「同じものの永遠なる回帰の思想」

2017-08-31 06:39:57 | 「存在とは何だ?」

        「同じものの永遠なる回帰の思想」

 

「ニーチェⅠ」

「ニーチェⅡ」

 「ニーチェⅠ」    「ニーチェⅡ」

 

 かつて、木田元著「ハイデガーの思想」(岩波新書268)を読ん

で、これはとても解り易かったので、このブログでも記事にしたこと

があった。(「存在とは何だ?」)随分前に、その木田元氏(2013

年死去)が新聞の書評か何かでマルティン・ハイデガー著「ニーチェⅠ

Ⅱ」(平凡社ライブラリー)を絶賛していたのを読んで、ハイデガーが

ニーチェを語っていることを知って驚いたこともあって、早速ネット

で取り寄せた。が、まったく難解で先に進めずほとんど読まずに積読

していた。ニーチェの本は「悲劇の誕生」から「ツァラチュースツァ

ラは斯く語りき」までランダムに「一応」目を通してきたが、どうし

ても晩年の永劫回帰思想だけは理解できずに居る。ネットなどで調べ

ても凡そのことは把握できても核心が掴めない。永遠の時間の中で限

界のある存在は無限に同じ場面に遭遇する、とすれば我々はそれを「

然り」と受け止めなくてはならない、のはぼんやりと理解できても、

ではペシミズムに陥らずに超えるにはどうすれいいのかが解らない。

ニーチェ自身も思考を積み重ねて辿り着いた思想ではなく、ある日突

然に直観的に閃いた思想であることを告白しているが、言葉によって

直截的には語っていない。たぶん言葉では語れないのだと思う。そう

いうこともあってハイデガーなら読み解いてくれると期待したが、ま

ず使われる言葉の意味をギリシャ時代から辿って定義し直して、そし

て様々な命題の誤謬が延々と語られ、優に千ページを超える重厚な本

のどこに私が捜し求める「真理」が隠されているのか倦ねてしまった。

 覚束ない理解を承知の上で、それではニーチェは、古い価値が崩壊し

て(神の死)、喪失によるペシミズムを乗り越えて「新しい価値定立の原

理を確立する」ためにはいったい何が重要かと言えば、真理などではな

く芸術であると言う。同書からの抜粋で、

一、芸術は力への意志のもっとも透明でもっとも熟知の形態である。

二、芸術は芸術家の側から把握されなくてはならない。

三、芸術とは、拡張された芸術家の概念によれば、あらゆる存在者の根

  本的生起である。存在者は存在するものである限りは、自分を創造

  する者、創造される者なのである。

四、芸術はペシミズムに対する卓越した反対運動である。

五、芸術は《真理》よりも多くの価値がある。

  (同書「芸術についての5つの命題」より)

 そして、「われわれは真理のために没落することがないようにするた

めに芸術をもっている」とまで言う。科学がどれほど世界の謎を解き明

かしたとしても我々にとっては何の精神的な救いにならない。それどこ

ろか解き明かされた「真理」は生命体としての存在者をいよいよ絶望へ

と追いやる。われわれが新しい価値を築くためには「美」への陶酔こそ

が重要だと唱える。「おのずから無為にして萌えあがり現れきたり、そ

しておのれへと還帰し消え去ってゆくものであり、萌えあがり現れきた

っておのれへと還帰してゆきながら場を占めている」存在者にとって新

しい「美」の創造こそが「力への意志」を目覚めさせる。

 まさに今は「美」が「真理」(科学)に取って代わられた時代である。

「美」そのもに代わって合理主義に基づく「機能美」に溢れている。周

りを見渡せば高層ビル群や舗装道路、自動車、スマートフォン、どれも

「美」そのもの価値によってわれわれを陶酔へと誘うことはない。「新

しい価値定立の原理を確立する」ためには、芸術家によって「新しい美」

が創造されなければならない。

 表紙カバーの絵は私の大好きな画家C.D.フリードリヒです。

「ニーチェⅠ」は「雲海を見下ろす旅人」部分、

「ニーチェⅡ」は「樫の森の中の修道院」部分です。

これに釣られて買ってしまった。

                            (おわり)


「存在とは何だ?」改稿

2013-10-01 23:18:26 | 「存在とは何だ?」
 
 以下の記事は、以前に投稿したものを改めたものですが、

もし、私が一番気に入っているものを挙げろと言われたら、

これです。                    ケケロ脱走兵




             「存在とは何だ?」改稿


 木田元(著)「ハイデガーの思想」を読んだ。実は、ハイデガーの 

「存在と時間」を読んだことがないので語ることはできないのだが、 

ぼんやりとではあるがハイデガーが何を考えていたのかが窺えた。

私は若い頃、東京の下町の図書館に時間を潰すために入った時、

そこでたまたまサルトルの「実存は本質に先行する」という言葉を目

にして、それまで本質を追い求めていた自分の思考を停止させられ

たことを思い出さずには居られない。それは自分にとって大きな転

換だった。その頃、ハイデガー「について」書かれた本も手に取った

が、確かその中でハイデガーは、サルトルのその言葉を聞いて「先

行すると言ったのか」と何度も尋ねた、とあったが、その意味がよ

く解った。つまり、ハイデガーによれば、西洋形而上学はプラトン、

アリストテレスによって存在を本質存在イデアと事実存在(自然)

の二義的に区別され、その優位性は時代によって何度も転換を繰り

返してきたと言うのだ。「そこで彼ハイデガーはサルトルのこの

主張を嗤って、『形而上学的命題を転倒しても、それは一個の形而

上学的命題にすぎない』」(同書より)。つまり、「『本質』は存在

に先行する」と言っても『命題の本質』は何も変わらない。卵と鶏

のジレンマと同じことなのだ。ただ、我々が「存在に関して『それ

は何であるか』と問うとき、存在はすでに『本質存在』に限局され」

(同書より)、そもそも「本質存在と事実存在との区分の遂行とその

準備とともに形而上学としての存在の歴史が始ま」ったのだ。だか

ら、上のサルトルの言葉は、時代が変われば簡単に「本質は実存に

先行する」ことになると言うのだ。ハイデガーの言葉は「存在とは

何か」を問う西洋形而上学の否定に他ならない。「ハイデガーは、

『それは何であるか』という問い方そのものが『哲学』の問い方で

あり、このように問うときすでに、存在に対するある態度決定がお

こなわれてしまっている、と言いたいのである」(木田元「ハイデ

ガーの思想」より岩波新書268)

 以下は、著者(木田元) と ハイデガーの言葉が交錯しますので、

便宜上、「 」は著者の、『 』 はハイデガーの、囲いのない言葉

は私のものとします。

 ハイデガーは、西洋形而上学はプラトン、アリストテレスによっ

てもたらされたと言います。それは、アリストテレスによって、存

在者を「何であるか」(本質)と「それがある」(事実)に区別し概念

化されて、「『この区別の遂行こそが形而上学を成立させたのだ』と

ハイデガーは見るのである。」

 つまり、『存在が区別されて本質存在と事実存在になる。この区

別の遂行とその準備とともに、形而上学としての存在の歴史が始ま

るのである』(ハイデガー著『ニーチェ』)

 それでは、それ以前のギリシャ人たちはどうだったのか?木田元

によると、「ハイデガーの考えでは、アナクシマンドロスやヘラク

レイトスやパルメニデスに代表される〈ソクラテス以前の思想家た

ち〉は、<叡知>を愛する「アネール・フィロソフォス(叡知を愛する

人)」ではあったが「哲学者」ではなかったし、彼らの思索も「叡知

を愛すること」ではあっても「哲学」ではなかった。彼らは哲学者

よりも「もっと偉大な思索者」だったのであり、「思索の別の次元」

に生きていたのである。」そして、存在者に対する想いとは、「『

存在者が存在のうちに集められているということ、存在の輝きのう

ちに存在者が現れ出ているということ、まさしくこのことがギリシ

ャ人を驚かせた』のであり、この驚きがギリシャ人を思索に駆り立

てたのだが、当初その思索は、おのれのうちで生起しているその出

来事をひたすら畏敬し、それに調和し随順するということでしかな

かった、と言うのである。」つまり、〈ある〉ことに驚き〈何のた

めにあるか>とは考えなかった。「ハイデガーは、このようにして

開始された思索を『偉大な始まりの開始』と呼ぶ。」 それでは彼

ら(古代ギリシャ人)は存在者をどのように解していたのだろうか。

「万物を<ピュシス>(自然)とみていた早期のギリシャ人は、存在者

の全体を〈おのずから発現し生成してきたもの〉と見ていたにちが

いない。」「ハイデガーは、この<ピシュス>についてこんなふうに

述べている。『ピシュスとはギリシャ人にとって存在者そのものと

存在者の全体を名指す本質的な名称である。ギリシャ人にとって存

在者とは、おのずから無為にして萌えあがり現れきたり、そしてお

のれへと還帰し消え去ってゆくものであり、萌えあがり現れきたっ

ておのれへと還帰してゆきながら場を占めているものなのである』」

 ところが、プラトン・アリストテレスによって存在は本質存在と

事実存在に分岐され、「〈始原の単純な存在〉つまり〈自然〉とし

ての存在が押しやられ、忘却されてしまう。このく存在忘却>とと

もに〈形而上学〉が始まるのである。」 そして、『イデアとしての

存在こそがいまや真に存在するものへと格上げされ、以前支配的で

あった存在者そのもの(つまり自然)は、プラトンが非存在者と呼ぶ

ものに零落してしまったのである。』 つまり、『イデアの優位がエ

イドス(形相)と協力して、本質存在(何であるか)を基準的存在につ

かせる。存在はなによりもまず本質存在ということになるのである』 

 「以後、形而上学の進行のなかで、この<本質存在>を規定する形

而上学的(超自然的)原理の呼び名は、プラトンの<イデア>から中世

キリスト教神学では<神>へ、さらには近代哲学においては<理性>へ

と変わってゆくが、それによって規定される〈本質存在〉の

在>に対する優位はゆるがない。」

 つまり、「〈哲学〉にとっては〈それは何であるか〉という問い

が本領であるが、そう問うことによってすでに〈存在〉を〈本質存

在〉に限局してしまっている、ということにほかならない。」それ

では、ハイデガーはその哲学についてどう思っていたのだろうか。

もちろん、時代と共に彼の思想も変遷するが、「西洋=ヨーロッパ

の命運を規定した〈哲学〉と呼ばれる知は、自然を超えた超自然的

原理を設定して自然からの離脱をはかり、自然を制作ポイエーシス

のための単なる材料ヒュレーにおとしめる反自然な知なのだ」。

そして、「近代ヨーロッパにおける物質的・機械論的自然観と人間

中心主義的文化形成の根源は、遠くギリシャ古典時代に端を発する

<存在=現前性=被制作性>という存在概念にあると見るべきだ」。

そこでハイデガーは、「人間を本来性に立ちかえらせ、本来的時間

性にもとづく新たな存在概念、おそらくは〈存在=生成〉という存

在概念を構成し、もう一度自然を生きて生成するものと見るような

自然観を復権することによって、明らかにゆきづまりにきている近

代ヨーロッパの人間中心主義的文化をくつがえそうと企てていたの

である」。ところが、彼の企ては挫折してしまった。それは、「人

間中心主義的文化の転換を人間が主導権をとっておこなうというの

は、明らかに自家撞着であろう。」「では、この形而上学の時代、

存在忘却の時代に、われわれは何がなしうるのか。失われた存在を

追想しつつ待つことだけだ、と後期のハイデガーは考えていたよう

である。」(木田元・著「ハイデガーの思想」より)

 ほとんどが引用になってしまったが、ハイデガーは本質存在「何

だ?」ばかりを追い求め事実存在「ある」を見失ってしまった人間

に始原の〈自然「ピシュス」〉を復権させようとしたが、その自家

撞着によって挫折した。そして、我々にできることはただ「待つこ

とだけだ」と考えていた。ところが、今や我々は人間中心主義的文

化の限界に接して、合理主義経済がもたらす環境破壊によって自然

環境が激変し、自然(事実存在)の逆襲に曝されている。たとえば、

人間が主導権をとって人間中心主義的文化の転換を図ることは自家

撞着かもしれないが、それでは自然(事実存在)の変動によってその

転換を余儀なくされているとしたらどうだろうか?いまや本質存在

の優位が事実存在〈自然〉の反抗によって脅かされ、「自然内存在」

としての現存在が文字通り〈存在=生成〉への転換を迫られている

としたらどうだろうか?自然の猛威とは本質存在に拘束されていた

事実存在がその束縛を断って反抗しているのだ。忘れ却られていた

自然の摂理がまさにその事実存在によって我々の存在了解(想定)を

脅かし、ハイデガーが言うように、我々の「叡知」がいつか甦える

時が来るとすれば、それは将に今こそがその時ではないだろうか。

つまり、ハイデガーの残した思想がようやく輝きを放って、歩むべ

き道を見失った近代人を導いてくれるその時が来たのではないだろ

うか。最後に、本の中で見つけたヴィトゲンシュタインの次の言葉

を引用します。

「神秘的なのは、世界がいかに〈あるか〉ではなく、世界がある

〈ということ〉である」

                                      (おわり)

「価値とは何だ」 ③

2012-12-25 05:26:25 | 「存在とは何だ?」



               「価値とは何だ」 ③



 価値の幻想が生み出され幻想への投機をバブル景気と呼ぶのだと

すれば、金融政策によって経済成長を生むとするのはバブル経済そ

のものである。それは、あたかもマルチ商法まがいの手口で、まず、

お金の遣り取りを先行させるためなら売買する商品は何だってかま

わないとばかりに、支出に見合った公共事業が安易な思い付きだけ

で考案されている。百年に一度起こるか起こらないか分らない自然

災害から暮らしを守るために、海岸線に巨大な防波堤を築くことが、

確かに災害への備えは安心をもたらすかもしれないが、果たして、

もしもの時以外の残りの99年間を自然の恵みから隔離されて暮ら

すことが豊かさをもたらせてくれるだろうか?日常の暮らしと非常時

への備えのバランスを考慮せずに、闇雲に強靭化すればいいと言

うのは地震列島の上で生きる前提を忘れた経済優先の結論では

ないか。「国土強靭化計画」などと呼ばれる公共投資がワイズ・スペ

ンディング であると信じ込んでいる専門家は「価値は転換する」こと

に思い及ばない。そもそも経済とは、人々が求めるからそこに価値

が発生するのだが、それでは、価値さえあれば誰もが求めるという

のは高度成長期の消費動向であって、価値の多様化した社会では

価値の相対化が始まっている。すでに、科学技術は万能ではないの

だ。近代化は誰もが認める社会的価値であるというのは、ものごと

の一面の利点だけを捕えた狭い論理から導き出された結論である。

我々の祖先が、地震列島の上で何度も大地震や巨大津波に苦しめ

られ、その結果、紙と藁だけで何度でも再生できる本家屋こそが相

応しいと思い至った柔軟な生活感、それを「国土柔軟化計画」と呼ぶ

なら、それこそは、自然に従いながら災害にもしなやかに対応できる

われれ近代人が忘れてしまった質素で気高い「価値る」日本文化

だったはずではなかったか


                                   (つづく)



「価値とは何だ」 ②

2012-12-16 22:18:16 | 「存在とは何だ?」

         「価値とは何だ」 ②

 以下のコラムは、素人の私が抱えている「ぼんやりとした不安」を、

専門家が的確に指摘していますので、ロイターのコラムより全文転

載します。


           *       *        *

Reuters JP
   

コラム:

日本経済を蝕む「モルヒネ中毒」

=河野龍太郎氏 2012年 12月 14日 19:02 JST

                            河野龍太郎パリバ証券 経済調査本部長
[ http://jp.reuters.com/article/mostViewedNews/idJPTYE8BD05D20121214 ] 
              
 [東京 14日 ロイター]

 わずかな例外を除き、日本では過去20年にわたって、財政政策
も金融政策も緩和方向に偏った極端な政策運営が続けられている。
軽微な景気減速の際にも追加財政や金融緩和が発動され、さらに
最近では日本銀行による財政赤字のファイナンス(マネタイゼーシ
ョン)を可能とすべく、財政制度や中央銀行制度を変更すべきだと
の前代未聞の提案まで聞かれるようになった。残念ながら、日本経
済が患う「モルヒネ中毒」は悪化するばかりである。
 筆者が常々指摘していることだが、財政政策や金融政策など裁量的
なマクロ安定化政策そのものに、新たな付加価値を生み出す力はな
い。マクロ安定化政策が企図するところは経済変動の平準化であり、
消費水準のボラティリティを抑えることで家計部門の効用を高める
ことである。消費水準そのものを高めることが企図されているわけ
ではない。マクロ安定化政策だけで潜在成長率を引き上げ、消費水
準を恒常的に高めることは不可能である。もしも、そうした政策だ
けで潜在成長率を高めることが可能だとすれば、古今東西、あらゆ
る国がすでに豊かになっていたはずである。
 マクロ安定化政策が一見して経済成長率を高めるように映るのは、
財政政策を通じて「将来の所得の先食い」が、金融政策を通じて「
将来の需要の前倒し」が可能になるからだ。無から有は生み出せな
い。上がった分だけ、将来、所得や支出は落ち込み、時間を通して
見れば、効果はゼロになる。それどころか財政・金融政策が資源と
所得の配分の歪みを作り出すことを考えると、真の効果はマイナス
となる可能性もある。これは、財政政策だけでなく、金融政策につ
いても当てはまる。 しかし、議論はいつの間にかすり替わり、「
低成長は裁量的な財政・金融政策が足りないからであって、まずは
追加財政と金融緩和で成長率を高めることが先決」となってしまう。
マクロ安定化政策は、財政・社会保障改革を先送りするための言い
訳として体よく使われるのである。
 その際、財政政策については、有用な公共事業を選べば、弊害は
小さく、効果は大きいという「ワイズ・スペンディング」論が幅を
きかすことが多い。確かに、財政の役割は、所得再配分とともに市
場の失敗によって民間では対応できない公共サービスを提供するこ
とで、資源配分の効率性を高めることにある。だが実際には、経済
対策を短期間でまとめようとすると、費用対効果が十分に検討され
ない事業ばかりが盛り込まれる。近年の経済対策を見ても、予算策
定の際に却下された事業の復活が目立つ。ワイズ・スペンディング
論は、机上の空論だ。
 ちなみに、日本では1960年代以降、社会インフラの整備が急
速に進んだため、今後はそれらの更新時期が徐々に訪れる。維持管
理費や更新費用を賄うと、新設に振り向ける資金をねん出すること
は早晩難しくなる。20年後には、維持管理費・更新費を全てねん
出することはできなくなるため、どの資本ストックを残すのかとい
う選択を迫られる。社会インフラを新たに作ると、毎年の予算の中
で維持管理費が大きな負担となるだけでなく、将来、莫大な更新費
が必要となることは十分理解されているだろうか。大型の公共事業
など拡張的な政策を支持する政治家たちは、誰がその費用負担を強
いられるのか、十分に考え抜いて発言しているのだろうか。
 もちろん、近視眼的な財政・金融政策の大盤振る舞いが政治家に
よって志向されること自体は、何ら驚きではない。潜在成長率の低
下を認めず、必要な改革を先送りし、裁量的政策を駆使することで
目の前の経済状況の見栄えを良くするという政治手法は、欧米諸国
でも長く用いられてきた。将来世代に負担を先送りする選択がなさ
れやすいことは、洋の東西を問わず、代議制民主主義を採用してい
ることのコストだと言えよう。
 政治家は、落選すれば「ただの人」になる。低成長を前提とした
制度改革は、増税や社会保障給付のカットを通じた歳出削減など有
権者に新たな負担を強いるだけなので、回避へのインセンティブが
強く働く。だからこそ、先進国はいずこも将来世代への負担押しつ
けの結果として公的債務の山をこしらえてしまうことになるのだ。
 しかし、こうした姿勢が行き過ぎれば、財政危機を招く。特に心
配なのが、日本の一部でマネタイゼーションへの安易な期待が広が
っていることだ。
 中央銀行はマネーという特殊な負債を発行することができるため、
マネタイゼーションによって極限まで財政ファイナンスを行うこと
ができる。だが、臨界点に達すれば、財政危機、金融危機、経済危
機を招き、われわれの経済・社会制度に壊滅的な打撃を与えること
は、歴史が証明している。そして、そうした歴史的教訓から得た知
恵として、政治から相当程度独立した中央銀行制度を構築し維持し
てきた。中央銀行の独立性の目的は、広い意味では「インフレ・バ
イアスの遮断」だが、より本質的には「マネタイゼーションの誘惑
の遮断」であることを今一度思い起こすべきだ。

<歴史の知恵を軽視してはいけない>

 もしかしたら、マネタイゼーションを支持する人々は、筆者の理
解を超えた経済政策を見出しているのだろうか。たとえば、正しい
政策の目的と手段を兼ね備えた為政者が、その目的を実現するため
に、今はあえて中央銀行の独立性に制限を加え、マネタイゼーショ
ンを推進しようとしているのだろうか。しかし、百歩譲って、その
とおりだとしても、そうした行為は厳に慎むべきだと考えている。
 まず、いったん変更を加えて、マネタイゼーションが可能になれ
ば、制度を元に戻すのは容易ではない。代議制民主主義の下で選ば
れる次代の為政者たちが、健全な財政・金融政策に復するとは限ら
ない。現にわれわれは戦前にこの失敗を経験している。どのような
為政者が選ばれても、彼らがマクロ経済や社会に対して致命的な失
敗を犯すことを避けるために、われわれは中央銀行に政府からの独
立性を付与し、同時にマネタイゼーションを厳しく禁じてきた経緯
がある。歴史の知恵が生み出した社会制度の根幹に変更を加える際
には、最大限慎重であらねばならない。
 また、資産市場を通じて政策効果が広く波及することを考えれば、
マネタイゼーションは新たなバブルを生み出す恐れがある。確かに、
中央銀行のファイナンスによって、政府が支出を大規模に増やし始
めた段階では、新たな所得や支出が湧き出てくるから、消費や投資
は増え景気は活気を取り戻す。成長率も高まるだろう。しかし、繰
り返すが、それは先食いにすぎない。効果が一巡すれば、増加して
いた支出は減少し、成長率も大きく落ち込む。後に残るのは、さら
に膨らんだ公的債務と収益性の低い政府主導の過剰ストックである。
要はバブル現象と変わらない。そして、成長率の低下を避けるため
に、再び中央銀行のファイナンスによって、財政支出を増やすとい
うプロセスが継続される。あたかもモルヒネ中毒のように、マネタ
イゼーションはいったん始まれば、歯止めがきかなくなるのである。
 危機に陥る過程を想像してみよう。まず長期金利上昇を抑えるた
めに、中央銀行は市場での国債買い支えを迫られるようになる。だ
が、次第に効かなくなり、政策そのものが事態を悪化させる。国債
を買い支えるために供給するマネタリーベースの価値の裏付けが、
中央銀行が保有する国債だからだ。国債が紙くずとなれば、マネー
の価値が失われる。長期国債の市場での発行は困難となり、最終的
には短期国債ですら買い手はいなくなり、中央銀行がほとんどを引
き受けるようになる。
 国内総生産(GDP)の2倍以上の公的債務を抱えている日本経
済は、危うい均衡の上に立っている。低金利が続いているから財政
破綻が避けられているとも考えられ、長期金利が急騰すれば、その
途端に財政危機・金融危機が始まる可能性がある。そのような中で、
資産価格に相当な影響を及ぼす極端な拡張的政策に打って出ること
は、一か八かの賭けとなるのではないだろうか。
 政策を決定する際には、少なくとも社会やマクロ経済に取り返し
のつかない悪影響を与えないという、慎重な姿勢が必要である。マ
クロ経済の仕組みに関する限り、われわれが理解していないことの
ほうが、まだまだ多い。裁量的なマクロ経済政策が万能と考えるこ
との危険性、あるいは進歩主義的な介入主義への過度な信頼に対す
る反省が、2000年代の世界的な金融危機から得られた教訓では
なかったか。


 *河野龍太郎氏は、BNPパリバ証券の経済調査本部長・チーフ
エコノミスト。横浜国立大学経済学部卒業後、住友銀行(現三井住
友銀行)に入行し、大和投資顧問(現大和住銀投信投資顧問)や第
一生命経済研究所を経て、2000年より現職。

 *本稿は、ロイター日本語ニュースサイトの外国為替フォーラム
に掲載されたものです。(here) 

 *本稿は、筆者の個人的見解に基づいています。


           *         *        *
                                                        
 大辞泉ワイズ・スペンディング( Wise spending )
 「賢い支出」という意味の英語。経済学者のケインズの言葉。
不況対策として財政支出を行う際は、将来的に利益・利便性を
生み出すことが見込まれる事業・分野に対して選択的に行うこ
とが望ましい、という意味で用いられる。

 大辞泉マネタイゼーション(Monetization)
  貨幣を発行すること。
 2 資源や資産などを現金化すること。特に、中央銀行が通貨
  増発して国債を引き受けることにより、政府の財政赤字を解消
  すること。国の財政支出拡大とマネタイゼーションを組み合わせ
  て 行うことで、景気浮揚とデフレ脱却の効果が見込めるとの意
  見もあるが、通貨の信認が低下し、極端なインフレを招くなどの
  副作用も懸念される。


「価値とは何だ」

2012-12-14 03:20:25 | 「存在とは何だ?」



         「価値とは何だ」


 そもそも、お金そのものには何の価値もない。嘘だと言うなら大

金を奪って無人島へ逃げてみればいい、いくらお金をばら撒いても

小魚一匹寄って来ないだろう。お金が価値を持つのは人間社会の中

だけのことである。つまり、お金の価値とは社会的価値である。何

も今さらそんなことを言われなくても分っていると思うかもしれな

いが、どうも最近の経済論争をそれこそ金も払わずにただ聞きして

いると、何かその大前提が忘れられているように思えてならない。

断っておきますが、私は金融にも経済学にもまったく興味のない無

学者でありますから、多分、これから述べることは何もわざわざ言

わなくてもその世界の常識であったり、或いはとんでもない誤りを

述べることになるかもしれませんし、また、自分が感じている矛盾

を上手く説明できる自信さえありませんが、ただ、生理に馴染まぬ

思想を排出もせずに身体に抱えていると健康に良くないので、素人

であるが故に臆せずその納得いかないことを吐き出します。

 今や世間はデフレ経済からの脱却を図るための様々な情報や

意見がマス・メディアを通して伝えられていますが、先にも述べたよ

うに、私自身は経済学などまったくの素人で所詮は家計簿程度の

知識しかないので、借金が給料の20倍あると言われればとても穏

やかではいられない。ところが、デフレ経済からの脱却こそを優先

しなければならないと訴えるリフレ派の専門家たちは挙って金融緩

和とそれに伴う積極財政を求めている。給料が下がり続ける限りい

くら切り詰めても借金は返せないので、そこで借金をしてでも給料を

上げろと言う。多分、それから先は家計簿と国家財政の違いから、

我が家ではお金が足らないからといって紙幣を刷ることができない

ので、煙に巻かれるしかないのだが、どうも納得できない。そこで、

そもそも価値とは何かと思った。

 「お金そのものには何の価値もない」とすれば、それでは我々は

何に価値を認めているのだろうか。近代社会は我々が創り出した技

術製品で溢れ返っているから何も答えに窮しませんが、例えば、こ

の記述を大袈裟に言えば世界中の人々に発信できるインターネット

の価値は、それが存在しなかった時代から見れば驚くべき価値の創

造であることは言を俟たないでしょう。しかし、パソコンなど触っ

たことのない者にとってはインターネットは直接的には何の価値も

もたらさない道具かもしれません。つまり、モノ自体にもその価値

の有る無しがあって、それは、その価値はそれに関わる主体から生

まれる。ピカソの抽象絵画はそれまでの具象に拘った伝統的な絵

画を一変させた価値ある芸術で何十億の値が付くが、絵に巧みさを

求める人にとっては子どもの絵以下の1円の価値すらない。価値と

はそれを認める人によって生み出される。そして、その価値の認識

を共有する人々によって社会的価値が創り出される。お金とは社会

的価値を共有するための社会的手段に過ぎない。だとすれば、いく

ら金をばら撒いたとしても、社会的価値が創生されることはない。


                                  (つづく)