(七十一)

2012-07-11 09:13:35 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(七十一
                    (七十一)



 「個展をやらない?」

画廊の女社長から電話があった。私は一瞬喜んだが、すぐ、分に

過ぎる話しだと思った。

「まだ無理ですよ!」

と言った後で、「まだ」と言った事が恥ずかしくなった。そこで

散々言い訳をしていると、痺れを切らした女社長が、

「やりたいの、やりたくないの、どっち?」

と言ったので、私は、

「やりたいです!」

と恥ずかしがらずに言った。

「じゃ、こっちへいらっしゃい。」

女社長はやさしくそう言って電話を切った。

 私は早速こんな日の為に量販店で買ったスーツを着て、前回の

ような無重力体験はするまいと、ネクタイを締め、下ろしたての

革靴に足を入れると、まるで宇宙服を着ているような不自由さを

感じた。着慣れない宇宙服に手間取っていると、約束した時間に

は間に合わないことが判った。仕方が無いのでタクシーを拾って

画廊へ向かった。

「急ぐようでしたら首都高使います?」

と言うドライバーの誘いに乗って、ネクタイで締められた喉元が

気取って「ええ。」と洩らしてしまった。ところが、間もなく出

口だという所で車の流れがバッタリと止まり、

「どうも事故みたいですね、動きませんわ。」

と他人事みたいに言われた時には、ドアを開けて拘束道路を走ろ

うかと思った。女社長にK帯をして事情を説明すると、彼女も急

ぐので出掛けるが、事務員が応対するとのことだった。

 約束の時間に大幅に遅れて画廊へ入ると、女社長は既に居なか

った。油絵が隙間無く並んだギャラリーの奥で、事務の女性が私

を待っていた。私が謝ろうとすると彼女は気さくに、

「いい、いい。」

と何度も手を振りながら言った。私は救われた気持ちで、

「社長は、何処へ行かれたのですか?」

と聞くと、女事務員はことも無げに、

「フランス。」

と言った。

「フッ、フランス!」

 その女事務員に依れば、女社長は年に数回はフランスに行くら

しい。もちろん仕事らしいが、日本では無名の画を持って行き、

馴染みの画廊に預けて、そして向うの目ぼしい画を買って戻るの

だ。フランスは今や日本ブームで、こっちでは価値の無い掛け軸

や版画が驚くような高値で売れるらしい。さらに、向うでは贋作紛

いの絵画が日本では儲けを荒くしても捌(さば)けるというのだ。

事務員はまるで阿漕(あこぎ)な商売を告発するかのように密か

に教えてくれた。女社長とは差の無い年恰好だったが、それでも

女社長に気を遣ってかかなり地味な身なりだった。ただ驚くほど

ざっくばらんな女性だった。

「コーヒー飲む?」

私が何も言わない内に、

「いいのよ、気い遣わなくっても!」

「それじゃあ、頂きます。」

私は完全装備の宇宙服が全く役に立たなかったことに虚しさを覚

えたが、更に彼女のくだけた応対がその虚しさを際立たせた。

「タバコ吸っていい?」

女事務員が聞いてきた。

「あっ、いいですよ。」

「貴方、吸わないの?」

「今は止めてます。」

「あらっ!じゃあ吸ったらいけない?」

「いいえ、構いません。どうぞ吸ってください。」

私はマンガを描いている頃にタバコを吸わずに居れなくなり、徹

夜をして朝方には頭が暈やけているのが分かるようになってから

は何度も止めた。つまり禁煙することが出来なかった。ただ、出

先とか絵の仕事をしない時は我慢が出来た。

 彼女は私の前でタバコを燻らせながらテーブルに契約書を広げ

て個展の説明を始めた。個展は三ヵ月後だった。あらましの説明

の後サインを求められた。

「驚いたでしょ、個展するなんて。」

「ええ、」

「暇なのよ、ずーっと。」

「それで!」

彼女が言うには、この夏以降、急にギャラリーの予約が減ったら

しい。空けたままでは勿体無いので、普段は貸さない値段で勧め

ているがそれでも埋まらなかった。「それで!」私はもう一度言

った。恐らく今のところ私の後には誰も借りる者が居ないのだ。

それでも、女社長は水墨画に関心の高いフランスなら私の画でも

売れると踏んでいるらしい。だから今回のフランス便には私の画

も送ったという。つまり日本では儲けにならないが、フランスな

ら騙せるという魂胆なのだ。女社長が私に「売るのよ!」と言った

意味が解った。

「期待されてんだから、頑張って。」

ただ、経歴が薄いから個展の一度くらいはした方がハッタリが

掛け易いということで決まったのだ。私の個展はアリバイを作

る為のものだった。つまり、極道が箔を付ける為にムショに入

るようなものだった。私はもう何も言わずにネクタイを緩めて

、彼女から貰ったタバコを何日振りかで吸った。

                               (つづく)

(七十二)

2012-07-11 09:12:41 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(七十一
                    (七十二)



 サッチャンからの電話だった。

「バロックから連絡が無いんだけど、何か知ってる?」

私はつい先日連絡があったことを告げた。

「えっ!」

彼女は絶句した。私も言った後で、バロックがサッチャンには何

も知らせてないことを知った。

「信じられない!」

そう言ってからサッチャンは、バロックのことを聞き出そうとし

た。サッチャンは私にとっては謂わば恩人で、乞われれば言わざ

るを得なかった。私は恐る々々言った。

「路上しばらく止めるって。」

「えっ!、どうして?」

彼女のツッコミは早かった。

「さぁあ?」

私はバロックがどうしてサッチャンにもその事を言わなかったの

か考えていた。

 サッチャンはヒット曲の後、イメージチェンジをした新曲を出

した時、ある音楽関係者との熱愛が報じられた。私も関心を押さ

え切れずにコンビニでその雑誌に載った写真を見た。深夜の物陰

で人目を憚らずに抱擁する男女の姿が写っていたが、その女性が

サッチャンかどうかはヘソのピアスが見えなかったのではっきり

しなかった。相手の男は、雑誌によれば、既婚者だった。その頃

は、サッチャンも忙しくしていて、バロックにも私にも事の真意

を伝えることなどなかった。いまさら蔽った土を穿り返して覗き

込むつもりなど無かったが、私は、恐らく私以上にバロックも、

もどかしく思っていた。ただ女性は、否、サッチャンは土で蔽い

隠してしまえば後は何も無かった様に振舞えた。「あっ!」私は

、何故バロックが急に東京を去ったのか判った。バロックが東京

を出たのは将にその頃だった。

「ねえ!聞いてる?もうっ、何か知ってることがあれば教えてよ

。」

「あっ、ああ・・・。」

私は何を言っていいか判らなくなって、もう一度順序立てて考え

てからでないと、思っていることを軽々しく口にしてはいけない

と思い、話しを逸らした。

「あっ、今度、個展をする事になったよ。」

「へえーっ、おめでとう。すごいわね!」

「ありがとう、ほんとに君には感謝してる。」

「何時?」

「まだまだ先、来年だよ。」

「必ず行くからね。」

「ありがとう、決まったら教える。」

私のチェンジは成功したかに思えたが、

「バロックも知ってるの?」

「あっ!知らない。決まったばかりだから。」

「ちょっと、バロックのことちゃんと教えてよ。」

「ええっ!」

 私は、女社長から個展の為に二十号(727×530mm)を超える

大きな絵を描くように言われた。それまでは六号(410×273mm)

までの絵しか描いた事がなかったので、同じ大きさの絵ばかりでは

詰まらないと言われて安請け合いをしてしまった。ところが、これ

が全く上手く描けなかった。ただ大きくすればいいという訳にはい

かなかった。短編小説なら纏まりのある話しも、広げてしまったが

故に辻褄が合わなかったり、明らかな嘘が露呈したり、まるでこの

小説のようになってしまった。ただ、作家にしろ画家にしろ、凡そ

創造に携わる者にとって無くては為らぬ能力とは何かと言えば、嘘

を上手く吐く能力である。サッチャンからの電話は、有りもしない

空間を墨で塗りつぶしながら、どうすれば上手く騙せるかと苦心し

ている時だった。

「ちょっと、会えないかしら?」

電話での遣り取りにもどかしくなったサッチャンがそう言った。

サッチャンは元の学校へ復学していて、その学校はこのアパート

のすぐ近くだった。それでも、私はメールの交換をしても、会い

たいとは思わなかった。それはバロックに遠慮してというよりも

、ホームレスだったという負い目が、サッチャンに限らず若い女

性に対してあった。もちろん男としての性的欲望は寝てる間に満

ちて、朝起きるとゲージの針は上を向いていたが、その欲望を充

たす相手は何時もバーチャルだった。私はこれを「自虐視姦」と

呼んだ。

「校門の前に居るから。」

私は、恩人の命令に逆らえず、サッチャンの学校へ向かった。

                               (つづく)

(七十三)

2012-07-11 09:11:01 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(七十一
                   (七十三)



 もう日は傾きかけていた。馴染みの商店街には、授業を終えた

ばかりの学生たちが行き先の定まらない歩き方で、行き先の定ま

った社会人の往来の邪魔をしていた。私は未だにこの学校が何を

教える学校なのか判然としなかった。以前は電気系の専門学校だ

ったが、今では鍼灸師からマンガ、ロボット、音楽、バイオ技術

、タレント、自動車整備、ダンス、建築、声優、IT、フィットネス、

「フィットネス?」、遂には宇宙システムまで学べるというのだ。

さすがに介護福祉士は儲からないからか早々に敏く撤退して

いたが、凄いと言っちゃあ凄い。

 ミュージックアーティスト科のサッチャンが待っていた。

「アート!こっち!」

「あれっ!気付かなかったよ。」

サッチャンは人気アーティストの面影すらなく、普通の学生に模

して地味な上着にジーンズという格好で、呼び止められなければ

判らなかった。私は直接には言えなかった感謝の言葉を言って頭

を下げた。それから、バロックが送って来た十数カットの写メを

見せた。サッチャンは、私からK帯を奪ってしばらく懐かしそう

に見ていた。ただ、二人が佇む校門辺りは、学んだことを消化

できずにいる学生達が、奥の「大腸」から続々と押し出されて

来て邪魔になった。

「場所を変えようか?」

私はそう促してサッチャンを見ると、サッチャンはK帯の画面を

食い入るように見ながら、彼女は眼に涙を溜めていた。

 サッチャンと私は、商店街の横道にある喫茶店に入った。私は

、バロックから聞いたことを思い出しながら話した。サッチャン

は、私のK帯に送られてきた写メを見ながら聞いていた。ただ、

随分彼女は変わってしまった。嘗て一緒に路上で唄っていた頃の

必要以上に笑っていた天真の明るさが消え、大人になったんだと

思ったが、それにしては暗かった。

「何でこんな所へ行っちゃったのかしら?」

彼女はたぶん山の中の風景を見ながら、そう言った。私は、「あ

んたの所為じゃないの!」と言いたかったが、言える訳が無かっ

た。

「恐らく世の中のことを予感していたんじゃないのかな。」

「えっ!世の中の、何を?」

「破局を。」

サッチャンは、突然顔を上げて私を睨んだ。

「わかる訳ないじゃん。」

私はその目の厳しさに思っていることが言えなくなった。

「そうか。」

サッチャンはK帯を折って私に返した。そしてテーブルに肘をつ

いて手の平に顎を載せ窓の外を眺めた。しばらく話しが途絶えた

。そのきつい眼付きと精彩を失った表情から、私はサッチャン

に何かあったんだと直感した。そして、私は何とか心を開いても

らおうと思って話しかけた。

「サッチャンも、もう卒業じゃないの?」

「私、もうサッチャンじゃないのよ、チカコよ。」

「あっ!そうか。ゴメン、ゴメン!」

それでも私の恩人を放って置く訳にはいかなかった。

「えっ、それじゃあ、もう歌わないの?」

彼女は何も応えなかったが、その一言が彼女を揺らした。外を眺

めている眼の目尻から涙がこぼれた。そして急に顔を両手で蔽い

ながら、周りを憚らずに大きな声で泣きはじめた。私は何故そう

なったのか判らず驚いた。

「どうしたんだよ?サッチャン!いったい何があったんだよ?」

私は思わず彼女の肩に手を架けた。

「君には感謝しているって言っただろ!力になれないかもしれな

いけど何でも言ってくれよ!一緒に歌った仲間じゃないか!」

ただ彼女は顔を伏せて、泣きじゃくるばかりだった。

                                  (つづく)

(七十四)

2012-07-11 09:10:06 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(七十一
                 (七十四)



 サッチャンによれば、歌手としてデビューするにあたって、相

談にのってくれた音楽プロデューサーと親しくなり、彼のお蔭で

ヒット曲を出すことも出来たが、やがて週刊誌に交際を暴かれて

、その時に初めてその男には妻子がいた事を知ったというのだ。

それでも仕事の付き合いもあって、彼女の方から別れを言い出

せずにいたら、遂にはお金を用立てて欲しいと言われ、恩も有っ

て断る訳にもいかず、直ぐに返すという言葉を信じて、彼女が身

を粉にして稼いだ貯金をその男に預けてしっまた。ところが、期

日が過ぎても約束を果たさず、彼女は学校へ戻っていたので実

入りも無く、仕方なく窮状を訴えて返済を迫ったが、「実は」とそ

の男が言うには投資の失敗で借金があって、今すぐには返すこ

とが出来ないと言うのだ。更にその男の借金は昨今の金融不況

で深みに嵌まり、すでに返せる額では無く、とてもサッチャンまで

廻って来るとは思えなかった。

「諦めるしかないよ。」

そう言うと彼女はまた泣き崩れた。そのことでその男との縁も断

ち、彼女が卒業後に考えていた歌手への復帰も道を断たれた。

しかしそんなことよりも、生活を支えていた貯えを無くし、今日明

日の凌ぎにも事欠いて、途方に暮れて私に電話をしてきたのだ。

「その男知ってるよ、小室哲哉って言うんだろ。」

その時、初めてサッチャンが笑った。私は本当に僅かのお金しか

持ち合わせが無かったが小銭も合わせて彼女に渡した。そして、

当座に急くお金は必ず振り込んでやると言って彼女を安心させた

。しかしホームレスだった私に、実はそんなお金の余裕など無か

った。ただ、私は何があっても彼女を見捨てる訳にはいかなかっ

た。そこで、画廊の女社長に頼むしかないと思った。落ち着きを

取り戻したサッチャンが泣き腫らした目で言った、

「バロックには言わないでね。」

号泣による昂揚で紅潮した顔に、目鼻口から垂れた分泌液を意

に介さず、いや、気付かずにいたサッチャンは、淀んでいた血行

が堰を切るように流れ始めて、かつての明るさが生き返った。私

は生憎ハンカチを持ち合わせていなかったので、いや、ハンカチ

など忍ばせたことがなかったので、使わなかったオシボリを自慢

の手捌きで「パンッ!」と破って、久々に改心の音がした、サッチ

ャンにさり気なく渡した。

 私は早速、女社長に電話をした。

「お話があります。」

「あら?電話してくるなんて珍しいわね。何かしら?」

「会ってお話ししたいのですが。」

「ちょうどよかった、私も話しがあるの。」

「えっ?そうですか。」

そんなわけで画廊へ向かった。もう、宇宙服は着ないと決めてい

た。私はホリエモンのように、たとえノーベル賞の授賞式でもT

シャツで行ってやる、選ばれたら。

 「で、話しって何?早く済ましましょ。」

女社長が席に着くなり言った。日本の女性経営者は、まるで脅迫

されているかのように忙しく振舞うが、彼女も漏れずにセッカチ

だった。彼女には手の掛かる子供が居て、家庭と仕事の掛け持ち

で忙しいのは解るが、どうもそれだけでは無いようだ。女性が独

りで手練た男たちに伍して営みを経るとなると、弱みを見せて覚

(さと)られては困る事も少なくない。要らぬ詮索を与えない為

にも仕事に託(かこ)つけて身をかわすのだ。こうして女社長も

「忙しい!」とか「時間が無い!」と言って、厄介なことが起こ

りそうになると逃げ道を用意した。つまり、私の話しを警戒して

いるのだ。

「・・・。」

私が話しを切り出せないでいると、苛立つように彼女が言った。

「じゃ、私の方からするね。」

「どうぞ。」

「はい!これっ、フランスのお土産。」

そう言って小さな紙袋をくれた。私が礼を言う間もなく、

「貴方の絵、フランスで評判よかったわよ。」

「ホッ、ホントですか!」

「ノアールパンチュールって気に入ったみたい。」

「ルノアール?」

「違うわよ!『黒い絵』って意味。」

「あっ、なるほど。」

「よかったわね。もっと送れって言って来てるから、頑張って描

きなさい。」

「はい!」

「それで、貴方の話しは?」

「あのー、お金のことなんですけど・・・。」

私の絵はネットオークションで落札されて以来、未だ一度も入金

が無かった。

「未だ払えないんだけれど、幾ら要るの?」

私は断られる事を覚悟して、もし断られたら借りるつもりで、

思い切って一桁上乗せした額を告げた。

「いいわ、振り込んでおくわ。」

私は心の中で「えーっ!!」って叫んだ。

                              (つづく)

(七十五)

2012-07-11 09:09:09 | 「パソコンを持って街を棄てろ!」(七十一
                     (七十五)



 女社長からのお土産は、とぐろに巻かれたサン・ローランのネ

クタイだった。私はホテルでの失態があったので、私の服装に対

する当て付けかと深読みせずには居れなかった。Tシャツでノー

ベル賞の授賞式に出席する計画は考え直さなければならない。サ

ッチャンへの振込みは帰り道に済ませた。その事をK帯で伝える

とサッチャンはまた泣いた。

「ちゃんと学校は卒業しなきゃダメだよ。もう少しなんだから。」

「ありがとう。」

「何言ってるの!礼を言うのは僕の方だよ。これはサッチャンが

、あっ違う、チカちゃんが僕にしてくれた事じゃないか。」

「ウッ、ウッ。」

彼女の笑い方は変わっていたが、泣き方もおかしかった。私は

恩返しが出来た事で気分が晴々しくなった。かつてホームレスだ

った頃に、私を襲ったクリスマスのイルミネーションも、まるで

祝福するかのように美しく燦いていた。澄みきった大気が漆黒の

宇宙をさらに遠ざけて、ツリーの頂点に輝く「ベツレヘムの星」

を際立たせた。そして何処からとも無くクリスマスソングが聴こ

えてきた。

 私は子供の頃、イエス・キリストのことが好きだった。それは

母の誕生日が偶然にもイエスと同じだったからだ。ただ、私は決

して偶然などと思っていなかった。子供心にその繋がりに何か深

い意味が在ると信じてた。母は、私にとってイエス以上に特別な

人だった。ただ、貧しい暮らしの中で、母の誕生日もイエスの誕

生日でも、何かが起こるという事はなかった。母も自分の誕生日

など無頓着で、そんな洒落たことが出来るほど恵まれてはいなか

った。クリスマスはテレビの中と家の外の出来事だった。私が友

だちのことを羨ましそうに話すと、人と比べることを厳しく叱責

され、「恨みを持つこと」を強く諌められた。ある年のクリスマ

スの日に、12才で始めた新聞配達のお金で、母の誕生日とクリ

スマスを兼ねて、初めて「丸のまま」のケーキを買い、母の誕生

日を祝ってあげた。ロウソクに火を点けて、「ハッピーバースデ

イ」を歌うべきか、「聖この夜」を歌うべきか迷ったが、まずは

、手拍子で「ハッピーバースデイ」を歌っていると、突然、母が

号泣した。私もつられて泣いてしまい何とも悲しいクリスマスに

なってしまった。この季節に為ると、そして「聖この夜」を聴く

と、私はあの聖夜のことを思い出す。

 年を重ねて、私は「汚れちまった」が、絵を描くことが好きだ

ったので、よく図書館で大きな美術図鑑を観ていた。そこで、西

洋絵画に描かれたイエスの表情に強い衝撃を受けた。イエスの表

情はどれもペシミスチック(厭世的な)だった。もしも、神の存

在など信じる者がいないとすれば、それは、イエス・キリストこそ

ではなかったか?彼が説いた博愛とは救いの無い世界にこそ意

義が在るのではないか。約束の地に召されんが為に神と契約を交

わし、神を信じる者だけが罪を赦されるというのであれば、それは

謂わば取引だ。神など存在しない、救いなど無い、それ故に人は

助け合わなければならないのではないか。神が不在でなければ

イエスの説く無償の愛は成り立たない。私は伝え聞く人間キリスト

の生き方にペシミストの影を見る。布教の為に弟子達に因って救

世主に祀り上げられ、捏(でっ)ち上げられた言い伝えのイエス・

キリストで無く、争いの絶えぬ世界に絶望し、神に依る救済では

なく他者への愛に由ってこそ救われなければならないと説いた

「人間」キリストを尊敬する。

 神の存在の有無はどう有れ、つまり、生きてようが死んでよう

が、人間はこの世界で「共生」しなければならない。「共生」と

は自分だけが救われることではない。「共生」とは苦しみや歓び

を分かち合うことである。神の意志に通じた者だけが救われるの

であれば「共生」は破綻する。救いの無い暗澹たる世界だからこ

そ、人は助け合わなければならない。もしも、神の意志が世界の

平和にあるとすれば、神は御座をお立ちに為ってお姿をお隠し

に為られたに違いない。そして、神の救済が失われた世界こそ

が、人は苦しみを分かち合って、自らで救いを見出す縁(よすが)

とするべきではないのか。つまり、神の不在こそが我々をより

敬虔な祈りの気持ちへと向かわせるのではないだろうか。

無神論者といえども祈りの気持ちを失った人ではないのだ。

 高層ビルの玄関横に飾り立てられたツリーの下から、大きなバ

ッグを背負った若者が俯きながら歩いて来た。彼は行くあても無

く彷徨うホームレスの若者に違いなかった。彼は全身を絶望に侵

されて、眼は辺りを見ようともせず、足取りは重かった。それは

嘗ての私だった。そして明日の私かもしれない。私は堪らなくな

って声を掛けた。

「あのー、すみません!」

彼は私の呼び掛けに一毛も応えなかった。私は更に大きな声で、

「あのー、ちょっといいですか?」

やっと重い足を止めて無言で私を見た。

「君は、今夜寝る場所が在るのかい?」

彼は私を見ずに小さな声で言った。

「大きなお世話だ。」

「全くその通りだけど、もし、よかったらこれを役立てて貰えな

いか?」

そう言って、私は下ろしたばかりの一万円を財布から抜いて、彼

に差し出した。すると、彼はしばらくそのカネを見ていたが、

「どういう意味?」

「誤解してもらっちゃあ困るけれど、つまり、これは君のものな

んだよ、本当は。」

「はあ?」

「僕は君のものを間違って手に入れたんだ。君から社会的な権利

を奪ったのは私達だ。全く済まなかった。どうか、気にせずにこ

れを受け取ってもらえないだろうか。」

すると彼は素早くそのカネを奪い、反対の手を拳にしてこっ酷く

私の顔面を殴った。

「おいっ!これだけじゃないだろ!持ってるものを全部出せよ!」

そう言って彼は、眼をギラつかせて、私の財布に手を伸ばした。

「おおっ、全くその通りだ!君にはこのカネを奪う正当な理由が

ある!何故なら、君は社会から生きる権利を奪われたのだから。

社会の規範に従う必要など全くない。」

その男は私の財布を奪い、軽い足取りで走り去った。

                                 (つづく)