「世界限界論と力への意志」(一)

2019-01-08 03:34:57 | 「世界限界論と力への意志」

      「世界限界論と力への意志」

 

           (一)


 我々の理性は生成そのものに与かることはできない。つまり、我々の理

性は「命を認識することができても、命そのものを作ることはできない」

したがって、我々の理性は「生成としての世界」を読み解くことができず

、必然的に「ニヒリズム」に陥らざるを得ない。つまり、いずれ死滅して

しまう生成としての存在はそもそも「意味はない」、それが理性の結論で

ある。だから「生きる意味がない」と言って死ぬのは認識論としては間違

っていない。ただ、そもそもすべての存在に意味がある訳ではない。世界

には意味のない存在は無限にあるし、それどころか世界そのものの存在で

すら何の意味も無いかもしれない。ただ、理性の限界を超えたところに生

成としての存在の本質があるとすれば、理性的認識だけで存在の意義を判

断するのは誤りなのかもしれない。いや、そもそも固定化した「本質」と

いう思考こそが変遷流転する生成の世界を捉えられないのだ。何れにしろ

「我々の理性は生成としての世界を捉えられない」、これがニーチェ形而

上学の結論であり、そしてそのニヒリズムから如何にして脱け出すかが彼

が説く「生成の哲学」であり、それはニヒリズムを超えるための超人思想

なのだ。

 さて、世界とは変遷流転を繰り返す生成であり力への意志であるとする

なら、固定化した世界は生成にはそぐわない。ところが、いまや近代社会

はグローバリゼーションによって地球全体が征服され「外部」を失い、そ

の結果、環境、資源、人口など様々な問題が限界に達したまま解決できず

に固定化し、存在者は力への意志による新たなパースペクティブが他者と

重なり合って思うように展開できず、国家同士でも様々な軋轢が生まれ始

めている。もはや世界はそれぞれの自由を認めるほどの余裕はなく、それ

ぞれの生存を認めるために規制しなければならない時代へと転換されよう

としている。すでに先進諸国では社会生活を営む上で様々な個人の自由が

制限されているが、唯一経済活動だけが自由を認められることは許されな

くなるに違いない。つまり、成長の限界に達したグローバリゼーションの

下では、遅からず自由主義経済は制限されるだろう。もしも限られた世界

の下で、経済だけは自由競争が認められるなら奪い合いが始まるのは必然

である、限られているのだから。すでに世界はグローバリゼーションによ

って、地の果てまでも近代化の波が及び、空白が埋められた世界は開放系

から閉鎖系へと転換したのだ。

                         (つづく)


「世界限界論と力への意志」(二)

2019-01-08 03:33:56 | 「世界限界論と力への意志」

       「世界限界論と力への意志」


           (二)


 ここでもう一度ハイデッガー著「ニーチェⅠ・Ⅱ」について、私の言葉

で、つまりこの本を引用せずに私の理解しているニーチェを語ってみよう

と思います。

 まず、これは何度も記しましたが、「形而上学」とはその起源の言葉「

Meta-physics」からも窺えるように、自然(Physics)を超えた(Meta-)

本質を思惟する学問で、プラトンはこの世界を超えた「イデア」こそが真

実存在であると考え、それはのちのキリスト教世界観へと引き継がれます

。そもそも人間を始めとして生成によって生まれてくる存在は、やがて寿

命を終えるとその存在は消え失せます。つまり、われわれの世界とは一時

的な仮象に過ぎないではないか。だとすれば、仮象の世界を超えた「真実

の世界」が在るに違いない。こうして形而上学的思惟は必然的にこの世界

を超えた「本質の世界」を創造します(二世界論)。 さて、キリスト教の牧

師の息子であったニーチェは、やがてこれらの世界観(プラト二ズム)を否

定します。自らの思想を「逆転させたプラト二ズム」と言い、変遷流転す

る生成の世界こそが真実であり、永遠不変の「真理」などというのは幻想

で、世界の本質とは「力への意志」であると説きます。「真実の世界」、

または超感性界である「神の世界」を否定したニーチェは、当然世界は「

ニヒリズム」(虚無主義)に陥らざるを得ないと考えます。いや、そもそも

「イデア(理想)の世界」や「神の世界」はニヒリスティックな現実から遁

れるために世界に嵌め込まれた「価値」であって、「真実の世界」を彼岸

に求めることこそニヒリズムに他ならないと言うのです。我々の理性は、

つまり形而上学的(Meta-physical)思惟は、存在の本質(真理)を問い求める

が、しかし「真理」とは永遠不変で絶対的なものであるとすれば、変遷流

転する生成の世界(此岸)では真《らしき》ものはあったとしても「真理と

は幻想なり」ということになる。「真理」を掌握できなかった理性は忽ち

ニヒリズムに陥り、そこで「真理」を超(Meta-)自然(physics)界へ、つま

り絶対不変の彼岸へ「真理」を委ねます。彼岸へと昇華した「真理」は、

プラト二ズムでは「イデア(理想)の世界」に、そしてキリスト教世界では

「神の世界」として上位に置かれます。しかしニーチェは、それらは我々

がニヒリズムから遁れるために世界に嵌め込んだ「価値設定」に過ぎず、

根本境涯としてのニヒリズムはなにも変わっていないと言います。そこで

ニーチェは《価値の転換》(プラト二ズムの逆転)を行って、生成の世界こ

そが真の世界であり、生成の世界の本質とは「力への意志」だと考えます

。「イデア」「神の世界」を失った世界は当然ニヒリズムに陥りますが、

そのニヒリズムを越えていく者こそがニーチェの言う「超人」なのだと思

います。

 さて、今や我々の理性は「イデア」にも「神」にももはや関心はなく、

もっぱら科学的認識こそが世界をニヒリズムから解放してくれると信じて

やまないのですが、その科学的認識の対象は「真理」にほかならない。し

かし、「真理とは幻想なり」(ニーチェ)であるとすれば、科学的認識もま

た「イデア」や「神」と同じように「幻想」を追い求めていることになら

ないだろうか。当然のことながら近代科学文明社会は科学的認識によって

構築されている。その科学的認識は「幻想である真理」からもたらされて

いるとすれば、いずれ生成としての世界とそぐわなくなるだろう。その不

適合は固定化した科学的認識の誤謬から生じるのではなく、生成の世界が

変動することによって発生するのだろう。いや、もうすでにそのズレは現

れているに違いない。たとえば、科学的認識がもたらした科学技術によっ

て造られた堅固な社会資本は、生成の世界の時間的変動に耐えられずに経

年劣化が進んでいるし、また、固定化した社会制度は流動的な人々の動向

を把握できずに破たん寸前である。それどころか、科学的認識がもたらし

た科学技術によって化石燃料が利用され、本来なら大気中に放出されるこ

となどなかった温室効果ガスを大量に排出して地球温暖化をもたらし、そ

の影響は世界各地で自然災害を引き起こし、また、科学的認識がもたらし

た大量生産技術は自然循環にそぐわない大量の産業廃棄物を撒き散らし、

地球環境の悪化はいよいよ限界に達しようとしている。自然へ永遠に回帰

することのない近代科学文明社会が排出するゴミは、図らずもニーチェの

根本思想である「同じものの永遠なる回帰の思想」にそぐわない姿を映し

出している。つまり、「科学的認識」もまた「イデア」や「神」と同じよ

うに「幻想」であり、いずれ抜き取られる価値設定に過ぎないのではない

だろうか。

                          (つづく)


「世界限界論と力への意志」(三)  

2019-01-08 03:03:50 | 「世界限界論と力への意志」

          「世界限界論と力への意志」

 

                 (三)  


 「イデア」「神」そして「科学」と、それらは我々の理性が「真理」を

追い求めて得た「価値」であったとしても「真理」そのものではない。何

故なら「真理とは幻想なり」であるからだ。「真理」とは永遠不変である

限り、変遷流転する生成の世界は固定化した「真理」をすり抜けていく。

こうして「イデア」も「神」も変化する生成の世界にそぐわなくなった。

ただ、我々は「イデア」も「神」も彼岸へ追い遣ったが、「科学」だけは

此岸にとどまっている。「イデア」も「神」も我々にとっては目的であっ

たが、「科学」は手段であるからだ。彼岸に奉り上げた「真理」に対して

は為す術はないが、此岸にある「科学」に対してはまだ為す術があるので

はないか。つまり、科学的認識をもっと自然により添うように改めること

はできるのではないか。我々は、これまであまりにも自然全体(生成とし

ての世界)に対して無関心でありすぎた。それは自然があまりにも広大だ

ったので許容されてきたからだが、近代化がもたらしたグローバリゼーシ

ョンによって今や世界は「外部」を失い成長は限界に達しようとしている

。押し寄せる近代化の波は限界の壁にぶつかって逆流となって世界に襲い

かかろうとしている。もはや何をするにしても、いや、すでにしているこ

とであっても、科学的認識は「世界の限界」を考慮せずに展望することは

許されない。つまり、科学的認識は生成の世界により添った「生成のため

の科学」でなければならない。つまり、これまでの科学的認識を「世界の

限界」の方の視点から、つまり生成の世界からもう一度認識し直すこと、

「リサイエンス」(Re-Science)が求められているのではないだろうか。

                         (おわり)