその先へ進めないでい

る。これまでに自分なりに色々と考えてみたが、まだ納得のいく結

論を掴みきれていない。それでも結構「時間」そのものについての

認識は深まったと思っている。たとえば、世界が何もない「無」で

あるとすれば、「時間」もまた「無」であるに違いない。つまり何

も無い世界では当然「時間」すらも無い。この考えは「存在と時間

」の関係の拠り所であると思える。では、それとは逆に「時間」だ

けがあって何も存在しない世界を思い浮かべてみれば、それは永遠

に変化しない世界に違いない。だとすれば、「時間」とは「存在」

の変化を現わす概念であり、存在の変化の無いところでは時間の概

念も生れない。これは微小な「存在」である素粒子を扱う量子力学

の分野においても、物理学者カルロ・ロヴェッリは「時間は存在し

ない」と言っている。つまり、世界は存在し、存在は変化し、変化

が時間を生むとすれば、「存在とは時間なのだ」。

 さて、その書き出しは「簡単な事実から始めよう。時間の流れは

、山では速く、低地では遅い。」とあり、つまり山の上よりも地球

の質量の中心に近い低地の方が「時間」が遅くなると言います。こ

れは、「物体は、周囲の時間を減速させる。地球は巨大な質量を持

つ物体なので、そのまわりの時間の速度は遅くなる。」からで、物

体すなわち存在が時間を歪めると言うのですが、またこれ以外にも

アインシュタインの特殊相対性理論によって「ウラシマ効果」とし

て広く知られている、動いている時の方が静止している時よりも時

間がゆっくり進むことが確かめられている。これらの「存在と時間」

の関係に驚かされるのは、われわれが理解している時間の常識、そ

れはもっぱらニュートン物理学がもたらした「事物(存在)とはまった

く無関係に流れる絶対時間の概念」によるのだが、どういうことか

と言えば、もしも存在が無かったとしてもただ時間だけは規則的に

流れる世界で、しかし世界が果たして存在するだろうか。だとすれ

ば、「今この時」という瞬間は世界全体、或いは宇宙全体が同じ瞬

間を共有することができるというのは幻想であり、時間とは場所に

よって、或いは状況によって異なる相対的概念にほかならない。つ

まり、「宇宙全体で定義できる“ 同じ瞬間 ”なんて存在しないのだか

ら」(カルロ・ロヴェッリ著『時間は存在しない』)。もっと分かり易

いことは、そんなことは誰もが知っていることですが、新年の始ま

りを告げる「初日の出」の時刻は見る場所によって異なる。ついでに

参考までに、「わたしたち人間に識別できるのはかろうじて10分の

1秒くらいで、これなら地球全体が一つの泡(範囲)に含まれることに

なり、そこではみんながある瞬間を共有しているように、現在につい

て語ることができる。だが、それより遠くには、『現在』はない。」

(同書より)

 物理学者カルロ・ロヴェッリは「宇宙全体で定義できる“ 同じ瞬

間 ”なんて存在しない」と言う。だとすれば、〈存在〉が現われる

前に時間だけが刻々と流れる世界というのは、それは科学者ニュー

トンが主張した絶対時間のことだが、あり得ないことになり、時間

は存在のあとから派生したことになる。では、時間はなぜ存在のあ

とから派生したのかといえば、存在が変化するからである。そして

、存在の変化はいったい誰が認識するのかと言えば、客観な視点か

ら世界の変化を観察することができるのは人間以外に存在しない。

つまり、「時間」とは存在の変化を記号化した人間によって作られ

、人間だけが認識する概念である。そして「存在とは時間である」

(ハイデガー)とすれば、時間とは変化を表す変数であるから、「存

在とは変化である」ということになり、存在の変化とは「生成」の

ことにほかならないので、「存在とは生成である」ということにな

る。つまり、ハイデガーが「存在とは時間である」と言うのは「存

在とは生成である」と言っていることと同じなのだ。

ところで、カルロ・ロヴェッリは、そもそも共通する「現在」と

いう瞬間は起こり得ないと言う。それは「時間の流れは、山では速

く、低地では遅い」、或は「動いている時の方が静止している時よ

りも時間がゆっくり進む」とすれば、物体の重力に影響される時間

は、厳密に言えば違う場所との同時性は起こり得ない。ただ、その

誤差は無視できる範囲なのでわれわれは瞬間を共有していると思い

込んでいるだけであると言うのだ。おおよそ地球規模の範囲内であ

れば「現在」を共有することができるが、しかし、たとえば約四光

年離れた太陽系外の恒星の回りを公転する惑星とはもはや離れ過ぎ

ていて地球上の「今」を共有することはできない。地球上の我々が

「今」と言った時にその言葉が惑星に届くまでに光速で四年掛かり

、そしてその惑星からの返信にも四年掛かり、我々が惑星からの「

今」を受信するのは八年後になる。こうして、「宇宙全体で定義で

きる“同じ瞬間 ”なんて存在しない」(カルロ・ロヴェッリ)のであれ

ば、つまり、共通の「現在」が定義できないとすれば、当然「現在

」を起点とする過去も未来も存在しないことにならないだろうか?

「その通り!」

アインシュタインもこう言ってます、

「わたしたちのように物理を信じている者にとって、過去と現在と

未来の違いはしつこく続く幻でしかありません」と。

 またカルロ・ロヴェッリも、彼は人間が知り得る限りの最小単位

の物質である量子の研究者ですが、「事物のミクロな状況を観察す

ると、過去と未来の違いは消えてしまう」と言い、そして「過去と

未来が違うのは、ひとえにこの世界を見ているわたしたち自身の視

界が曖昧だからである。」と言う。つまり、時間とはわれわれ人間

が勝手に創り出した概念であって、誕生以来無限に広がる宇宙空間

に絶対的な時間が流れているなどということはありえない。だとす

れば、ハイデガーの言う「存在とは時間である」という定義も、人

間の「時間性」の下で了解された《存在》が時間へと転換される、

ということになる。そもそも時間とはニュートンが唱えるように宇

宙空間に脈々と流れているものだという固定観念がわざわいして、

「存在とは時間である」がなかなか理解できなかったが、どうにか

時間化した人間の仲介によって転換されることが理解できた。つま

り、それは、あくまでも『人間にとって』「存在とは時間である」

ということなのだ。

カルロ・ロヴェッリはわれわれの「視界の曖昧さ」をこう言います、

「わたしたちに見えているコップの中の水は、月面の宇宙飛行士に

見えていた地球のように青く静かに輝いている。月からは、植物や

動物といった地球上の生物のあふれんばかりの活動も欲も絶望も、

いっさい見えない。あちこちに斑点のある青い球が見えるだけだ。

同じように、光を反射しているコップの水のなかでも、じつは無数

の分子、地球上の生命よりはるかに多い分子が騒々しく活動してい

る。」(太字は筆者)と。つまり、われわれの生存本能に規定された

視力とは当然のことながら実用に則した手段であって、その対象物

が水の入ったコップだったとすれば、コップの中で騒々しく活動す

る無数の水の分子までも見透すことはできない、もちろんその必要

がないからだ。われわれが認識する世界と科学者が追い求める真理

には大きな隔たりがある。カルロ・ロヴェッリが観察する「騒々し

く活動する」水の一分子がやがて気化し上昇して対流圏にまで達し

てすぐに凝縮し、再び雨になって地上に落ちて来て、元のコップが

あった家のある街一帯を押し流すほどの洪水になって戻って来たと

しても、その水の一分子が辿った「時間」と、そして洪水に怯えな

がらひたすら過ぎ去ることを願う人々の「時間」とは何の繋がりも

ない。

 


「あほリズム」(838)

2021-06-25 00:40:22 | アフォリズム(箴言)ではありません

     「あほリズム」

 

      (838)

 

 コロナ禍の下でのオリンピックへの関心は、誰もが楽しみにして

いる競技の「観戦」とはべつに、誰もが怖れているコロナウイルス

の「感染」にも向けられる。

 そして、「観戦」よりも「感染」への関心が勝ればオリンピック

は失敗する。


「コロナ五輪」

2021-06-20 09:12:36 | 従って、本来の「ブログ」

  「コロナ五輪」

 

 連日ニュースは「コロナ五輪」のことばかりでうんざりしています

が、ひとつ気になったニュースがありましたので、これもまた「コロ

ナ五輪」関連ですが、朝日新聞デジタルより、

ウガンダ選手団、PCR検査1人陽性 成田空港で判明」2021/06/20 00:41

要点だけを述べると、                         「東京五輪・パラリンピックに出場する東アフリカ・ウガンダの選手団9人が19日夕、成田空港に到着して、このうちの1人が、空港での新型コロナウイルスのPCR検査で陽性だったことがわかった。彼らは全員が出国前にアストラゼネカ社製ワクチンを2回接種、出国96時間以内に2回のPCR検査を受け陰性証明書を持っていた。選手団は19日午後6時すぎ、一般客約80人が降りた後、マスク姿で1列になって到着ゲートに姿を見せた。その後、空港検疫で唾液による抗原検査を受けたが1人は結果が出なかったためPCR検査を受けたところ陽性だとわかった。残りの選手らは20日未明、事前合宿地の大阪府泉佐野市へ夜行の貸し切りバスで移動を始めた。」

さて、ここにはいくつかの問題点があります。まず、アストラゼネ

カ社製ワクチンの有効性の懐疑、そして参加国が発行する陰性証明

書の信頼性、そして何よりも信じ難いのは主催国であるわが国が行

った水際対策である。そもそも「濃厚接触者」の定義は、 ①患者と

同居、あるいは長時間の接触(車内・航空機など)があった人、②

患者と1メートル以内の距離で、必要な感染予防策(マスクなど)なし

で15分以上接触があった人(国立感染症研究所「積的疫学調査実

要領」より)のことで、ウガンダ選手団は「陽性者」との長時間の

接触(車内・航空など)があったことは間違いなく、ただ「陽性

者」が「患者」つまり感染者かどうかだけで、だとすれば、濃厚接

触者は2週間隔離して健康観察が求められるはずだが、「残りの選

手らは20日未明、事前合宿地の大阪府泉佐野市へ夜行の貸し切り

バスで移動を始めた。」とある。更に、彼らはチャーター機ではな

一般客約80が同乗する民間機で来日している。調べてみれば

ウガンダのエンテべ国際空港から成田空港までの飛行機による移動

時間は優に24時間を超える。当然密室化した機内での長時間の接

触は避けられない。つまり、同乗していた一般客80人も「濃厚接

触者」に違いない。にもかかわらず彼らは2週間の隔離観察を強い

られたという報道は見当たらない。楽観的なオリンピックムードに

引きずられた科学的根拠の乏しい寛容論に委ねることは「あかんや

つ」やろ。もしもそれが忖度を得意とする役人によるオリンピック

関係者への特別な配慮だとすれば、今後大挙して推しかけてくる関

係者による感染再拡大(リバウンド)は避けられないのではないか。

そうなれば、将に東京五輪は競技者同士の闘いだけではなく、蔓延

化するコロナ禍という厳しい条件下での「コロナ五輪」と呼ぶにふ

さわしい大会になるだろう。


「あほリズム」(837)

2021-06-18 07:43:33 | アフォリズム(箴言)ではありません

         「あほリズム」

 

           (837)

 

 「存在とは何か?」の問いは「存在とは手段か、目的か?」へ

二分化される。もちろん私は自らの存在を手段たらしめる生きる

目的など見い出せていないので、自嘲しながらこう言うしかない、

「生きてるだけで丸儲け」(さんま) と。


「あほリズム」(836)

2021-06-16 07:54:13 | アフォリズム(箴言)ではありません

     「あほリズム」

 

      (836)

 

ところで、生成って何ですか?

んーっ、生成とは「ぢわぢわと」変わるもののことじゃ。

「じわじわと」?

ちがう!「ぢわぢわと」じゃ。

「ぢっ、ぢわぢわと」?

そう、「ぢわぢわと」じゃ。この「ぢわぢわと」こそが生成なんだ。そして

ものごとを固定的にしか捉えられないわれわれの理性は、変化そのものより

もこの「ぢわぢわと」にやられてしまうんじゃ。