「ラジオ体操と共同幻想」
たとえば、マスゲームはその是非は別にして、少なくともみんな
が動作を揃えなければならない理由がある。将軍様であれ観客であ
れそのシンクロナイズされた動きを見せるためだ。また、スポーツ
ゲームを応援するサポーターが声を合わせたりチームカラーの服に
これ見よがしに袖を通すのも、私はまったく馬鹿げたことだと思う
が、と言うのも、たとえば不運にも広島カープの応援席に紛れ込ん
だりでもすれば、もはやそのゲームを楽しむことよりもメガホーン
を打ち鳴らして一球一打に立ったり座ったりする大勢のファンに邪
魔されて落ち着いてゲームを観ることなどまず出来ない。かつてはサ
ッカーにしろ野球にしろ、審判の依怙贔屓はあったとしてもホーム
だとかアウェイだとかの差はさほど気にならなかった。つまり、サ
ポーターは音無しく固唾を飲んで好きなチームを応援したものだっ
た。サポーターの応援が試合を左右するなどということはなかった。
ところが、イギリスの抑圧された労働者階級のフーリガンと呼ばれ
るサポーターが世界のスタジアムを一変させた。もはや彼らは試合
の展開だとかすばらしいプレーなど見ようとしていない。彼らはた
だ勝ことしか望んでいない。「戦争は勝たねばならない」ように試
合もまた勝たねばならない。ゲームに負けることは戦争に負けるこ
となのだ。そして、プレーヤーまでもがその風潮に煽られて「応援
よろしくお願いします」などと言って観客に媚びる。私は何故かあ
のプロスポーツ選手らしからぬショー人根性が嫌いだ。自らの実
力で栄光を手にしたスポーツ選手たちはあまりファンに媚びない
で欲しい。
かつて、阪神タイガースが「攻めダルマ」吉田監督の下で日本シ
リーズを制して日本一に輝いた時に、知り合いのトラキチの男は最
後には仕事を棄て家族を捨ててまでして応援に熱狂する姿に唖然
とした。そして、いまやそのサポーターたちの熱狂はグローバリズム
の下で、安倍晋三応援団長に率いられたオールジャパンをサポート
するために対立国との不毛な貶し合いに我を忘れて興奮する。つま
り、彼らは、もちろん相手国のサポーターもそうだが、我を忘れて熱
狂させてくれるものなら、阪神タイガースでもナショナリズムでも何だ
っていいのだ。
(つづく)