仮題「心なき身にもあわれは知られけり」(11)

2022-05-18 05:27:29 | 「第三次世界大戦前夜」

 仮題「心なき身にもあわれは知られけり」

 

             (11)


 ニーチェは、世界の底流を流れるのは「ニヒリズムの歴史」だ

と言い、たとえばキリスト教的二世界論(理想の世界と現実の世界)

は「ニヒリズムの歴史」からの救済にほかならないが、そもそも

形而上学(Meta=physics)思惟は世界を二元化して捉え、真の世

界から捉える現実の世界は仮象の世界に過ぎないので「ヒリズ

ム」に陥らざるを得ないと考えて、そこで、

「われわれはニヒリズムに陥らないために芸術を持っている」

とまで言う。つまり変化する《仮象の世界》を固定化した「真理」

によって捉えようとする形而上学的思惟、つまり《理性》は決して

変化する《存在の意味》を捉えることはできない。

                        (つづく)


仮題「心なき身にもあわれは知られけり」(10)

2022-05-14 14:09:00 | 「死ぬことは文化である」

    仮題「心なき身にもあわれは知られけり」           


           (10)


 ニーチェ=ハイデガーは、「世界(存在)とは何であるか?」と問

うことは、「何であるか?」と問う「人間とは何者であるか?」を

問うことにほかならないと言う。確かに、われわれが世界をどのよ

うに把握するのかはわれわれの能力、つまり形而上学の圏内でしか

把持できない。だとすれば、人間の能力の変化に応じて世界(存在)

に対する認識も変化する。近代人のわれわれは類人猿の頃よりも世

界についてはるかに多くのことを知っている。つまり「世界(存在)

とは何であるか?」という問いに対する答えの変化こそが人間進化

の足跡だと言うことができる。ところで、「人間とは何であるか?」

と問えば、何れ消え去る「仮象」の存在でしかないと答えることがで

きる。すべての生命体にとって逃れることができない「死」は忌むべ

きことにちがいない。「死」に対する想いが「ニヒリズム(虚無主義)」

を誘発するとすれば、「死」から逃れられない人間の歴史とはその底

流に脈々と流れる「ニヒリズム歴史」であると言うことができる。

キリスト教の世界観とは「ニヒリズムの歴史」に対する抗いの歴史に

ほかならない。そして日本では、自らも自死を決した作家蓮田善明が

、ニ十四歳で非業の死を遂げた大津皇子に「死ぬことは文化である」

と語らせた「青春の詩宗―大津皇子論―」は、のちに三島由紀夫にも

大きな影響をあたえた。「死ぬことは文化である」とは、逃れること

の出来ない底流の「ニヒリズムの歴史」の上を流れる清廉たる本流と

しての日本文化のことである。「死」を尊ぶ日本文化は底流を流れる

ニヒリズムの歴史」に漱(すす)がれて穢(けが)れを祓(はら)う。つま

り「死」を誘う「ニヒリズム」とは文化を浄める源流なのだ。                         

                         (つづく)


仮題「心なき身にもあわれは知られけり」

2022-05-08 12:13:28 | 「死ぬことは文化である」

    仮題「心なき身にもあわれは知られけり」           


           (9)


 ニーチェは、「ニヒリズム」を「最高の諸価値が無価値になると

いうこと」と捉え、それは《目的》《統一》《真理》という三つの

《理性のカテゴリー》への信が「ニヒリズム」をもたらす原因であ

ると結論する。

「要するに、われわれが世界に価値を嵌め込むために用いてきた《

目的》、《統一》、《存在》というカテゴリーが、再びわれわれに

よって世界から抜き取られる――すると世界は、価値の相を呈す

ることになる・・・」。

 つまり、われわれは世界(存在)をわれわれにとって《意味(価値)》

のあるものとして認識しようとするが、それは「自分自身を事物の

意味と価値基準として設定すること」にちがいなく、「相も変わら

ず、人間の方もない素朴さである」とニーチェは言う。つまり、

そのような認識は世界を擬人化して歪められた世界(存在)観でしか

ないと言うのだ。つまり、「形而上学は擬人化であり――人間の像

にかたどって世界を造形し直観することである。」

                       (つづく)


仮題「心なき身にもあわれは知られけり」(8)のつづき

2022-05-07 12:27:44 | 「死ぬことは文化である」

     仮題「心なき身にもあわれは知られけり」

 

           (8)のつづき

 さらに、

 『第二節の文言は次の通りである――これら三つのカテゴリー

で世界を解釈することはもはや許されず、この洞察のあとで世界は

われわれにとって無価値となり始めるということを一旦われわれが

認識したときには、われわれはこれらによせるわれわれの信はどこ

から由来するのかと問わざるをえない。これらへの信の廃棄宣言を

することが可能であるまいかと試みてみよう。われわれがこれら三

つのカテゴリーを無価値化してしまえば、それらを万象に適用しえ

ないということが立証されても、それはもはや万象を無価値化する

根拠ではなくなる。結論。理性のカテゴリーへの信がニヒリズムの

原因である。――われわれはまったく虚構された世界に関係するカ

テゴリーを基準にして、世界の価値を測定してきたのだ。

       *

 最終結論。われわれは今までさまざまな価値によって、最初は世

界をわれわれにとって貴重なものたらしめようと試み、最後にはそ

れらが世界に適用されえないことが証明されたとき、同じそれらの

価値によって世界を無価値化するに至ったが、これらすべての価値

は、心理学的に検算してみれば、人間的な支配形象の維持と昂揚の

ための有用性の特定の遠近法的展望の帰結であり、それらが誤って

事物の本質のなかへ投影されただけのことである。自分自身を事物

の意味と価値基準として設定することは、相も変わらず、人間の

方もない素朴さである」。』 

(ハイデガー著「ニーチェ・Ⅱ」平凡社ライブラリー、3ヨーロッパ     p328『新たな価値定立』)