「夢」

2013-06-30 06:05:34 | 短編



        「夢」


 一か月くらい前だったか、大概の夢は目覚めと同時に忘れてしま

うんですが、そう言ゃあこの頃は、若い頃に比べて夢を覚えている

ことが多くなったといま気付きましたが、多分、現(うつつ)も残り

少なくなると生理的に夢の世界に親しむようになっていくからかも

しれませんが、その夢だけはしばらく頭から消えませんでした。

 何をしていてだったか忘れましたが、とにかく言葉の意味が解ら

ない。そこで国語辞典を開いて調べると、仮に「等閑」という言葉

とすれば、「等閑」は載っているのでですが肝心の意味が空白なん

です。「等閑」の前後の言葉の意味は何か書かれているが「等閑」

だけが何も書かれていない、抜けている。「あれ?」と思って、パ

ソコンの前に座ってキーボードを打つと、同じように意味だけが空

白だった。「何で?」と思いながら、「そうだ!図書館へ行こう」

と、図書館まで行って広辞苑を開いてもまた意味が載っていない。

とにかく、そんなことを延々と繰り返しているうちに目が覚めた。

 目が覚めても「どうして?」という思いだけは残った。そこで礑

(はた)と気付いた。つまり、自分の知らないことは夢の中でも知る

ことは出来ないんだ。性に目覚めた思春期のころ、夢の中で好きな

女性と抱き合いながら、いざ性交しようと彼女の股間を見るとモザ

イクがかかっていた。それでも目覚めたらどうしてか射精していた。

さすがに「等閑」の意味にはモザイクはかかっていなかったが、夢

の中では記憶にないことは現れないのだ。たぶん、私の夢の中に

現れる外人は日本語しか話せないに違いない。それが事実だとす

れば、たとえば夢の中に神様が現れてお告げを与えたなどというの

は、実は、性欲に促されて射精する夢精のように、強い願望から生

まれる妄想だろう。つまり、こう言えるのではないだろうか、夢が現

実の様々な拘束を遁れて如何に奔放に世界を創ろうとしても、記憶

を超越することはできない。われわれは想像力にしても何と現実に

縛られているのだろう。いやいや、そもそも想像力というのは現実か

ら派生するのであるから、現実と繋がらない想像など意味がない。

ただただ許せないのは、私の想像力が記憶の空白を補いもせず

にいい加減に、つまり「なおざり」に、否、待てよ、この場合は「おざ

なり」だっけ?ちょっと待って下さい、いま辞書で調べますから。

「あれ?」


                             (おわり)






「あほリズム」 (316)

2013-06-26 00:18:18 | アフォリズム(箴言)ではありません



          「あほリズム」


           (316)


   世の中の仕組みを簡単に言えば、急成長している会社はブラックで、

  従業員のことを考える会社は経営に苦しんでいる。

   それを従業員の方から言えば、仕事が増えても給料は増えないのが

  ブラックで、仕事が減っても給料は減らないのがいい会社なのだ。

    たぶん、私はどちらでも勤まらない。

  

「捩じれた自虐史観」①

2013-06-23 03:23:32 | 「捩じれた自虐史観」



       「捩じれた自虐史観」①



 この国の国粋主義者たちは殊更我が国の伝統文化にこだわります

が、ただ、彼らは愛国心を訴える時に決まって隣国への批判を伴う

のはどうしてだろうか? しかし、わが国の伝統文化を語る時に、

たとえば、われわれの死生観の原点である仏教思想にしろ、社会道

徳の基である儒教道徳にしろ、国政を担う官僚制度にしろ中国の科

挙制度を真似たことは疑わざる事実で、さらに言えば、この文章を

構成する文字は「漢字」で記されている。ということは、わが国の

文化は隣国からの伝承なしには何一つ築かれなかったといっても決

して過言ではない。つまり、中国や朝鮮半島の文化を蔑ろにしてわ

が国の伝統文化を語ることなどできないはずだが、ところが、彼ら

はわが国の伝統文化を守れと言いながら、一方で、その伝統文化を

もたらした隣国を賎しめる。

 幕末に到って、武家支配の封建制度が開国を迫る欧米列強からの

脅威によって揺らぎ、否応なく近代社会への転換を余儀なくされ、

明治維新とは伝承してきた伝統文化を放棄することに他ならなかっ

た。国家アイデンティティーを失いかけた国民は俄かに祭り上げら

れた天皇の下で近代社会への船出を果たしたが、そもそも近代社会

とは自由経済を育む自由社会が生まれなければならないが、武家支

配に天皇制が取って代わっただけの社会は、建前だけの四民平等、

しかし、本音は身分制が残ったままの封建社会、そして雪崩のよう

に押し寄せて来る近代文化と、国土の自然と調和した伝統文化、矛

盾する思想が混然一体となったまま天皇制の下で近代化を推し進め

てきた。簡単に言えば、古い器に新しい水を注いだ。それは、ヨー

ロッパの国々が新しい時代を生むために古い社会を壊して構造転

換(レジームチェンジ)を図ってきたことに比べれば、我々はほとんど

移植手術によって近代化を成し遂げた。しかし、移植された近代文

化は伝来の文化には馴染まない。こうして、われわれは移植された

身につかない近代文化と先人からの伝統文化との矛盾に今も悩ま

されている。もっと分り易く言えば、ヨーロッパの人々は、どんなに社

会が混乱しても、どこかの国の評論家が真顔で言うように、王政へ

の復古(天皇制)や騎士道(武士道)精神を復活させるべきだ、などと

は決して思わない。しかし、われわれにとっては移植された文化が

体内に入れられた異物のように感じられ、その度に本来の自分自

身を確かめようとする。だが、近代文明が個人主義をもたらしたと

するなら、近代社会では宗族主義や序列秩序といった古い道徳が

廃れていくのは必然である。個人の自由を認め平等を優先すれば

自ずと社会ヒエラルキーが崩壊するのは目に見えていたことだ。孤

独(ニヒリズム)に耐えられなくなった個人は原理主義に回帰する。

如何に技術を真似ることができても目に見えない意識までも変えら

れないからだ。つまり、移植された文明は機能として役立ってもそこ

から新たな文化は生まれて来ない。確かに伝統を持たない文化から

新たな芽は生えない。しかし、年功序列や終身雇用といったヒエラル

キッシュな社会制度は、すでに企業の成長がいつまでも存続しえな

い変化の激しい時代に対応できなくなっている。ところが、われわれ

は機能としての社会制度すら伝統文化が足枷となって革めることが

できない。つまり、われわれは馴染まない近代社会とその反動から

生まれる伝統回帰の間を行ったり来たりしているだけで何一つ精神

と呼べるものを産めなかった。

 話しを維新前夜に戻すと、わが国の有志たちは欧米列強によって

迫られた開国の要求などよりもまず彼らが築いた西洋文明に驚かさ

れた。それまでは遠い世界だった西洋諸国の人間がアジアを植民地

にするためにいとも容易くしかも挙って絶海の大海原を越えてきた

その進化した技術力に驚愕した。それまで鎖国政策の下で太平の世

を営んでいた人々にとって、それは天地を揺るがすほどの恐怖だっ

たにちがいない。いったい、彼らは何を手に入れたのか?西洋文明

に対する恐怖と関心、これこそがわが国の国民の心に最初に刻まれ

た「自虐的」感情 (コンプレックス) だった。

                                   (つづく)