(百四)の余談

2009-12-06 13:20:54 | 赤裸の心




「余談」



 かつて東京の南端の川岸に居た時、下りの次の駅は河を跨いで隣

県になる駅ビルの本屋で、その頃熱烈に傾倒していた小林秀雄のラ

イフワークとも云うべき「本居宣長」の新刊書を、それまでは彼の

文庫本しか買ったことがなかった、平積みされたその新刊書を手に

しては、「否やっぱりこれは難しそうだ」と言っては元へ戻し、そ

れでもどうしても欲しくって戻って来ては手にして、「やっぱり高

いよ」などと思っていると、その店の店長らしき人が、恐らく新人

の店員さんを連れて私の後ろに来てこう言った。

「この本はもっと高く積まないといけないだ、二列で。うるさいん

だよ小林秀雄」

するとその新人の店員は私と同じ疑問を口にした。

「来るんですか小林秀雄」

店長らしき人は空かさず、

「しょっちゅう。こんな所まで見に来るんだよ、それで積まれてい

なかったら文句を言うんだ。家に帰る途中に立ち寄るらしいよ。ほ

ら、家、鎌倉だから」

 私はすぐ後ろで交わされた会話を一言一句覚えている。それが本

当の事なのかどうかは店長らしき人に確かめた訳では無いので何と

も言えないが、ただ、私はその後「本居宣長」の本の前で思案する

ことはなかった。もともと「本居宣長」と云う人物に興味も無かっ

たし、そもそも彼の名前を知ったのは国学者・平田篤胤が夢の中で

彼に膝まずいて対面している絵を見たことがあったからでそれ以上

の知識は無かった。それでも小林秀雄の一面をそんなかたちで知ら

されたことは随分頭から離れなかった。数年後、小林秀雄は亡くな

った。小林秀雄の本を見ると何時もあの時の本屋の店長の言葉を

思い出さずには居れない。

「うるさいんだよ、小林秀雄」

                         (おわり)

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「バッタ物(もん)のチャイナ」

2009-12-06 11:30:20 | 赤裸の心
「バッタ物(もん)のチャイナ」

                  
 「経済の豊かさ」とは「豊かな社会」がなければ成り立たない。

「豊かな社会」とは公平公正が守られた秩序のある共同体である。

共同体とは共生を図る為に存在する。競争を計る為ではない。競い

合うのになぜ共同する必要があるか。社会の中では「共生は競争に

先行する」のだ。我々は何処かで「共生」を「競争」と「言いまつ

がい」してしまったのだ。権力者が力を縦(ほしいまま)にして富

を蓄えても、その行いによって国民に不信が蔓延し社会秩序が乱れ

る。いずれ誰もが利己的になり共生が見捨てられていく。絶望に耐

え切れなくなった者は命を棄てる覚悟で、つまり「自己責任」で、

社会に対する怨嗟を晴らす。そんな社会によって裏書された「豊か

さ」は何れ価値を失うに違いない。大金を掴んで無人島に逃げても

何も役に立たないのだ。当たり前のことだが「社会は経済に先行す

る」のだ。例えば中国は経済発展の渦中にあるが、このまま進めば

経済優先の結果格差が拡がり、遂には不平等や不正が蔓延り秩序が

破綻して、すでにそうなっているが、何れ社会秩序の破綻によって

経済バブルが崩壊するだろう。泡立て器を回し過ぎてバッタ物のチ

ャイナ(陶磁器)が壊われてしまうのだ。彼らは「暮らし」を見失っ

て「豊かさ」だけを追い求めているが、秩序とは「暮らし」の中か

ら生まれてくるのだ。器がなければ泡も立たない。何れ「豊かさ」

は水泡に帰して「暮らし」は新しい器(うつわ)に移し変えられる

だろう。つまり社会体制が転換するのだ。かの著名な経済学者が予

想だにしなかった逆転換が起こるのだ。彼が予言したかどうか知ら

ないが民主主義を伴わない社会主義は成り立たないのだ。ただ、対

岸の火事で済まないのは、泡立て器を手にした中国人のバッタ屋が

この国の器(社会)を求めて大挙跳梁すること気掛かりだ。その時に、

この国の国民は「我々の社会は秩序が経済に優先する」と毅然と退

けることが出来るだろうか。それとも背に腹は代えられないと、この

瀬戸際の経済を掻き回してもらおうと、「跳梁バッタ」に進んで瀬戸物

を差し出すだろうか。圧倒的な人の量と、俄に降って湧いた「豊かさ」

によって、何れ日本を代表する企業が中国人によって買収され、東京

がチャイナタウンになり、領土の一部が(一部だといいが)合法的に占

領される日も近いのかもしれない。つまり、我々がかつて彼らに行った

ように彼らも行うのだ。     (おわり)

 バッタもん・・・「ばった」は、「投げ売り」を意味する古道具商の
          隠語であった。そこから、商品を格安で売る店を
         「バッタ屋」と呼ぶようになり、正規ルートを通さず
          仕入れた商品を売る店も、「バッタ屋」と呼ぶよ
          うになった。
          さらに、「バッタ屋」で売られている物を、「バッタ
          もん」と呼ぶようになり、正規ルートの仕入れ商品
          でないことから、偽物商品や粗悪品なども「バッタ
          もん」と呼ぶようになった。
          古道具商の間で「投げ売り」を「ばった」と呼ぶよう
          になった由来は、バタバタ勢いよく落ちたりするさま
          を表す「ばたばた」「ばったばった」「ばったり」など
          の擬態語からと考えられる。
                               「語源由来典」
                    gen.official-blog.jp/about/より
         
         ちなみに関西では「パッチもん」という言い方が良く使
         われるが、その由来は諸説あってここでは省略します。
                                 ケケロ脱走兵

                                  (おわり)

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