「思っていること」

2008-09-26 13:02:28 | 赤裸の心
「思っている事」


 地球環境の問題はグローバル経済の進行と同時に顕著化して、

我々は生存環境か経済発展かの逃げ場の無い選択を迫られてい

る。とは言っても、中国を始め近代化に遅れた国々に環境を守れと

言える国があるだろうか?こうして、我々が薄々気付いていた事

が、つまり飽食のツケを支払わされる時代がやって来たのだ。

我々が追い求めてきた豊かさはピークを過ぎたのかもしれない。

大袈裟に言えば文明の転換だ。それは豊かさを支えていた前提

が崩れたのだ。ひたすら上を目指していたが、土台が侵食されて

いたのだ。果たして我々は手にした豊かさを手放して、この文明

から身を引くことが出来るのだろうか?もう一度大地に戻って土

を耕す事から始められるのか?豊かさの誘惑を振り払って、つま

り発動機を使わずに、自らの手と足だけで賄うことが出来るのか

?何れにせよ、豊かさを支えていた大前提が崩れようとしている

のだ。

 折しも、アメリカ経済は未曾有の経済損失が明るみになって、

損失のグローバル化をも先導した。アメリカが世界経済のヘゲモ

ニー(主導権)を握って金融のグローバル化を推し進めたが、もは

やそれも翳りが見え始めた。それはアメリカ経済の失速と言うよ

りか、大量消費を謳歌して来たアメリカ物質文明に、地球温暖化

という憂いが立ちはだかり、豊かさへの欲望に制限が掛けられる

ことへの失望が重なって、今までのマニュアル通りには行かない

だろうという思いが、アメリカの危機をより深刻なものにしている。

我々は新たな試みや思考を模索して、地球環境という、此処で生き

る全てのものに平等にシェアされる負荷を如何にして軽減するかを

迫られている。もはや先進国は地球環境への配慮無しに発展させ

る事など出来ないのだ。放蕩の限りを尽くした者が、一転して節約

を強いられる事ほど辛い事は無い。燃費の悪いアメ車を捨て日本の

軽自動車に乗り換えるにも躊躇いがあるだろう。こうしてアメリカ経

済はしばらく内向きに終始して停滞を強いられるに違いない。世界

は環境問題によってパラダイムシフト(価値観の変化)を余儀なくさ

れるのだ。パラダイムシフトとは世界を変えることではなく、我々自

身の価値観を変えることからしか為し得ないのだ。

 さて、ご主人様を失った日本は「改革」と言い始めてから久し

いが、一体何が「改革」されたのか判然としないが、ただ、借金

だけは増え続けて、この国の財政改革とは負債を減らすことでは

無い事だけは解った。世界経済の失速が言われる中、多額の負債

を抱えて、それでも議員数を減らしたり、歳費を減額する話しに

為らないで「改革」など出来る訳が無い。民主主義とは国民の意

志で選ばれた代議員が、国民に代って政治を行うのだ。つまり、

その国の政治はその国民の質を超えて行われない。先日無くなっ

たアメリカのコメディアンは、「政治家をゴミの様に言うが、ゴミ籠

の中を幾ら捜してもゴミしか出てこない。」と言ったが、政治の責任

はその政治家を選んだ国民に負わされることだけは間違いない。

ただ、果たして国民にその自覚があるのだろうか?「政治の事は政

治家に任せて置けばいい」では民主主義は成り立たない。つまり、

民主主義とは素人(民主)による政治のことである。それがいかに

不甲斐ない政治であろうとも、まずは、我々民衆がそれを望んだの

だという自覚を持つこと、政治家を選ぶのは我々だという認識を持つ

ことから始めなければ民主主義は育たないのではないか。つまり、

どんな時であれ代議員を権力者に祭り上げてはならないのだ。幾ら

政治家の所為にしても、その結果は主権者たる国民に負わされるの

だから。

 私は民主主義とこの国の儒教道徳は相容れないと思っている。

我々のダブルスタンダード(本音と建前)は、この儒教道徳とデモ

クラシーによるアンビバレント(二律背反)にある。デモクラシーとは

国民は全て平等である。しかし、儒教道徳は身分の下の者に対し

て執拗に服従を求める。つまり、年下の者や弱い者に対してだけ

忠誠を強制する教えだ。わが国の少子化、高齢化はこの儒教道徳

の元では必然的に起こる。若くして子を持つことは年功序列の賃金

体系では、親の光でも無い限り無理だ。この国では生まれた時から

老後(年長)の為に生きているのだ。そして終身刑(定年退職)を終

えて老後を迎えて初めて自由を手にする。そんな社会に子供が増え

る訳がない。子供は遊ぶことをたしなめられて、社会に出てからの身

分(学歴)を高めようと習い事に追われ、長じては孤立を恐れて滅私

奉公を厭わず身を粉にして働いて、粉に挽かれて消えてから思い通

りの人生が始まるのだ。そんな社会では少子化は然も在りなん、高

齢化も宜なるかなである。これから生まれて来ようとする子らに、この

社会で生きる事のトライアルを行えば、間違い無く生まれて来ることを

拒絶するに違いない。

 さらに儒教社会とは閥社会である。それは身内に甘く余所者には冷

たい。東アジアの国々がいつも詰まらないことで言い争いになり、過去

を持ち出しては非難し合うのをみると、私はクリスチャンでは無いが、ヨ

ーロッパに広まったキリスト教の「博愛」の精神の偉大さが頭を過ぎる。

今やヨーロッパは多くの国が集まって一つに為ろうとしている。恐らくは

、キリストによる「博愛」の精神が無ければ生まれなかったのではない

か?我々アジアの人間は、ニーチェが言ったハリネズミの友情のよう

に仲良く為ろうとしても、お互いの針が邪魔をして抱き合えないのだ。

 儒教の祖孔子は戦乱の時代を憂い、嘗ての周公の良き時代を取り

戻そうとして、過去の秩序を蘇らせよう、後ろを向きながら進む方向を

確かめて歩いた人である。つまり、古(いにしえ)に理想を見ていた。

それは彼の巫師という家柄が影響しているのかもしれないが、儒教に

限らず仏教の末法思想にしろ、アジアの思想の底流には「世界は経る

程に悪く為る」という原理主義の思想が強く在る。それは時を経ても教

義の本質を見失うまいとする意識からであるが、いずれにしろ世が移ろ

いで行く事とは無垢が失われて穢れていく事なのだ。つまり、古いもの

が尊いのだ。このことはわが国の前例主義や、世襲制度、年長に対し

ては逆らえない慣習に現れている。だから、儒教文化からは新しい考

えは生まれない。何故なら、新しいものは古いものを破壊することから

生まれるからだ。我々が出来る事は精々「温故知新」、つまり、古いもの

からしか新しいものが生まれないのだ。それは、パラダイムシフトを理解

していても、古い文化に執着して変化を賤しむが故に新たな対応が遅れ

るのだ、いつも。

                               (おわり)
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