「無題」 (六)―⑨

2012-08-31 07:09:40 | 小説「無題」 (六) ― (十)

           「無題」

            
            (六)―⑨


「もしよかったら、ウチの店に出しませんか?」

そう言って、私は自分の名刺を差し出した。大手のスーパーではな

いが、最近では、ま、あまり有難くないことでニュースにも出たり

して、関東近郊では以前から少しは名前は知られていた。

「はあ・・・」

彼は、しばらくその名刺に眼を落して考え込んでいた。私は、

「実は、・・・」

 実は、私は身体を壊す前から、亡くなった創業者の先代社長の許

可を得て、大手スーパーの間隙を狙って毎週月曜日の週一回だけだ

が店頭で食材ばかりの「百均市」を催していた。その名の通り何も

かも単価を百円に均一して、その替わり量であったり全体の損益の

バランスを図って調整しなが、本当のことを言えば週末の売れ残り

を処分する為でもあったが、それでも客離れを食い止める為の採算

を度外視した特売セールだった。そうは言っても、毎回同じものを

並べていてはすぐに飽かれてしまうので、目玉商品を探すのに苦労

していた。自分から提案して余計な仕事を増やしたことが身体を壊

す一因にもなってしまったが、それでも諦められなかった。すでに

スーパー業界は棲み分けを終えてしまって、だんだん小さくなって

いくパイの奪い合いは、たとえ大手と言っても売上を確保するため

には他社とシェアを競い合う他なく、勢い価格競争がし烈を極め、

中小はその煽りを真面に受けて生死を分ける水面がすでに鼻孔の際

まで達していた。そんな限界状況の中で、経営を任されたバカ息子

らが産地偽装に手を染めたのも止むに止まれぬ事情からだった。弁

解に聞こえるかもしれないが、実際の作業の中で故意ではなくとも

結果的に表示ミスは頻繁に起こった。定められた善と悪の境界に立

ってやがて混交に迷い、遂には一線を画する原則を私情によって歪

めてしまった。実は、暴露すればそのような偽装は商いに携わる者

ならば多かれ少なかれ無縁であるはずはなかった。何故なら、そも

そも商売の原則とは安く仕入れて高く売ることであり、更にそれを

如何に上手く偽るかが求められる生業だからである。

 自由競争が淘汰を繰り返して生まれた独占資本に支配された市場

では全てのモノに値札が付いてすでに社会主義社会の配給施設と変

わらないほどに画一的で退屈な店になってしまった。便利なだけの

コンビニや何でもあるが欲しいモノが何もないマクドナルドやユニ

クロのように、客はただ空腹を満たすため服を着るために仕方なく

訪れる。それらの配給所には何一つ新しいものは売られていない。

少なくとも市場の楽しさはない。我々は独占資本主義の下で急速に

競争原理が失われ社会が画一化して社会主義化している事実にまだ

気付いていない。つまり、資本主義とは「命懸けの暗闇への跳躍」

によって破綻を繰り返すものであるが、ところが、グローバル経済

の下で世界には暗闇そのものがなくなり、跳躍しない社会制度を資

本主義とは呼ばないのだ。かつて、跳躍に失敗した金融界を国家の

手で救ったことによって日本の資本主義は終わった。また、同じ理

由によって、リーマンショックから甦ったアメリカも、そして、今

まさに金融危機を立て直そうとするEUも自由を失い急速に社会主

義化するに違いない。価値を失ったものは淘汰される、その原則を

覆して資本主義は成り立たない。つまり、経済のグローバル化と共

に資本主義経済は終焉を迎えようとしている。そんな閉塞的な状況

を唯一破壊してくれそうなのが産地で営まれている直売所ではない

かと思った。そこにはまだいい加減な値札が付けられた怪しいモノが

堂々と並べられていた。外国の市場を訪れた他所者のように、ワク

ワクする好奇心が呼び覚まされた。少なくとも市場の如何わしさが

まだ残されていた。

「いいですよ、月曜だけなら」

彼によると、直売所はちょうど月曜日が定休日なので出荷先を探し

ていたところだったので新しい販路は願ってもない、と二つ返事だ

った。後は買値だったが、当然、一つ百円を越えるわけにはいかな

かったがほぼそれに近い金額を伝えると、「ほんとずら」と驚いた。

私はあくまでも採算を度外視した特売用の目玉商品であることを明

かして、つい最近まで私の片腕だった仕入れの担当者にデンワを繋

いで彼に代わった。

「買値はしかっり彼に伝えておいたので、後の送料だとか細かいこ

とはあの男が段取りしてくれるでしょう」

そう言うと、彼は頭を下げて、

「ありがとうございます」

と言ってから、美術館まで送っていく言うので、

「いや、もう美術館はいいですから、出来たらその産直所へ連れて

行ってもらえないですか」

「あっ、それなら今からそこへトマトを持って行くところですよ。

軽トラでもよかったら送りますよ」

もう充分歩いた私は、「実は、」と出勤途中に起きたことや帰りの

電車で寝過ごしたことなどを打ち明けて、

「いやあ、こんなところで商売がまとまるとは思わなかった」

そう言いながら彼が運転する軽トラの助手席に乗り込みながら、さ

っきまで会社を辞めようと決意したことなどすっかり忘れていた。


                                (つづく)


「無題」 (七)

2012-08-31 02:55:10 | 小説「無題」 (六) ― (十)



                  「無題」


                   (七)


「うなされてた」

「・・・ああ。」

日曜の朝、二度寝してベットから起き上がったのは出勤日なら一仕

事を終えて休憩のコーヒーを飲んでる頃だった。妻から言われるま

でもなく微睡みの中に現れた夢想は、電車に飛び込んで自殺したあ

の女性の眼だった。その生々しい眼は靉光が描いた眼とも重なって

私を上から見下ろしていた。顔を洗ってからキッチンでコーヒーを

淹れて、何時もこの時間にコーヒーを飲む習慣が眠りから目覚めさ

せたに違いないと思いながら、その生々しい眼はまだ上から自分を

見詰めているような気がしてならなかった。

「美咲は?」

「ごはん食べて部屋に上がった」

彼女は昼夜が逆転した生活を続けていた。椅子に腰を下ろしてダイ

ニングテーブルの真ん中に調味料などが並べられた端に一冊の岩波

文庫が置かれていたので手に取った。「死に至る病 キルケゴール」

トーストパンと目玉焼きの皿を運んできた妻がそれを見て、

「あっ、美咲が忘れていったんだわ」

「こんな本を読んでるのか」

「病気の本でしょ」

「バカ、哲学だよ」

「えっ、違うの?じゃ、死に至る病ってどういう意味?」

「絶望のことだよ」

「何だ、読んだことあるの」

「いや、読もうと思ったことはあったけど、最初の数行でやめた」

「何で、難しいから?」

「難しい以前の問題、何言ってるのかさっぱり解らん」

そう言って、手に取った本をめくって始めの数行に目を通した。

「うん、やっぱり解らん」

と言うと、妻が、

「ちょっと読んでみて」

「人間とは精神である。精神とは何であるか?精神とは自己である。

自己とは何であるか?自己とは自己自身に関係するところの関係で

ある、すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するもの

なることが含まれている、それで自己とは単なる関係ではなしに、

関係が自己自身に関係するというそのことである。」

彼女はすぐに聴くことを諦めてキッチンの方へ逃げた。

                        
                                   (つづく)


(後記)

実は、キルケゴールなんて一度も読んだことがないので、(図書館で

借りてきてこれから読むところです)、この話をどう結着させるかの当

てはまったくありません。何だって読んだこともないキルケゴールを登

場させたのか自分でもよく解りません。ただ、何故か触覚に触れたん

です。       

                                ケケロ脱走兵  

                           


「無題」 (七)―②

2012-08-30 22:39:25 | 小説「無題」 (六) ― (十)



                   「無題」


                    (七)―②


「お父さん、その本、返して」

私は驚いて本を閉じて顔を上げると、いつの間にか美咲がテーブル

の前に立っていた。

「あっ!これお前のか」

そう言って本を差し出した。私と娘の関係は彼女が家を出て行って

から少し様子が変わった。親子としての直接的な繋がりが薄れ、彼

女自身の関心が自分のことや友人といったものに移ったからだろう

が、彼女の中ではすでに私は意味のある存在ではなくなった。かつ

てなら絶対に許さなかった私の癖や言動も今では諦めて見過ごすよ

うになり、つまり、どうでもよくなった。それは、親にとっては実

に寂しいことだった。むしろ、これまでのように文句を言って関わ

ってくれることの方が今となっては嬉しかったが、ただ、それと同

時にあからさまな嫌悪感も示さなくなり、意外にも、何でもない会

話なら彼女の方から話し掛けてくることさえあって、今度は私の方

がどう応じていいのかその用意がなかった。

「むつかしい本読んでるな」

美咲は、何も言わずにその本を受け取った。彼女が京都で学んでい

た学校はミッション系だったので、しかも文学部で将来は国語の教

師を目指していたから、それくらいの本を読むことに驚いたりはし

なかった。ただ、自殺騒動の後、それまで彼女に関わってきた者は

どう接していいのか倦ねていた。実際、生きることを捨てようと覚

悟した者がこれまで通りの生活にどれほど興味を持っているのか周

りの者は測りかねて恐る恐る受け応えするしかなかった。それは、

フーテンの寅さんの前で女の話を持ち出さないように心掛ける身内

の者のように、彼女に対してなぜ自殺しようとしたのか聞かなかっ

たし彼女が居なくても触れないでいた。もちろん親であるなら、な

ぜ生きようとしないのかと膝を交えて説得するべきだと言うかもし

れないが、私自身が彼女を改めさせるほどの説得力のある意義を持

ち合わせていなかった。誰も目的を持って生まれてくる者など存在

しないし、そうするより他に生きる手立てを持ち合わせていないで

はないか。我々は異性に欲情して性交し、やがて子どもが生まれて

くれば育てることに何の理屈も求めたりしない。何のために生きて

いるのかという問いは、何故欲情するのか、或いは何故愛するのか

を問うことで、それは理性の預かり知らないことである。もしも、

我々が何らかの使命を受けていて、その本来の目的を見失っている

ならば、恐らく、我々は缶切であるにもかかわらず、缶詰の存在し

ない世界に生まれ落ちたからに違いない。そこで、我々は使命を果

たすべく缶詰を一から作らなければならなくなった。そして、缶詰

を作っているうちに缶切である必要がなくなった。我々は缶詰まで

作れるのになぜ缶切でなければならないのか?ところが、缶切とし

ての使命を捨てた時に我々は目的を失った。使命を捨て去った時に

いったい何が缶切の目的足り得るのか?多分、我々とは目的を失っ

た手段、缶詰のない世界に現れた缶切なのだ。朽ち果てた廃屋の水

屋箪笥の片隅に置き去りにされて目的を果たせなくなった刃の尖っ

た缶切なのだ。目的から解放された手段は新たな目的を見つけるた

めにせめて自由であらねばならない。私は、彼女を傍から温かく見

守る以外に、彼女の人生は彼女に委ねるしかないと思った。確かに、

彼女は日常生活を取り戻していたが、それは世間の建前に従ってい

るだけで、もしかすれば本音は絶望から抜け出せずにいるのではな

いのか不安だったが、実のところは誰も、恐らく彼女自身も解らな

かった。私は、「強くなれ」だとか「頑張れ」だとか、そうなれな

くて苦しんでいる我が子をさらに追い込むことだけは避けようと心

掛けていた。強くなるなら自分の意志で強くなるしかないのだ。他

人に縋って自分の身の丈に合わない見せかけだけの虚勢を張っても、

そんなものは虚栄ばかりの世間の中で見栄を張ることくらいしかで

きない本当の強さとはいえないのだから。私は、美咲には自らの孤

独に負けない精神的な強さを身に付けてもらいたかった。

                                   (つづく)


「無題」 (七)―③

2012-08-29 00:58:40 | 小説「無題」 (六) ― (十)

        「無題」


         (七)―③


「お父さん、ちょっといい?」

「ん?」

私が何も応えない間に娘は向いの椅子を引っ張り出してゆっくり座

った。立ち去るものだと思っていた私は、

「なっ、なにぃ?」

「実は、」

そう言ってからしばらく噤んだ。彼女がテーブルに載せた左腕の淡

い空色のブラウス袖口から手首に巻かれた白い包帯がはみ出して

いた。私はとっさにそれから視点を逸らして彼女の背後へ移すと、奥

のキッチンでは背を向けて流し台に佇む妻が、音も立てずに家事を

している振りをして聞き耳を立てているのがわかった。私は、美咲が

何を言い出すのかビクビクしながら固唾を飲んでその後の言葉を待

った。

「わたし、できたらまた一人で暮らしたい」

「京都へ戻るつもり?」

彼女が籍を置いていた学校には一応休学届を出していたが、借りて

いた京都の部屋はまだそのままで、何時までもそのままにしておく

わけにはいかなかった。

「もう京都へは戻らない」

「じゃ学校はどうする?」

「できればこっちの学校に移りたい」

「うん」

彼女が言うには、この秋にこっちの大学の編入試験を受けて京都で

の学生生活を引き払うつもりだと言った。それを聞いて私は少し安堵

した。少なくとも大学に在籍している限り、退学してしまうよりは

迷いが少ないと思ったから。ただ、彼女はもう教職を目指すことは

諦めた。そして、

「心理学を勉強したい」

と言った。私は、彼女が傷付いた左手で握り締めているキルケゴー

ルの文庫本に目を遣った。そこには「死に至る病」と書かれていた。


                                 (つづく)


「無題」 (七)―④

2012-08-28 03:33:35 | 小説「無題」 (六) ― (十)



                 「無題」


                  (七)―④


「おーい、弘子!」

キッチンの流しで背を向けて静止している妻を呼んだ。何時もなら

こういう相談を美咲は私に直接言って来ずにまず母に打ち明けて、

妻が私に伝えてきたので、妻が知らないはずはなかった。

「はい」

妻は、エプロンの裾で手を拭う素振りをしながら応えた。私は、美

咲のすぐ後ろに現れた妻に、

「聞いてただろ?」

「ええ、少しは」

「じゃあ、すぐに京都の部屋を引き払うようにして、いや、待てよ、

部屋を探す方が先か?」

「あっ、それなら。ね、美咲」

「えっ、もしかして、もう決まってるの?」

美咲は小さく肯いて弘子の方を振り返った。ほら、いつもこの調子

だ。私が相談を受けた時には実は何もかもが決まっていて、ただ私

はハンコを押すだけだ。妻の説明によれば、実は、美咲は転入する

学校も決めていてその近くに部屋も見付けて、あとは私の承諾をも

らうだけだった。ただ、今までなら美咲は私への相談ごとは些細な

事でも母を使っていたが、今回は自分から私に話すと決めた。

「よし、わかった。それから、美咲、よく話してくれた。お父さん、

本当にうれしかった」

娘は口元を緩めて応えた。そして、イスから立ち上がって自分の部

屋に戻ろうとしてテーブルを離れた。

「ほら、本、忘れてるぞ」

「あっ、それお父さんにあげる」

「なんだ、もう読んだのか?」

「んん、もう読まない」

そして、私は娘にどうしても伝えたかったことを口に出した。

「あのさ、美咲、焦んなくたって何れ人は死んじゃうんだから」

彼女は、私に背を向けたまましばらく立ち止まってから、黙って階

段を上った。


                                 (つづく)