「竹内結子さんの死を悼む」②

2020-10-07 02:12:23 | 境界性パーソナル障害(BPD)

       「竹内結子さんの死を悼む」②


 かつて(2013年)、私はこのブログに「ボーダー」という記事

を載せましたが、ちょうどその頃、一緒に働く同僚がさっきまで穏

やかに会話を交わしていたのに突然豹変して切れ出して、こっちは

そんなに激怒される理由がまったく理解できずに、頭の中が「?」

だらけになってしまったことがあった。何度かそういう人と出会っ

たことから、あれはきっと何かあると思って調べているうちに、亡

くなったダイアナ元妃の生い立ちとその後の人生が書かれたブログ

に出遭った。それまでダイアナ元妃は上流階級の穏やかな美しい女

性だとばかり思っていたが、どうやらそうでもないらしいことが分

った。そもそも「ボーダー」とは「境界性パーソナリティ障害」

 (Borderline personality disorder :BPD )という人格障害の

ことで、もちろん私はまったくの門外漢ですが、どうも幼少期の体

験が大きく影響することがあるらしい。以下は私のブログ記事「ボ

ーダー」③からの再掲載ですが、

『「人格障害の精神病理」を専門とする磯辺潮医学博士の著書「普

通に生きられない人たち」河出書房新社(2005/8/6)によると、ダイ

アナ元妃が7歳のとき、母親は4人の子どもを置いて家を出て、再

婚しました。15歳の時に、父親が再婚。このような環境に育った

ので、「彼女の生涯を貫く、見捨てられることへの不安と情緒の不

安定性を生み出したと考えられる」。ダイアナ元妃の執事だった人

は、「”かんしゃく”がひどく、女官たちが次々と辞めていった」。

でも、「公の場では、上手に機能していた」とTVインタビューに答

えていました。5回の自殺未遂と拒食症、および不倫などから「深

い心の欠損があった」。「境界性人格障害の人は、何をしても、"虚

しい”といつも訴えます」と磯辺博士。「なにか埋め合わせのできな

い、心の欠落がある」』と言うのです。

 さて、先日亡くなられた竹内結子さんは、あまり詮索するつもり

はないが、伝え聞くところによると、彼女が中学2年生の時に大好

きだった母親が病死し、父親は連れ子がいる女性と再婚して、結子

さん自身も、「私の家は複雑な家庭なので、戻る場所はないんです。

この世界で絶対にがんばらなきゃいけないんです」(スポーツ紙記者)

と、語っていた、という。

【文春オンライン】https://bunshun.jp/articles/-/40556?page=3

もちろん一概には言えないが、ダイアナ元妃の生い立ちと何となくそ

の境遇が重なる。「戻る場所がないんです」という思いは「この世に

居る場所がない」と思い込んでしまったのだろうか?彼女が大好きだ

った母親が亡くなった40歳と同じ年齢で母親の元へ旅立った。

【AERA dot.】https://dot.asahi.com/wa/2020100600056.html?page=2

                        (つづく)


 「ボーダー」⑪

2012-03-30 02:34:39 | 境界性パーソナル障害(BPD)



                 「ボーダー」⑪



 我々は未だこれまでの社会を継続しようとしている。バブル崩壊後

二十年以上経ってもかつての夢をもう一度と願っている。ところが、

一方でこの社会が抱える問題に対してどれ程の検証を行ってきただろ

うか。それは、あたかもボーダーが自らのトラウマを振り返ることが

出来ずに、ただそれから逃れたい一心で未来にばかりに夢を託すよう

に、自分自身を振り返ろうとせずに、つまり、我々が抱える社会の問

題を避けて旧態のまま新しい世界を待ち望んでいる。しかし、新しい

世界は人々の意識が変わらないことには決して生まれて来ないだろう。

そして、意識を変えるには自分自身を知ることの他にいったい何がで

きるだろうか。我々は何故あの無謀な戦争にのめり込んでいったのだ

ろうか?また、バブル崩壊の警鐘が鳴らされながら何故崩壊を回避で

きなかったのだろうか?何時も「回避」や「撤退」といった自省から

生まれる決断がなされない。我々の「メンタル」には何か重大な瑕疵

が残されたままなのではないだろうか?「こんな戦争は勝てない」と

思いつつも決して口にできない社会、「そのうちバブル崩壊する」と

分っていても有効な策が打てない政府、「安全だ、安全だ」と言いな

がら事故が起きても「安全だ」と説明する原発関係者。そこには一体

何があるのだろうか。

 かつて、福沢諭吉は「学問のすゝめ」の中で「一身独立して一国独

立す」と説き、社会国家に、或いは「長いもの」に依存することを厳

しく諌めた。他者への依存は自分自身を空しくする者の常套である。

立身の志を抱く者は「独立自尊」の気概から判断を他者に預けたりは

しない。その独立自尊を阻んでいるのが序列を重んじる儒教思想であ

ると言い「腐儒の腐説」とまで貶した。果たして、我々は大政奉還以

来、近代化を推し進め欧米列強に肩を並べるほどの経済大国にのし上

がったが、さて、一身の独立を尊び、一国として独立することは叶っ

たであろうか。そうでなければ、独立自尊を阻み序列秩序に「黙って

従う」ことを重んじる儒教思想こそが、我々の素直な精神を歪めて「

思ったことを言えない」ようにしている、この国の誰もが囚われいる

トラウマではないだろうか。


                  原稿を仕上げますので(おわり)ます。



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 「ボーダー」⑩

2012-03-29 18:00:08 | 境界性パーソナル障害(BPD)



               「ボーダー」⑩


 さて、個人に於いて、幼少期に様々な精神的外傷によって自己形成

が充分果たせず、成人になって幼少期の感情のコントロールが出来な

くなり人格障害をもたらすと言いましたが、それは社会に於いても言

えるのではないでしょうか。つまり、過去のトラウマが現在社会に様

々な問題をもたらしているのではないだろうか。もしも、我々の社会

が何らかのトラウマを抱えているとすれば、それは、間違いなく戦争

とバブル経済の崩壊でしょう。

 ただ、その前にどうしても明治維新から太平洋戦争までを眺めてお

きたいのですが、明治政府は欧米列強からの植民地支配を避けるため

に急速な近代化を押し進めました。そして、日露戦争に勝利したこと

で愈々我が国の国力は先進国に比肩したと国民は過信した。実際は、

日本軍は刀折れ矢尽き兵倒れそれ以上戦争を続けることは不可能だっ

た。ポーツマス会議に全権を託された小村寿太郎は、国民から非難さ

れることを覚悟して交渉に挑みました。講和条約が締結したが戦勝国

日本にとっては賠償金さえ放棄せざるを得ない譲歩した内容だった。

重税に耐えてきた国民は国家の実情を知らされず、不満を表して政府

を弾劾する集会が各地で開かれ、暴徒化して日比谷焼打ち事件が起こ

り戒厳令が敷かれるまでに至った。これは司馬遼太郎が何度も指摘し

ていますが、「そこから日本の帝国主義が始まった」(司馬遼太郎「昭

和という国家」)。つまり、日露戦争勝利によって国民の感情を抑圧し

てきた理性が外され、明治維新のトラウマが激しい感情となって現れ

たのではないだろうか。その後政府は国民を怖れて監視を強化し、不

満をかわすためにアジアへの覇権を強めた。

 その流れは、太平洋戦争へと続くことになるが、ここでは、その敗

戦というトラウマが戦後日本に如何なる影響を与えたのか考えていき

たい。戦後の高度経済成長は、もちろん一概には言えないが、戦勝国

アメリカの管理下、平和憲法によって軍事予算が割かれることなく復

興に費やされ民主国家としての再建がスムーズに進み、技術立国とし

て幸運にも恵まれてアメリカに次ぐ経済大国にまでのし上がった。そ

して、浮かれた後のバブル経済の崩壊。それはまるで成功と失敗が、

明治維新から日露戦争までを裏返しにしたような結果だった。バブル

経済の崩壊は、再び我々に敗戦のトラウマを蘇えらせた。絶望が社会

を支配し未だに閉塞感から逃れられない。繁栄の後の衰退は世の習い

とはいえ新しい時代が全く見えて来ない。国家財政は政権のたらい回

しによって緊縮とバラマキを繰り返して負債が莫大に膨れ上がってし

まった。民主党政権は消費税の増税によって財政破綻を免れようとし

て、恐らくそれは避けて通れない道にせよ、その手続きにいかがわし

さを払拭できない。そのいかがわしさは本当のことを何も知らされず

にただ決定に従うことだけを強いられた戦時下の体制と大差ない。我

々国民は、消費税増税の反対を民主党の代議士に託した筈ではなかっ

たのか。民主党政権はその負託に答えてきたのか。まずは消費税増税

に手を付ける前に、既得権益を得ている者たちから既得権を奪還する

ことが先決ではないか。政治家も立派な既得権者である。我々がいか

がわしさを禁じ得ないのは公平さが感じられないからだ。国民に負担

を強いるならまず不公正な既成制度を改めてからではないか。これま

でのような豊かさを分け合うことが出来ないと言うなら、公平な負担

を実現しなくてはならない。何だ!この格差は。

 我々は、再び戦争中のトラウマに襲われているに違いない。需要を

担うべき国民の所得を減らしてデノミを加速させながら、その一方で

金融緩和を行なってデノミからの脱却を目指している。つまり、ブレ

ーキを踏みながらアクセルを吹かしているのだ。まさに政府は、進む

べきか退くべきかを巡って迷走したあの大本営のように、今では財政

再建と財政緩和という正反対の政策を同時に行っている。



                                   (つづく)



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「ボーダー」⑨

2012-03-23 08:19:28 | 境界性パーソナル障害(BPD)



                「ボーダー」⑨



 こんなに長々とボーダー(BPD)について述べるつもりはなかった

が、ダイアナ妃がボーダーだったことをつい最近知り、もしかしたら

という思いが確信に変わったことと、そして、その症状が今の日本

人全体のメンタリティと似通っているなあと感じたからで、例えば、

被災地を励ます「絆」に共感する一方で瓦礫の受け入れを頑なに

拒んだり、国家意識を持たせる教育が国歌を歌う教師の口元を監

視することに矮小化したり、理想と現実、つまり、言ってることとやる

ことの余りの乖離に情けなくなった。一言で言うと、ちょっと「幼稚」す

ぎないか、ってことだ。逆にして考えれば、果たして現実で行われて

いることが理想に繋がって行くのだろうか。地域エゴが国民の「絆」を

育むだろうか。口元の監視が国家意識を高めるだろうか。

 ボーダーと呼ばれる人々は、発育期に情緒不安から自己が形成さ

れず、成人になっても感情をコントロールする理性が働かないで自己

同一性が失われて衝動的な感情に支配される。感情に身を任せるこ

とが充実感を満たすなら退屈な日常生活は虚無感で満たされる。そ

して、空しい自己から逃れようとして他者に依存するようになる。その

他者とは個々に異なるが、自らの衝動の発露に適った対象で、アルコ

ールや薬物、暴力、セックス、過食、暴走行為、妄想によるオカルト体

験などで、彼らはいくら理性による冷静な判断が出来ても、いや、実際

に驚くほど理性的なのだ、ところが、自己意志は理性がコントロールで

きない衝動的な感情(充実感)に負けて冷静な判断とはまったく異なった

選択をしてしまう。この感情に支配された幼児期の本能的な人格と、成

長期に学習によって得た理性的な人格が二律背反しながら存立し、言

うこととやることが正反対で、あたかも禁煙を固く誓いながら一服するよ

うに、欠落した自己同一性に堪えられなくなった自己は衝動感情に身を

まかす。

 ある週刊誌に離婚歴があって一児の母でもある倉玉某という才女が、

男を品定めして語るコラムが連載されて人気があった。そこで彼女は、

男は自らの行動を俯瞰して省みることのできる理性を持ち合わせてい

なければならない、というようなことを語っていた。さすがに、一度結婚

に失敗した彼女はしっかりしているなあ、と思った、ら、何とまあ、その

理性的な判断とはかけ離れたような経歴の持ち主と再婚した。もちろ

ん、彼が三回の離婚歴があって子供が三人も居るとか、女を何百人

抱いたと豪語してるとか、借金が幾らあるかとか、凡そは世間に知られ

ることを憚ることを自慢げに吹聴すること自体から、もちろんそんなこと

で判断してはいけないが、彼が自らの過去を俯瞰して省みて考えを改

めることの出来る人物とは到底思えない。それにしても彼女は、余りに

も言うことと実際が違いすぎる。これ以上彼女のプライバシーをとやか

く言うつもりはないが、間違いなく彼女は衝動的な感情を制御できない

ボーダー(人格障害者)だ。彼女は高校受験の時に、九千人が受けた

模試で一番になったことがあるほどの才女で(ウィキペディア)、多分、

「人間になる」ことを忘れて暗記ばかり強いられたに違いない。

 今の自分は過去の自分によってここに居る。もちろん、遺伝的性格

もあるが、過去の歓びや不安が、或いは成功や挫折が今の自己を形成

している。ところが、今や我々は情報化社会の中で、自分自身を知る

機会を持たなくなった。「汝自身を知れ」とはアポロンをまつるデル

フォイの神殿の入り口に掲げられていた言葉で、ソクラテスの思索の

テーマでもあったが、テレビや週刊誌は「汝自身など忘れろ」とばか

りに自己を忘れさせることばかりを伝える。こうして我々の関心はす

べて自分自身の外に向けられ、自分自身など知ろうとしない。それ

はトラウマを避けようとするボーダーの心情とよく似ている。彼らは

孤独の中で自らの辛い過去を省みることが居た堪れない。(自己逃

避) だから、「自分自身を忘れろ」と言い聞かせて社会を求める。(

他者依存) 大事なのは自分の考えではなく、そもそも自己が確立し

ていないのだから、自分の考えを社会がどう評価するかなのだ。ど

う振舞えば社会という看守は自分に注目してもう少し自由を分け与

えてくれるか。学問であれ運動であれ趣味でさえも、もはや自分自

身のためにするのではない。親が、友だちが、世間が、マス・メディ

アが、社会が、それら他者に認めてもらうために、分自身を失う

って命がけの飛躍をこころみる自己喪失した時代なのだ。


                                   (つづく)



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「ボーダー」⑧

2012-03-19 17:22:34 | 境界性パーソナル障害(BPD)



           「ボーダー」⑧



 前にも記しましたが、メンタルヘルスの専門医は、全ての成人は

多かれ少なかれ何らかの精神疾患を抱えていると診るのだそうです。

ということは、「健全な精神」などというものはないのです。幼少

時に何らかの精神的苦痛を受けて人格形成が阻害されて「人間にな

り」、「自分自身」が確立できないまま生きていくことは辛いこと

です。「自分自身」がないのですから。だからと言って、他者に縋

っても、他者は「自分自身」ではありません。例えば神仏に縋るこ

とによって更に「自分自身」を空しくすることにならないだろうか。

あなたは手段として生まれて来たのではないのですよ。目的とし

て生きるべきです。人格障害の人は自己と向き合えないので過

去の記憶を消し去ろうとする。しかし、そこには自分が拠るべき

原点があって、それがトラウマに阻まれて回帰することができない。

 たとえば、交通事故に遭って大きな身体的障害を受けた人は、そ

れまでの生き方を大きく変えざるを得ません。それは多分人格さえ

も変えてしまうことでしょう。事故後の自分はそれまでのようには

生活できなくなり、人の援けにも縋らなければならない。そんな生

活から「精神の自立」は遠ざかって行くかもしれません。事故に遭

う前の自分と、事故に遭った時の自分と、事故後の今の自分と、彼

はいったいどうすれば「自己同一性」を失わずに生きることが出来

るでしょうか?事故に遭う前の健全な自分が本当の自分だと思って

生きて行けるでしょうか。それとも、事故に遭った不運を悔やみな

がら生きて行けるでしょうか。今在る自分を受け入れて生きていく

しかないではないか。つまり、過去の「自分自身」を棄てて、新し

い「自分自身」を育むこと以外できないのではないだろうか。身体

の自由は取り戻せなくても、幸いなことにアイデンティティーは失

われていないのだから、新しい「精神の自立」は取り戻せるに違い

ない。

 それでは、それを反転させて、幼少時に大きな精神的苦痛を受け

てトラウマとなり自己形成ができずに「自己同一性」が確立されな

かった人はどうすればいいのだろうか。彼らも同じように過去の精

神的苦痛やトラウマを抱えて生きていくことはストレスである。だ

から、忌まわしい過去を忘れて日常を生きようとする。しかし、そ

の日常生活の中で思い通りにならなくなると幼児期の感情が蘇

えってきて自己抑制することが出来ずに突然キレる。そして一転

して、見棄てられることの不安から、異常な嫉妬心、強い執着、

幼稚な甘え、それらは激しい感情を伴って爆発する。何よりも、

まずは本人がそのことに気付かなければならない。そうでなければ

「変!」と感じた他人は遠ざかる。いい加減なことことは言えないが、

トラウマから逃げていてはきっと何時までも同じことを繰り返すだろ

う。トラウマと「飽きるほど」向き合い、何が衝動的な感情を引き起こ

すのか、その原因を分析して自己認識し、コントロールの方法を自ら

思い付くこと。そして、決して「自分自身」を見失わずに、他者(宗教も

含む)に依存しないこと。間違ったってどうってことはないのだから自

分を信じることを怖れないこと。一番大事なことは、それらは孤独な

仕事だから、決して孤独を恐れないこと。辛くなったら立ち止まって考

え込まずに外を歩き回って考えること。最後に「これは理性の仕事だ

ぞ」と自分に言い聞かせること。こうして私は「自分自身」を取り戻す

ことが出来ました。つまり、「自分自身」を取り戻すのに、自分以外の

ものを信じたり、自分を忘れたりしないこと。心は病んでいても、幸い

なことに身体の自由は失われていないのだから、自らの身体感覚を

拠り所にして「自己同一性」を取り戻せるに違いない。

                                   (つづく)




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