仮題「心なき身にもあわれは知られけり」(10)

2022-05-14 14:09:00 | 「死ぬことは文化である」

    仮題「心なき身にもあわれは知られけり」           


           (10)


 ニーチェ=ハイデガーは、「世界(存在)とは何であるか?」と問

うことは、「何であるか?」と問う「人間とは何者であるか?」を

問うことにほかならないと言う。確かに、われわれが世界をどのよ

うに把握するのかはわれわれの能力、つまり形而上学の圏内でしか

把持できない。だとすれば、人間の能力の変化に応じて世界(存在)

に対する認識も変化する。近代人のわれわれは類人猿の頃よりも世

界についてはるかに多くのことを知っている。つまり「世界(存在)

とは何であるか?」という問いに対する答えの変化こそが人間進化

の足跡だと言うことができる。ところで、「人間とは何であるか?」

と問えば、何れ消え去る「仮象」の存在でしかないと答えることがで

きる。すべての生命体にとって逃れることができない「死」は忌むべ

きことにちがいない。「死」に対する想いが「ニヒリズム(虚無主義)」

を誘発するとすれば、「死」から逃れられない人間の歴史とはその底

流に脈々と流れる「ニヒリズム歴史」であると言うことができる。

キリスト教の世界観とは「ニヒリズムの歴史」に対する抗いの歴史に

ほかならない。そして日本では、自らも自死を決した作家蓮田善明が

、ニ十四歳で非業の死を遂げた大津皇子に「死ぬことは文化である」

と語らせた「青春の詩宗―大津皇子論―」は、のちに三島由紀夫にも

大きな影響をあたえた。「死ぬことは文化である」とは、逃れること

の出来ない底流の「ニヒリズムの歴史」の上を流れる清廉たる本流と

しての日本文化のことである。「死」を尊ぶ日本文化は底流を流れる

ニヒリズムの歴史」に漱(すす)がれて穢(けが)れを祓(はら)う。つま

り「死」を誘う「ニヒリズム」とは文化を浄める源流なのだ。                         

                         (つづく)


仮題「心なき身にもあわれは知られけり」

2022-05-08 12:13:28 | 「死ぬことは文化である」

    仮題「心なき身にもあわれは知られけり」           


           (9)


 ニーチェは、「ニヒリズム」を「最高の諸価値が無価値になると

いうこと」と捉え、それは《目的》《統一》《真理》という三つの

《理性のカテゴリー》への信が「ニヒリズム」をもたらす原因であ

ると結論する。

「要するに、われわれが世界に価値を嵌め込むために用いてきた《

目的》、《統一》、《存在》というカテゴリーが、再びわれわれに

よって世界から抜き取られる――すると世界は、価値の相を呈す

ることになる・・・」。

 つまり、われわれは世界(存在)をわれわれにとって《意味(価値)》

のあるものとして認識しようとするが、それは「自分自身を事物の

意味と価値基準として設定すること」にちがいなく、「相も変わら

ず、人間の方もない素朴さである」とニーチェは言う。つまり、

そのような認識は世界を擬人化して歪められた世界(存在)観でしか

ないと言うのだ。つまり、「形而上学は擬人化であり――人間の像

にかたどって世界を造形し直観することである。」

                       (つづく)


仮題「心なき身にもあわれは知られけり」(8)のつづき

2022-05-07 12:27:44 | 「死ぬことは文化である」

     仮題「心なき身にもあわれは知られけり」

 

           (8)のつづき

 さらに、

 『第二節の文言は次の通りである――これら三つのカテゴリー

で世界を解釈することはもはや許されず、この洞察のあとで世界は

われわれにとって無価値となり始めるということを一旦われわれが

認識したときには、われわれはこれらによせるわれわれの信はどこ

から由来するのかと問わざるをえない。これらへの信の廃棄宣言を

することが可能であるまいかと試みてみよう。われわれがこれら三

つのカテゴリーを無価値化してしまえば、それらを万象に適用しえ

ないということが立証されても、それはもはや万象を無価値化する

根拠ではなくなる。結論。理性のカテゴリーへの信がニヒリズムの

原因である。――われわれはまったく虚構された世界に関係するカ

テゴリーを基準にして、世界の価値を測定してきたのだ。

       *

 最終結論。われわれは今までさまざまな価値によって、最初は世

界をわれわれにとって貴重なものたらしめようと試み、最後にはそ

れらが世界に適用されえないことが証明されたとき、同じそれらの

価値によって世界を無価値化するに至ったが、これらすべての価値

は、心理学的に検算してみれば、人間的な支配形象の維持と昂揚の

ための有用性の特定の遠近法的展望の帰結であり、それらが誤って

事物の本質のなかへ投影されただけのことである。自分自身を事物

の意味と価値基準として設定することは、相も変わらず、人間の

方もない素朴さである」。』 

(ハイデガー著「ニーチェ・Ⅱ」平凡社ライブラリー、3ヨーロッパ     p328『新たな価値定立』)


仮題「心なき身にもあわれは知られけり」(8)

2022-05-04 18:01:48 | 「死ぬことは文化である」

      仮題「心なき身にもあわれは知られけり」           


           (8)

 ニーチェは死後に編纂された遺稿集の断片一二番で《宇宙的諸価

値の崩落》という表題がつけられたAとBという長短不同の二つの

節に区分され、結びの付言によってまとめられた「ニヒリズム」に

関する断片を残している。すこし長いですが、ハイデガー著「ニー

チェ・Ⅱ」より、断片一二番Aを以下に写します。尚、本書で傍点

された文字は太文字にしました。

       *        *        *            

           《宇宙的諸価値の崩落》

心理的状態としてのニヒリズムが現われざるをえないのは、第一

に、われわれがすべての生起のうちに、そのなかにはない〈意味〉

を探し求め、そのためについには探究者が気力を喪失するときであ

る。そのときニヒリズムとは、長い間の精力の浪費の意識、《徒労

》の痛恨、不安定、また何らかの方法で気を晴らし、何ものかで心

を鎮める機会の欠如のことである。――あまりにも長くおのれを欺

いてきたかのごとき自己羞恥のことである・・・その意味は、すべ

ての生起における倫理的最高基準の《実現》、倫理的世界秩序、あ

るいは森羅万象の交わりにおける愛と調和の増大、あるいは或る普

遍的な幸福状態への接近、あるいは――目標もやはりひとつの意味

であるから――或る普遍的な虚無状態を目標とする突進ですらあり

えたであろう。これらすべての考え方に共通なことは、なにか或る

ものがその過程そのものを通じて達成されるはずだということであ

る。――ところが、生成によってはなにものも到達されず、なにご

とも達成されないということが悟られるにいたる・・・したがって、

まったく特定の目的に関する幻滅であれ、もっと一般化されて《発

展》全体に関わる従来のすべての目的=仮説の不十分さの洞察であ

れ、いわゆる生成の目的に関する幻滅こそがニヒリズムの原因なの

である。(――人間はもはや生成の協力者ではなく、いわんや生成

の中心点ではない)。

 心理状態としてのニヒリズムが現われるのは、第二に、すべての

生起のなかに、またすべての生起のもとに、或る全体性、或る体系

、さらには或る組織化すら設定されたときである。そのとき驚嘆

や畏敬を渇望する魂は、支配と管理の最高の形態という全体的表象

に酔い痴れる(――それが論理学者の魂であれば、絶対的整合性や実

在弁証法だけでも、万有と和解するに足りるのである・・・)。一種

の統一、何らかの形式の《一元論》、そしてこの信のもとづいて、

人間は自分より無限に卓越している全体者に連帯し依存していると

いう深い感情に浸り、みずから神性の一様態となる・・・《公共の

福祉は、個々人の献身を要求する》・・・だが見たまえ、そのよう

な普遍的(公共的)なものは与えられていないのだ。ひっきょう人間

は、無限に価値ある全体者が彼を通じてはたらいているのでなけれ

ば、自分の価値への信念を失ってしまうのである。すなわち彼は、

分の価値を信ずることを可能にするために、そのような全体者を

発想したのである。

 心理状態としてのニヒリズムには、さらに第三の最後の形態が

ある。生成によってはなにごとかが到達されるはずはなく、すべて

の生成の底には、最高価値の気圏においてのように、個々人がその

うちに没入することを許されるいかなる偉大な統一も統宰していな

いという、これら二つのことが洞察された暁には、逃げ道として残

されているのは、この生成の世界全体を虚妄と断じ、この世界の彼

岸に或る世界を真の世界として虚構することだけである。けれども

、この世界が組み立てられたのはただ心理的欲求によるものにすぎ

ず、人間にそうする権利はまったくないのだということを人間が見

抜くや否や、ニヒリズムの最後の形態が発生する。これは、形而上

学的世界に対する不信をそれ自身のうちに含み、――真の世界を信

じることをおのれに禁ずるものである。この立場においては、生成

の実在性が唯一の実在性として承認され、背後世界や偽りの神性に

通ずるいかなる種類の間道も禁じられる――しかし、もはや誰も否

認しようとは思わないこの世界が耐えがたいのである・・・。

 ――根本において、何が起こったか。《目的》という概念をもっ

てしても、《統一》という概念をもってしても、《真理》という概

念をもってしても、現実存在の総体的性格は解釈することを許され

ないということが把握されたとき、ついに人々は無価値性の感情が

達成されたのである。現実存在によっては、何ものも到達されず、

なにごとも達成されない。生起の多様性のなかには、それを包括す

る統一が欠けている。すなわち、現実存在の性格は《真》ではなく

虚仮なのである・・・真の世界を信じ込ませるいかなる根拠も、

もはやまったくなくなった・・・要するに、われわれが世界にある

価値を嵌め込むために用いてきた《目的》《統一》《存在》という

カテゴリーが、再びわれわれによって世界から抜き取られる――す

ると世界はいまや無価値の様相を呈するのである……」(ハイデガー

著「ニーチェⅡ」『ニーチェにおける宇宙論と心理学の概念』より)

                       (つづく)


仮題「心なき身にもあわれは知られけり」(7)のつづき

2022-04-29 12:00:40 | 「死ぬことは文化である」

      仮題「心なき身にもあわれは知られけり」

 

           (7)のつづき


 ニーチェは「ニヒリズム」とは「最高の諸価値が無価値になると

いうこと」と言い、では、最高の諸価値とは何かと言えば、そもそ

もニーチェの父はルター派の裕福な牧師で元教師で、ニーチェが5

歳の時に亡くなり、ニーチェ自身も母の願いから父の後を継いで牧

師になるために神学部に籍を置いていたこと、そして、ニーチェか

ら大きな影響を受けたハイデガ―の父もまたカトリック教会の堂守

(寺男)として教会の関係者であったことから、彼らにとって最高の

価値とは「神」のほかになかった。そこで「最高の諸価値が無価値

になるということ」とは、「神」が存在しなくなること、つまり「

神が死ぬこと」であり、「神の死」とはニーチェ哲学の根幹をなす

思想にほかならない。

 ところで「神が死んだ」後の世界で最高の価値を有する存在とは

人間しかない。しかし「生成」としての人間もまた必ず「死ぬ」。

「ニヒリズム」とは「最高の諸価値が無価値になるということ」だ

とすれば、必ず死ぬ人間は「ニヒリズム」から逃れることができな

い。つまり、人間中心主義的世界とは、つまり近代社会とは「人間

の死」が常在化した「ニヒリズム」の時代に違いない。そして何よ

りも「ニヒリスティック(虚無的)」なことは、「神の死」によって

「神による救いの世界」の門も閉ざされてしまったことである。

                        (つづく)